連載・芦原英幸語録

2007年02月14日

連載・芦原英幸語録(9)

「わしは中卒じゃけん、大学出たような連中には頭じゃ勝てんけえ。ただ、わしは自分がアホやという事を知っちょるけん。なまじ利口づらしてる人間より世間を分かっとるつもりなんよ」


芦原英幸はいつも口癖のように「わしは中卒のアホじゃけん」と言っていた。初めのうちは、そんな芦原の言葉にどう答えたらいいか当惑していた。
しかし、芦原の言葉には一切の「含み」がなかった。それは劣等感(コンプレックス)から出たものではなく、また謙遜やヒガミでもなく、勿論居直りでも私に対する皮肉でもなかった。何度も芦原の言葉を聞くうちに、それがきわめて自然の感情から発せられるものだという事が分かってきた。
いつしか私は芦原の言葉に対して、「先生の勲章ですもんね、中卒っていうのが…」と笑い飛ばすようになっていた。
だが芦原と何年も付き合ってきた私は、芦原ほど頭の回転が早く決断力と行動力に富んだ、つまり「頭脳明晰」な人間は滅多にいない事を知っていた。決して芦原が自ら言うように「中卒だからアホ」だとは思った事はない。むしろ私は、芦原を「東大や早稲田、慶応を出たようなやつよりも、ずっと斬れる人物だ」と確信していた。少なくとも私が知る限り、空手・武道の世界で芦原英幸と比較できるクレバーな人間といえば、せいぜい松井章圭(極真会館館長)か盧山初雄(極真館館長)くらいしか思い浮かばない。

ある日、私は芦原と一緒に食事をしていた。六本木の東京全日空ホテルのレストランだったと記憶している。相変わらず芦原はよく喋った。いつしか道場の話題になり、話の流れから芦原が東京本部について新しい稽古法を採用したと言い出した。
「なっ、小島、ええ考えやろ。どう思う?」
会話の最中、必ずのように「どう思う?」と訊くのも芦原の癖だった。今となっては具体的に覚えていないが(ステップワークに関する話だったと思う)、とにかく芦原は私に東京本部で採用した稽古法または技術について私の意見を求めてきた。普通ならば「それはいいと思います」などと相槌を打っておけばよかった。だが、その時は何かの理由で芦原の質問が私の琴線に触れた。
私は疑問に思う事を正直に口にした。すると芦原は直ぐに行動した。当時は携帯電話などない時代だ。レストランの店内にある公衆電話からどこかに電話すると足早に席に戻ってきた。「先生、どこに電話してきたんですか?」と私が訊くと、芦原は「支部長の吉田を呼び出したんよ」と平然と言う。約30分後、支部長の吉田が息せききって走ってきた。芦原は「まあ座れや」と言い、吉田が腰を下ろしたと思いきや身を乗り出した。
「あの件なんやけど、今小島に話したら〜というんよ。おまえ、直ぐにもう一度やり直してくれんか?」
吉田は最初は当惑の表情を浮かべていたが、途中から芦原の話に合点がいったようで、「押忍、分かりました」と答えると、また立ち上がり風のように去っていった。店を出て行く吉田の背中を見ながら芦原は言った。

「風林火山っちゅう言葉があるやろ。山崎(照朝)が使ってるやつや。あれは武田信玄の軍師だった山本勘助が旗印にした言葉で…、わしはずっと風林火山を教訓にしてきたんよ。山崎と添野(義二)が八幡浜に出稽古にきてた頃、いっつも芦原が言うもんじゃけん、いつの間にか山崎が真似して使いよる。人間、時には我慢も必要なんよ。わしも極真辞めた時、我慢の時期があった。そういう時は徹底して動かん。『山』のようにな。そんで機会を待つんよ。新しい事をやろうとする時は他人に気づかれず『林』のように静かに計画を練る。何かあったら『風』のように素早く動くんよ。情報収集こそ、まさに『風』のごとくや。それで攻撃する時は『火』のように一斉に攻め込む。これが風林火山の教えなんよ。芦原は中卒じゃけん、教養は足りんけど、この風林火山の教訓だけを知るだけで、何事にも通じる事が分かったけん。空手もケンカもそうよ。攻める時は『火』のようにとことんやっつけて、『風』のように逃げて、『林』のように敵の様子を窺う。なあ小島、人生は全て風林火山だけで生きていけるんよ」

