2007年06月

2007年06月28日

投稿/「極真空手を始めて変わった自分」〜一撃倶楽部・Kinki-fighter

極真空手を始めて変わった自分


私は元来小心で、オドオドといつも何かに怯えているような性格だった。それは幼少時代から現在まで変わらない。それに何をやっても長続きしない、劣等生でもあった。
だからだろうか。私の半生は挫折と後悔の繰り返しだった。
両親ともに中卒で、長く商売をしていた。両親(特に母親)は自らの学歴コンプレックスの反動で、子供の教育には異様なほど熱心だった。私は小学校から受験をさせられた。いまでいう「お受験」というやつである。
試験当日。試験監督を前に歌を歌わされるテストがあった。私はさっそく、それで大失敗を犯してしまう。緊張した私は歌が唄えないどころか試験監督の質問にも何も答えられないどころか、しゃべることも出来ずに当然、不合格。
それが後の私の落第人生のオープニングであった。

小学校時代は「九九」こそ早く覚えたものの、それ以上のレベルにはついていけなくなった。とにかく私の場合、小心者のくせに落ち着きのないお調子者のところもあった。授業中じっとしておれず、他の生徒にちょっかいを出したり…、完全な落ちこぼれである。
最近、小学校時代の古い通知書が出てきたが、中に担任教師の文章で、「いまだに授業中と休み時間の区別がつかないようです〜」と書かれてあったのを発見して、つい苦笑いしてしまった。もしかしたら、今でいうADHD(注意欠陥多動障害)に該当する子供だったのかもしれない。
父親は働き者ではあったが、アルコール依存症で、いつも酔っては自宅で暴れたり、母親や親戚と喧嘩を繰り返していた。父親といえば、そんな姿しか思い浮かばない。一度、酒の上で大喧嘩をやらかし豚箱に入れられたこともあるらしい。

小学校も高学年になると、学校も面白くなく、親からも誰からも理解されていない気がして、徐々に性格が荒んでいった。同級生とも、度々些細な理由で殴り合いの喧嘩を繰り返した。
その頃、私は山口組三代目・田岡一雄氏の自伝を愛読していた。今となれば、何故、そこまで田岡氏に強い憧れを抱いたのか全く理由が思い出せない。友人の話によれば、彼の担任の先生が私のことを「あんな奴とつきあっていたらロクな者にならないぞ」と言っていたそうだ。
多分、私はどんどん落ちこぼれていく自分に焦りながらも、その反動としてアウトローの英雄であった田岡氏に大きな魅力を感じたのだろう。しかし、小学生の子供が田岡氏の本を愛読していたというのも、やはり異常だったと思う。

そんなこんなで、中学受験をするも、またしても失敗。受験勉強などほとんどしていないのだから不合理は当然なのだが、それでも私は落ち込んだ。
失意の中、公立中学の入学式を迎えることになったが、式の終わった後、隣の小学校から入学してきたワルの番長が話しかけてきた。
「お前が○○小学校の△△か。よろしくな」
この時、私は初めて自分がワルの一員であることを実感した。だが、番長の言葉がとても不愉快に感じた。私はほとんど無視していた。
そういえば、中学入学後のある日、ワルばかりが集まって野球の試合をしたことがある。私はピッチャーをしていたが、なかなかコントロールが決まらず「このへたくそ!」と、当時ボクシングを習っていた番長格の友人になじられ、逆上した私は無言で腹に思いっきり前蹴りを入れた。もちろん、当時の私は空手など知るよしもなく、単なるまぐれ当たりだった。
奴はのたうちまわっていた。それから奴は私の前で卑屈になった。同時に、これをきっかけにして私は不良たちから一目置かれるようになった。しかし、何故かそれ以降、私は喧嘩が馬鹿馬鹿しく感じられるようになった。
ちなみに、その友人はずっと後に後楽園ホールでボクシングの新人王タイトルを取ったそうである。