最近、NHKかどこかのテレビドラマでも「風林火山」をやっているらしい。私も子どもの頃、三船敏郎が主演した映画「風林火山」を見て感動した記憶がある。芦原が「風林火山」という言葉を知ったのが、この映画かどうかは聞かなかったが、少なくとも芦原英幸は「風林火山」を実生活の中に生かしていた。
私が現在、夢現舎を率いながら、よく塚本佳子やスタッフに「風林火山」の喩えを話し、自らの人生の教訓にしているのは映画を超えて、この芦原の言葉によるところが大きい。
ちなみに松井章圭も芦原に劣らず行動が素早い。松井については別な機会に書くが、芦原の行動力は頭の回転の早さの証明であり、決断力にも通じていると私は思っている。

また、ある日、私は芦原とともに講談社を訪れた。当時、芦原の担当だった編集部長のM氏は、会議室に入るや否や茶封筒から書類を取り出した。それは芦原の著書かビデオに関する契約書だった。
M氏はいつものようにくだけた口調で、「とりあえず契約書をざっと見て下さい。特に問題はないと思いますが…」と言いながら、契約書を開いて芦原に差し出した。しかし、芦原は一切見ようとしなかった。

「Mさん、わしは中卒じゃけん。こういう難しいものはさっぱり分からんけん。見ても無駄なんよ。これは預かって顧問弁護士に見てもらうけん。返事はそれまで待って下さい」

M氏が「それは分かってますが、一応説明だけさせて下さい」と言っても、芦原は全く応じなかった。芦原の頑なな姿勢に、M氏は笑いながら「先生には参りますよ」と匙を投げた。講談社からの帰りのタクシーで芦原は私に言った。

「人間には分というものがあるんよ。自分の分をわきまえず、人間は背伸びして利口ぶろうとする。そこに落とし穴が待ってるんよ。わしは中卒じゃけん、分からんものには絶対に首を突っ込まん。餅屋は餅屋と言うように、専門家に任せればいいんよ。芦原会館には空手と別に芦原スポーツクラブがあってな。そこには健康のためにトレーニングしにくる年配の人がたくさんおるんよ。愛媛大学の教授とか医者とか…、教養のある人間が一杯おる。わしは何か自分の分を超えた事がある時は、そういう専門家にアドバイスをしてもらう。建物の事は大工や建築士に相談する。怪我したら整形外科の医者に訊く。法律については顧問弁護士に全部任せる。芦原にはそういうブレーンがおるけん。アホはアホなりにやってけるんよ。小島、絶対に自分を過信しちゃいけんよ。小島は早稲田を卒業したインテリじゃけん。けどな、そのくらいのインテリは腐るほどおる。東(孝)のように、早稲田、早稲田と夜学のくせに粋がってると、他人の声が聞こえなくなって何にも見えなくなるけんな。芦原は中卒のアホで一介の空手職人で十分なんよ。それ以外の事はブレーンに任せる。小島もそうや。何でもかんでも1人で出来るとは思わんこっちゃ」

「無知の知」という言葉がある。芦原英幸は自らを「中卒のアホ」と言いながら、「無知の知」を経験で会得していたのだ。
今でも、あの時の芦原の言葉は私が生きる上での大きな支えになっている。

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2006年11月15日

連載・芦原英幸語録(8)