中学時代の私は相変わらず落第生だったが、それでも何とか勉強をしようという気になっていた。というより勉強を頑張って早く自分の落第人生から決別したかった。
当時、国立大学の学生だった人に家庭教師をしていただいた。それが、その後の私の人生を決定づける最初の人になろうとは夢にも思わなかった。この家庭教師との出会いによって、私は真面目になろうと決心した。おかげで勉強も少しづつ理解できるようになってきた。
ワル仲間からも足を洗いかけていた。そのため、20人くらいのワル連中に学校の廊下に呼び出されて殴る蹴るのリンチを受けた記憶がある。その数を上回る見物人もいて、みんながはやし立てて私の惨めに殴られるさまを喜んでいた。
しかし、私はこれを耐えることでワルから離れて自分なりの人生を歩んでいくのだと誓った。
ところが、そこまでして真面目 にひたすら勉強を続けたにもかかわらず、結局、志望高校にも落ちた。はっきり言ってお先真っ暗でどん底の気分であった。滑り止めの高校に入学した私は、毎日青白い顔をして覇気のない生活を送っていた。
何もかも投げ出したいと思ったが、何とか学校にだけは通学していた。しかし、当時の私は完全な「抜け殻」だった。不思議なことに、今も高校時代の記憶がすっぽり抜け落ちている。

その後も、私はいろんな出会いと別れを繰り返し、汚名返上を期して大学入試に臨んだが、またもや受験校全てに不合格。滑り止めまで滑る有様だった。1浪後の受験も、滑り止めも含めて どこにも合格できなかった。
結局、私は2浪もして3流大学に入学。一応、卒業して国家資格をとれば何とかやっていける学部であったため、大学時代はそこそこ授業にも出ていた。しかし、ほとんど目立たない学生であった。何の取り柄もない、相変わらずの落ちこぼれだった。
授業では大変陰湿ないじめにあったこともあり、気分も毎日が憂鬱で、学校を中退して別の道に進もうかと考えていた矢先のことだった。
ある人の勧めで、私は極真空手の道場を知った。私は何の躊躇いもなく道場に入門した。

喧嘩に強くなって私をいじめた奴らを見返してやりたいという一心で私は稽古に励んだ。その道場は分支部であったため、入門当初は直接師範をお見かけする機会はなかった。指導は茶帯の門下生が行っていた。
ある日、道場に体格の大きな男性が入ってきた。黙って空手着に着替えると黒帯を締めた。稽古が始まると、その方が前に立って指導を行った。この時になって、私はやっとその人が師範だと理解した。はじめてお見かけする師範はとても強そうで気迫に満ちていた。また師範の指導は大変厳しかった。しかし、稽古が終わった後の師範は実にジェントルマンであった。
この師範こそが、後の私の人生を決定づける2人目の恩人であった。
学生時代は空手の稽古三昧だった。稽古は厳しく恐怖感との戦いだったが、日々自分が強くなっていることが実感できた。次第に、自分の中に一本の筋が通ったように感じ始めた。
いつもビクビクしていた小心な自分を、少しづつ克服できる喜びは、さらに私を極真空手の虜にした。生活の中で、「嫌だ、もうだめだ」と思うことがあっても、道場で学んだ、「しんどいところから、もう一歩!」の精神で、くじけない気持ちを持てるようになった。
極真空手の黒帯を締めることができたとき、私はそれまでの人生で味わったことのない無上の達成感に包まれた。「10人組手」は、絶対に最後まで立ち続けるという決意で臨んだ。そして、気力で達成した。
「10人組手」の達成…これは私の大きな財産である。その後の人生も、いろいろと岐路に立たされることもあった。だが極真空手の黒帯を締めているというプライドで今日まで頑張ってくることができた。
極真空手創始者・大山倍達総裁の言葉に、「喧嘩に強い人は社会に出ても強いよ」とある。それは実際に社会に出て、殴り合いの喧嘩をして勝てという意味ではないだろう。自分に自信を持てるようになるまで稽古をし、その稽古で得た経験を自信に変えろ…大山総裁はそう諭しているのだと私は理解している。
男なら強くありたい!
今も、私はそんな思いで毎日を過ごしている。劣等感の塊であった自分を「男」にしてくれたのは紛れもない極真空手なのである。これからも精一杯、できる限り稽古を続けていきたいと思っている。そして、そんな極真空手の素晴らしさを知る仲間と出会えた喜びとともに、ひとりでも多くの人たちに極真空手の魅力を知ってほしいと願っている。

記/一撃倶楽部・教士〜Kinki-fighter

samurai_mugen at 20:46|Permalinkclip!投稿 

2007年06月27日

小島一志・作品集/「格闘技 史上最強ガイド」改訂版(2)

小島一志・作品集
「格闘技 史上最強ガイド」(2)
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打撃格闘技と組技格闘技の選手の興味深いタイプの違いって?


格闘技を大きく分類するならば打撃格闘技と組技格闘技に分けることができる。打撃格闘技とはパンチや蹴りといった打撃技を主体とする格闘技を指す。また組技格闘技は投げ技や絞め・関節技を主な体系とする格闘技のことをいう。
打撃格闘技に分類されるのがボクシング、キックボクシング、空手などだ。柔道やレスリングなどは組技格闘技の範疇に入る。ちなみに打撃技と組技の両方を体系に含む格闘技を一般に「総合格闘技」と呼んでいる。
さて、柔道やレスリングなどの組技格闘技を学ぶ人は、温厚で包容力がある印象が強く、対してボクシングや空手を学ぶ人間は眼光鋭く、攻撃的で孤独癖を持っているというイメージが強いというのが世間の見方のようだ。
これは多分に体格的な特長から判断されるイメージであると思われるが、だからといって決して的外れではない。たしかに打撃格闘技と組技格闘技では、その技術や練習体系の違いから、体格的な差のみならず、実践する人の性格や気質にまで大きな差となって表れているようだ。
この点について少々考察してみたい。

打撃格闘技は、その基本的な競技形態が「打ち合い」であることから、ある程度離れた距離から勝負が開始される。当然、スパーリングや試合の第1段階では、両者とも厳しい視線の応酬から始まる。打撃格闘技を学ぶ者の視線がキツいというのは、このような習性の影響と思われる。
また、動作的には自らダメージを負わないように、攻撃は打って離れるという「点」の攻防が主となる。従って、パンチにしても蹴りにしても、一発ごとの瞬発力が重要になってくる。使われる筋肉は主に単体であり、筋肉の連動性は低いといえる(ヒッティングマッスルという一連の連動はあるが…)。そのため、打撃格闘技を学ぶ者はウェイトトレーニング(筋力トレーニング)を重視し、個々の筋肉群を大きくしていく努力をする傾向が強い。
さらに打撃格闘技の競技では、自分から積極的に攻撃を仕掛けていかなければならないため、体を常に軽快にしておく必要がある。そのため体脂肪の少ないシャープな肉体が理想ということになる。打撃は常に苦痛を伴うため、精神的な攻撃性が重視される点も無視出来ない。

対して組技格闘技では、相手を掴んだ、または掴もうとする接近間合いから戦いが始まる。
打撃格闘技のように自分だけの意志で戦いをリードすることができない。常に相手の動きに合わせた攻防が求められる。そのため、組技格闘技では筋肉単体ではなく大小合わせた筋肉の連動性が重視されてくる。
また相手と組んでの攻防が主体となる組技格闘技では、押したり引いたりする体力的なプレッシャーに対抗する力や、向き合った時に相手に与える威圧感も重要である。そのため、必要な筋肉以上の体重が求められやすい。
その結果、打撃格闘技に比較して体脂肪率の高い選手が多い(体重別試合を主戦場とする選手はやや違うが)。贅肉も多小は必要という考え方が今でもはびこっている。
結局、組技格闘技の場合、あまり筋肉の目立たない、うっすらと脂肪が浮いた体型が理想だということになる。また精神的な傾向として、組技格闘技では敵との相互的な対処能力が求められることから、自然と懐の深い包容力のある性格が養われ易い。

ただ、ここで紹介している違いはあくまでも大まかなものである。
同じ打撃格闘技でもパンチだけのボクシングと蹴りもある空手ではおのずと違ってくる。またボクシングのように厳密な体重制がある競技では、軽量級の選手と重量級の選手ではその体型も変わるのが当然だ。以上の分析は1つの傾向に過ぎないことを理解してほしい。


(「格闘技 史上最強ガイド」青春出版社/1999年8月1日発行・第3章「これが格闘技界で語られなかった真実の姿だ」からの抜粋・改訂版)

samurai_mugen at 14:13|Permalinkclip!小島&塚本作品集 

塚本佳子・作品集/「数見肇の百人組手〜極真空手の武道性」(3)

塚本佳子・作品集
〜from「新極真空手」6号
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百人組手に見る極真空手の武道性(3)