松山の芦原会館総本部には1986年以来、1990年まで都合5ー6回は足を運んでいる。
あれは何度目の松山訪問の時だったろうか? 正確には覚えてないが、少なくとも芦原先生の娘さんが(2人いるはずだが、どちらの方かは忘れてしまった)中学生の頃だった。
当時、私は芦原会館近くのボロなビジネスホテルに宿泊していた。毎回、滞在は1週間程度だった。毎日、夜遅くまで芦原先生と行動を供にし、朝は昼前には必ず芦原先生がホテルまで迎えにきてくれた。その日も、芦原先生と昼食を食べ、総本部1階のアスレチックジムでウェイトトレーニングのやり方を芦原先生から教えてもらっていた。
とても閑かな昼下がりだった。奥様は買い物の帰りらしく自転車に乗り、前の籠にはスーパーの袋を詰め込んで帰ってきた。袋からは白い大根と青い葱がはみ出していた。芦原先生は、「今日はいい天気じゃけん。松山港にでも行こうか…」なんて言いながら欠伸をしていた。
そこに娘さんが学校から帰ってきた。ところが娘さんは何故か泣きベソをかいている。自転車を会館脇に止めた奥様が娘さんに駆け寄り、ヒソヒソと何か話していた。芦原先生も怪訝な顔で2人を見ていた。すると、奥様は娘さんの手を引いて私達の方にやってきた。一目で表情が厳しいのがわかった。奥様によると、娘さんが下校中、変質者の男に悪戯されそうになったという。それで娘さんは必死に逃げてきたと奥様は言った。奥様は娘さんに「でも、何にもされなかったのよね?」と聞くと、娘さんは黙って頷いた。私も胸を撫で下ろしていたが、フッと芦原先生を見ると、すでに鬼のような形相になっていた。
芦原先生は、娘さんに「分かった。ワシが痛め付けてきちゃるけん!」と言うと、そのまま走り去っていった。奥様が止めようとしたが、その時にはもう芦原先生の姿はなかった。私達は会館3階の私室に入った。娘さんはいつしか元気を取り戻していた。奥様が入れてくれたコーヒーを飲みながら、改めて娘さんの話を詳しく聞いた。
娘さんによれば、彼女は友人数名と談笑しながら歩いていたという。すると前からズボンの股間のチャックを下ろした中年の男が、卑猥な言葉を言いながら娘さん達を通せんぼするように立ち塞がった。当然、娘さん達は嬌声を上げながら走って逃げた。結局、その変質者は娘さん達を追わず、娘さん達は無事に逃げきる事が出来た…。よくいる変質者の話である。奥様も笑顔に戻り「困ったものね。一応、学校に連絡しておこうかしら」と言うと、実際に電話の受話器を取った。そして今回の経緯を担任の教師か誰かに話していた。
私はハッと気付いた。
「芦原先生、どこにいっちゃったんだろう?」
私は電話を終えた奥様に芦原先生の事を話した。今度は芦原先生の行方の心配である。奥様は1階にいる職員の弟子を呼んだ。2人の弟子がやってきた。
考えてみれば芦原先生も気が早過ぎる。自分の可愛い娘さんが「痴漢」に遭ったのだから怒るのは当然ではあるが、実際、芦原先生は変質者の風貌も、どこで娘さん達が変質者に遭遇したのかも、何にも娘さんから聞かないまま出ていったのだ。仮に、その変質者が再び同じような行動をしていれば分かるかもしれない。芦原先生は娘さんの通学路を知っている訳だから、道伝いに行けば変質者を見つける事も不可能ではないだろうが…。しかし、松山は地方とはいっても四国一の大都会だ。たんぼや畑が広がる田舎ではない。相手の姿の見当もつかないのに捜し出すのは少々無茶ではないだろうか?
そんな事を考えながら、私は奥様や娘さん、弟子達を見ると、やはりみんなも浮かない顔をしている。私は言った。
「先生は相手の顔もわからずにどう捜そうと思ってるんでしょうか?」
だが、どうも奥様達の反応は鈍い。私は何か場違いな発言でもしたのだろうかと自問自答し始めた。すると、奥様は「相手が見つからない方がいいのよ。見つけてしまったら何するか分からんけん。殺してしまうかもしれないのよ」と言った。弟子達も、そして娘さんまでもが真剣な顔で頷いた。
私は、ようやく合点がいった。
「そうか…。娘さんには全然被害がなかった訳だから、とりあえずよしとして、それなのに先生は怒って駆け出していってしまった。本当に芦原先生がその変質者を見つけてしまったら、殺してしまう可能性もある」
私達は一転して、芦原先生が変質者を捜し出さない事を祈り始めた。
だが芦原先生はいつになっても戻ってこない。私は奥様や弟子の方達と1階に降りて芦原先生の帰りを待った。時間はすでに午後5時を回っている。芦原先生が出ていってから3時間が過ぎていた。奥様も心配しながら「どうしちゃったのかしら。警察に連絡しておこうかしら」と落ち着かない。娘さんもやはり心配そうに奥様に寄り添っていた。
陽が沈み空は暗くなっていた。そろそろ6時になるという頃、芦原先生は戻ってきた。真っ赤な顔をして汗だらけだ。私達は芦原先生に駆け寄った。すると、芦原先生は娘さんを抱き抱えながら言った。

「すまん、すまん。ワシ、変態男の顔も何にも知らんまま捜しちょったけん。とうとう見つからんかった。ワシは直感が鋭いけん、顔なんか知らなくても変態男なら直ぐに分かると思っちょった。今回は勘が狂ったけん。見つけだして金玉引っ込抜いてやろうと思っちょったけん。勘弁してな…」

芦原先生の言葉に私達が小さく安堵の声を上げたのは言うまでもない。同時に私は何故か鳥肌が立った。
後で芦原先生が言うところでは、娘さんの通学路を中心に街中をうろつきながら不良やゴロツキは勿論の事、道を歩いている男性を見付け次第、「オマエが変態男か?」と聞いて歩いたという。奥様は呆れ顔で言った。