●百人組手の軌跡

百人組手が初めて行なわれたのは1967年8月のことである。最初の挑戦者はルック・ホランダ−だった。その後、同年11月にジャン・ジャービス、1970年5月にスティーブ・アニ−ル、同年10月に中村忠、11月に大山茂がそれぞれ挑戦し、成功を収めている。だが、これらは2日間かけて行なわれたものであるため、公式の記録としては認められていない。
100人の対戦者と続けて闘い、そして初めて完遂したのは第4回全日本選手権・準優勝のハワード・コリンズである。1972年12月のことだ。
コリンズが百人組手を完遂した4か月後の1973年4月。第4回全日本選手権王者の三浦美幸が日本人として初めて百人組手を達成した。三浦の対戦者は、盧山初雄や添野義二、佐藤勝昭など、当時の極真空手界をリードしていた蒼々たるメンバーたちだった。
その後、数名の極真空手の猛者たちが百人組手に挑戦するが、達成できた者はいなかった。第2回、第3回世界選手権の覇者である中村誠も、中村のライバルだった三瓶啓二でさえも、50人目の選手を迎えられずにリタイアを余儀なくされた。
そして、三浦の挑戦から13年後の1986年、大山倍達の期待を一身に背負った松井章圭が百人組手に挑んだ。
もはや腕も足も上げられないほど疲労困憊したなか、松井が頭突きを放ってまで闘おうとした話は広く知られている。それは、百人組手の過酷さを物語る伝説的な逸話である。
また、5人目の完遂者である増田章も松井同様、百人組手の苦しさから対戦者に噛みついてまで闘った。人間が動物として本来持っている自己防衛本能が、松 井に頭尽きを出させ、増田に噛みつくという行為を起こさせたに違いない。
八巻は百人組手終了後、病院へ直行した。病院へ行くのが1日遅かったら、命が危なかったと医者に言われたという。その後、八巻は急性腎不全と診断され、1か月弱の入院を余儀なくされたことは前にも述べた通りだ。
それほど、百人組手は自らの精神と肉体を極限状態に追い込む生命をも賭けた危険な「苦行」なのである。
大山倍達は、肉体的な犠牲を代償とする、ともすれば「死」にさえ結びつく可能性のある「百人組手」に、いったい何を求めていたのだろうか?
生前大山は、百人組手について次のように語っていた。
「百人組手は、極真だけが出来る極限の荒行である。武道空手の修行を極めようとするならば、1度は挑戦したらいい。死力を尽くし、自分の体がボロボロになり立ち上がることが出来なくなるくらいまで闘ってみる。自己の限界ぎりぎりまで挑戦してみるのもいいではないか。それこそが、極限の世界への挑戦なのである」
百組手がどれだけ過酷な闘いであるかを如実に表わしている言葉だといえよう。
「肉体的な限界を知ることによって、さらに精神は鍛えられる」
それが大山が百人組手に求めた唯一無二の目的だったのかもしれない。