「みんな怖かったでしょうね。あのギョロ目で因縁つけられて、何人の被害者が出た事か? 不良っぽい人なんか張り手の1つや2つ、やられたに違いないわ。困ったもんだわ」

今回の芦原英幸語録は奥様の言葉も付録の2本立てでお贈りした。

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2006年10月03日

連載・芦原英幸語録(7)

前回の「芦原英幸語録6」に関連した「銭」の話。これは私が独立した時に芦原から贈られた言葉より数年前に聞いた話である。
1985年から「月刊空手道」を離れるまでの4年間近く、私は大道塾代表・東孝の依頼で大道塾機関紙「大道無門」を制作していた。タブロイド版で8ページ程度の些細なものだったが、私は一切のギャラを東から貰わずボランティアとして「大道無門」の取材、執筆からデザイン、印刷まで、全て私が自腹を切って作っていた。デザインは懇意のデザイナーに格安で頼み、印刷も長野の知人が経営する会社にタダ同然で頼んだ。当時、手取り16万円(賞与なし)の私には痛い出費だったが、私は心底大道塾の為に尽くしたつもりだ。「大道無門」は大道塾の会員に売られた。当時の価格が幾らだったかは正確に覚えていない。
「大道無門」を何紙か出したある日、東は私に言った。「意外に『大道無門』が売れて儲かった。前回の号は50万円の黒字だ。このままなら100万も夢じゃないな」。私は内心、「そりゃタダなんだから赤字になるはずはないのに…」と思いながら、それでも少し嬉しかった。
松山の芦原会館本部に行った際、何かのキッカケから機関誌の話題になった。私は極真会館の「パワー空手」の例を持ち出し、今後芦原会館も機関誌を作るべきだと芦原に説いた。芦原も頷き、「その時は小島に頼むけん」と答えた。調子に乗った私は口を滑らせた。
「先生、大道塾の機関紙『大道無門』は1号で50万円儲かったと東先生が言ってました。芦原会館ならば軽く100万円は儲かると思いますよ」
すると芦原は軽く笑みを浮かべながら言った。

「なあ小島、芦原は50万だ100万の商売はしとらんけん。芦原が動かす銭はゼロが1つ違うんよ。最低でも300、500以下は芦原が動かす銭じゃないけん。小島よく聞けや。銭は必要なんよ。銭がなければ何にも出来んと前からいっちょるけん。稼いだ銭をワシは自分の懐に入れるんと違う。1千万、2千万の銭を動かすようでなけりゃ芦原会館は大山先生の極真とは勝負が出来んのよ。何も汚い事して稼ぐ訳じゃない。分かるやろ、芦原会館の月謝は極真、大道塾に比べて1番安いけん。汚い銭は『アブク銭』といって身に付かんし、最後はゼロになるんよ。生徒に負担を掛けて稼ぐのは邪道なんよ。東の『大道無門』も結局、生徒に強制的に買わせとるんやろ。それで50万儲かったって騒ぐ東はケツの穴がちっちゃい男やのう。そんで小島は東から幾ら貰っとるんよ?」
私は正直にタダで作っていると答えた。芦原は呆れた顔で続けた。
「情けない。小島よく覚えとけや。人前で豪快ぶってガハハって大酒くらって男気を見せてるヤツに限って実はしみったれでケツの穴がちっちゃいんよ。東もその1人や。酒くらって高笑いして、それが男だと勘違いしとるだけなんよ。自分を大きく見せる演出をしとるんよ。それで下の人間にタダで新聞作らせて、50万儲かったってか?ワシは呆れてものがいえんよ。今ワシは講談社で本出して、15万部売っとんの知っとるやろ?実技書で15万部は講談社でも新記録だって騒いどるよ。ビデオは日商岩井が世界で売っとるんよ。そうして稼いだ銭で株や土地に投資して、それで更に稼いだ銭で芦原は極真を相手に勝負を掛けていくんよ。小島、銭は力なんよ」

1986年当時、私には芦原が言う言葉の意味が心底では分かっていなかった。だが、自分が独立し、明日の生活でさえ見えなくなっていた頃、改めて芦原から「人間、舐められたら終わりじゃけん…」という言葉とともに、改めて「銭」の大切さを痛感させられるのである。

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2006年09月25日

連載・芦原英幸語録(6)  ー改訂版

1988年の晩秋、私が福昌堂を退社し、夢現舎(まだ、この頃は「拳工房」と名乗っていた)の設立に走り回っていた頃、芦原は私に言った。この言葉はある意味、大山倍達の口癖だった「力なき正義は無能なり」に通じるものがあるように私には思えた。むしろ芦原の言葉は生々しい分だけ、その後の私の生き方にきわめて大きな教訓となって生き続けている。

「小島、これは何も空手の世界に限った事じゃないけん…。独立して会社を起こして、世間の荒海のど真ん中で生きていく訳じゃけん、これだけはよく覚えておいて欲しいんよ。いいか小島、絶対に人に舐められたらいけんよ。嫌われてもいいから怖がられる人間になれ。悪口を叩かれてもいいから軽んじられるな。人間は一度舐められたらトコトン追い詰められ、潰されておしまいなんよ。何事も最初が肝心じゃけん。時には他人に頭を下げなくてはならん事もある。でも気をつけろ。頭を下げる事と舐められる事は違うんよ。頭を下げても卑屈になっちゃいけん。少しでも相手が舐めた態度を見せたら脅してもいいけん。ただ脅すんと違うんよ。笑いながらも眼で脅せ。それでも分からんヤツには『いつでもケンカは買いますよ。こっちを舐めたら痛い目に合いますよ』と、直接言ってやれ。たとえヤクザと思われてもいい、舐められるよりはずっといいけん。そんで相手が恐縮して小島の怖さを思い知ったら初めて笑うんよ。そうしたら、愛想崩して隙を見せても大丈夫や。ただ忘れちゃならんのは、『力』は何も腕力だけじゃないって事や。『銭』も力の一つや。『武士は食わねど高楊子』っちゅうんか?日本人は銭を稼ぐ事を軽んじるところがあるけん。そんな考えは貧乏人の嫉妬なんよ。銭がなければな〜んにもできん。弟子にラーメン一杯でさえ食わせられんのよ。カツ丼を頼みたくてもライスしか食わせてやれんかった。おかずは塩と醤油、ソースだけ。それも、いつのまにか『ソースは高いから使わせん』と言われた。ワシは貧乏で嫌というほど銭の苦労をしてきたけん。銭さえあれば何でも出来る。銭は『力』なんよ。それに銭を稼いだら、ちゃんとした専属の『法律家』を用意しておくのも『力』なんよ。今はまだそんな余裕はないと思うけん、商売やる以上、小島はまずは銭を稼がにゃいかん。銭を稼いでちゃんと飯が食えるようになったら、早く『法律家』を雇う事や」

私は芦原の言葉に身がすくむ思いがした。芦原はしみじみと続けた。

「ワシが四国に渡って道場を開いた時、何人道場破りがきた事か…。そりゃあ数えきれんよ。最初のうちは、ワシも他人の土地でやっていく訳じゃけん。なるべく相手にならんよう気い付けとった。中村(忠)先輩に『芦原は他流の人間がくると直ぐに道場破りと思い込んで無茶苦茶する。中には極真に興味を持って入門したくてくる連中もいる。短気は損気だ』と、よお言われたけん。しかし芦原がニコニコして『どうも、いらっしゃい』なんて愛想よくして、適当にあしらって返すと、そいつら他で『芦原はビビッて土下座をした』なんて言い振らしよる。今度は、怪我せんよう軽く転がして『ご苦労さん』と返すと、他では『芦原といい勝負をした』と虚勢を張るんよ。それでワシは分かった。中村先輩の言葉はワシの後ろに何人も凄い連中がいる本部だから通用するもんだと。四国では極真の看板を背負うのは芦原一人しかいないんよ。ならば、この芦原が少しでも舐められたらいかん、そう思った。それからです。道場破りがきたら、徹底的に痛め付けた。必ず腕か足の骨を折ってやったけん。そんで二度と芦原の前に出てこられんよう、厭っていう程なぶってやるんよ。ゲロ吐いて小便漏らし、死ぬ一歩手前まで恐怖感を味わわせてやる。徹底的にイジメぬかんといけん。そこまでせんと分からんヤツがおるんよ。これは会社経営も同じ事やとワシは思う。やる時は徹底的にやる。絶対逃げちゃいけん。舐められたら終わりや。『ケンカはいつでも買いますよ。私を舐めたら痛い目にあいますよ』。そう突っ張り通せや。これが芦原が小島に贈る言葉じゃけん」

私はあれ以来、芦原の言葉を心に刻んで生きてきた。東京のど真ん中で夢現舎を設立し、今日まで18年近くやってきた。幾度も修羅場を潜ってきた。力のある顧問弁護士も顧問会計士も付けた。全て芦原英幸の言葉に従ってきたつもりだ。そして今、改めて芦原の言葉を噛み締めている。

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