●数見肇の死闘--後半

歯を食いしばりながら対戦者の攻撃に耐える数見には、いつもの淡々とした表情はすでになかった。
ボディへのパンチに口元が歪む。だが意識はしっかりしているのだろう。気持ちとは裏腹に、思うように動かない体に苛立ちを感じているようにも見えた。
「数見、大丈夫だ。ほら、気合い入れろ」
セコンドの岩崎達也がしきりにそう繰り返す。ただ見守ることしか出来ない歯がゆさ、そして無力感。岩崎だけでなく、道場にいる数見以外のすべての人間が、普段は決して見せない苦痛に歪む数見の表情に、いくら修行とはいえ、手を差し伸べてやれない自分の非力さを実感していたのかもしれない。
ときおり苦しそうに、「はー」と息を吐く数見に対して廣重が声を掛ける。
「数見、ここからだぞ」
何度も繰り返しいわれる言葉、「ここから」「ここからだぞ」。
いつになっても数見に掛けられるのは「ここから」であり、「ここまで」にはまだまだ遠い。このときの数見にとって、「ここまで」は永遠にやって来ない瞬間だったのかもしれない。
60人目が終了した後、15分間の休憩が取られた。
数見は死んだように目を瞑り、静かに横になっていた。ぴくりとも動かない数見に、セコンド陣はその場で道着を着替えさせようとしたが、数見は自らの力で立ち上がり、自分の足で更衣室へと入って行った。
闘っているときの15分はあれほど長いのに、休憩時間の15分はあっという間に過ぎてしまう。それでも15分の休憩をはさんだ数見の表情を見て、私にはほんの少し、体力が回復しているように感じられた。
数見は帯をきつく締める動作をし、壁に掛かった時計を見上げた。数見が闘い始めて、すでに2時間30分が経過しようとしていた。だが、果たして数見にそれを認識出来るだけのはっきりとした意識があっただろうか。ましてや、後どれくらいでこの苦しい闘いに終止符を打てるのか。闘っている数見自身が一番予想出来なかったのではないだろうか。
75人目、初めて数見がバランスを崩し、よろける場面があった。セコンドからは「気を抜くな」という厳しい声が飛ぶ。100人との闘いのなかで、ただ一度数見が倒れそうになった瞬間である。
対戦者が交替する度に、両手で膝を支え下を向く数見に廣重がいった。
「数見、下を向くな」
岩崎は、もう見ているに忍びないと思ったのか、腕を組み天井を見上げた。これまでに味わったことのない苦しさに耐えながら闘う数見にしてあげられることは、唯一早く時間が過ぎてくれることを祈るだけだったのだろう。
すでに35人目辺りから見せていた疲労は、徐々に数見の行動を緩慢にしていた。そして、いつかいわれるのではないかと思っていた言葉が廣重の口から発せられた。
「数見、きついのはわかるが最後の挨拶はきちんとやりなさい」
全身の筋肉に力が入らなくなっていた数見にとって、握手をすることも十字を切ることさえも辛い状況だった。それでも、数見は廣重の言葉に「押忍、失礼しました」と答え、それを実行に移そうと精一杯努力していた。
すでに80人目を過ぎていた。
数見自身、後に70人を過ぎた辺りから記憶がなくなったと語っている。だが、少なくとも表面的には、数見は周りの声に反応していた。
90人目に入る頃、私は気づかないうちに奥歯を噛み締めている自分にたじろいだ。
あと10人--。
最後の対戦者交替が行なわれた。セコンドで数見の闘いを見守ってきた岩崎が、横になっている数見の頭を支え、しきりに声を掛けていた。その表情からは、後輩を思う気持ちが痛いほど伝わってきた。
私は数見の闘いを克明にメモしながらも、第6回世界選手権でグラウベと闘っていた数見を仕事も忘れて応援していたときと同じ気持ちで、数見の残り少なくなった闘いを見つめていた。
94人目から最後の100人目までは、同門である城南支部の道場生が数見の相手となった。疲労困憊の数見の肉体に、同門だからこその容赦ない攻撃が叩き込まれる。皆、心を鬼にして数見に攻撃を繰り出していたに違いない。
松井は目を閉じたまま黙って上を向き、廣重は両手を合わせて下を向いていた。ここにいるすべての人たちの気持ちは一つだったはずだ。
<もう少しだ。数見、もう少しで終わるぞ>
数見は最後の対戦者である八巻と向かい合った。
「数見コール」が道場内に響き渡る。八巻は一見、無情とも思える激しい攻撃を数見の疲労しきった肉体に叩き込んだ。八巻は数見の百人組手終了直後、次のように語った。
「最後がダレたまま終わっては、百人組手の価値が下がってしまう…」
八巻は一切、手を抜かず、数見に同情することなく容赦のない攻撃を続けた。百人組手においては、それこそが八巻の後輩に対する、もっとも価値ある「愛情表現」だったのかもしれない。
前述したように、松井は中盤、数見の疲労を気遣う対戦者に対して、これまでに見せたことのないような怒りを露にした。数見が辛い思いをしているのはわかる。
しかし、そこで手を抜くことは数見に対して非礼であると同時に数見のためにはならない…。
松井の怒りも、八巻の厳し過ぎる攻撃も、実際にその修羅場をくぐり抜けた百人組手経験者の行為だからこそ、対戦者の気持ちを引き締め、そして見ている者すべての心に熱く響いたのだろう。
数見の長い闘いは終わった。
数見は道場にいるすべての人に「ありがとうございました」と頭を下げた。
4時間を越す死闘のなかで、数見はこれまで見たことのない「何か」を手にすることは出来たのだろうか?
だが、少なくとも数見が挑んだ百人組手が、私に「極真空手の真実の姿」を見せてくれたことだけは間違いない。 続きを読む

samurai_mugen at 05:03|Permalinkclip!小島&塚本作品集 

2007年06月25日

大会速報! 極真会館主催/オールアメリカン・オープン2007

極真会館主催
オールアメリカン・オープン2007

日時/6月23日(決勝トーナメントは3時開場)
会場/ニューヨーク市立ハンターカレッジ体育館

北米最大規模にして最高レベルのオープントーナメントが、ここニューヨークで開催された。
注目される選手は、今年開催される世界大会でも優勝候補の筆頭に上げられるエヴィルトン・テイシェイラ選手だ。
同選手は昨年、この大会の決勝戦で顔面殴打の反則を犯し、同門のエドワルド・ナカハラ選手に優勝を譲っている。今回は世界大会を前に何としても雪辱を果たしておきたいところだろう。
対するナカハラ選手も、今年こそ運ではなく実力で優勝し、世界大会に向けて勢いをつけておきたいところだろう。
試合前のインタビューでも、今大会で雪辱を果たしたいという強い意気込みが感じられるコメントをしていた。 (極真会館HP参照)

また、この大会は強豪ブラジル勢と拳を交えるべく、ヨーロッパからも世界大会代表クラスの選手が参加しており、彼らの活躍も見逃せない。
Bブロックにエントリーしたポーランドのクリストフ・ハブラスカ選手は、優勝候補の一角であったブラジルのエドワルド・タナカ選手を再延長までもつれ込む激闘の末下して準決勝に駒を進めた。
Cブロックでもブルガリアのザハリ・ダミャノフ選手が圧倒的な強さで準決勝進出を果たす。
そしてAブロックとDブロックはテイシェイラ、ナカハラ両選手が危なげなく勝ちあがり、ヨーロッパの2選手を迎え撃つ形となった。

【準決勝1】ナカハラvs. ハブラスカ
身長、体重ともほぼ同じ両選手であるが、組手のスタイルは正反対である。ナカハラ選手は元気よく回転の速い突きから多種多様な足技につなげる派手な組手スタイル。一方のハブラスカ選手は、両足を開いてどっしりとした構えを取りながら、意外な程軽快な足さばきで相手を捌き、重い突きを叩き込む。大型選手の割には左右への動きが上手い。組手のスタイルは地味ながら、「なかなか負けない」組手のスタイルだ。
開始するや否や激しい打ち合いを展開する両者。いくぶん手数で勝るナカハラだが、要所要所で重い突きと下段蹴りを返され、試合は一進一退。後半も同様の展開が続く。突きと下段の応酬の合間に時折奇襲技を繰り出したナカハラがいくぶん優勢だったろうか。判定4−0でナカハラが2年連続の決勝進出を決めた。

【準決勝2】ダミャノフvs. テイシェイラ
テイシェイラ選手に比して体格的に見劣りするダミャノフ選手。テイシェイラ選手の圧倒的なパワーとスピードの組み手を封じるべく、定石どおり間合いを殺して接近戦に持ち込む。接近戦においても強力な中段突きと下段蹴りを武器に持つテイシェイラ選手であるが、ダミャノフ選手の高い防御力の前にことごとく無力化され、なかなか突破口を見出すことができない。中盤、焦りがでたのか、ダミャノフ選手の顔面に突きを入れてしまうテイシェイラ選手。
顔面を強打されたダミャノフ選手はそのままマットに崩れ落ちてしまい、試合は一時中断する。昨年の悪夢の再来がテイシェイラ選手の脳裏をよぎったに違いない。だが、すぐに立ち上がってファイティング・ポーズを取るダミャノフ選手。
あのまま起き上がらず勝ちを拾おうとする選手の多い中、あくまで戦いで決着をつけようとしたダミャノフ選手に敬意を表したい。再開後も決定打を許さないダミャノフ選手の巧さが目立ったが、幾分手数で上回ったテイシェイラ選手が4−0で判定勝利を収めた。判定直後、完全決着を望んでいただろうダミャノフ選手の残念そうな顔が印象的であった。それにしても、まだ若干21歳のダミャノフ選手。これからの活躍が注目される。

【決勝】テイシェイラvs. ナカハラ
やはり予想通りの対決となった決勝戦。ナカハラ選手は昨年の雪辱、そして世界大会に向け、かなりの稽古を積んでおり、確実に実力をアップさせている。二人の実力差はどれだけ近づいたのだろうか。
ブラジルのエースの座をかけた戦いは、序盤から激しい打ち合いが展開された。ナカハラ選手も打ち負けている様子は見られなかったが、中盤、徐々にテイシェイラ選手の中段突きがナカハラ選手のスタミナを奪い始める。テイシェイラ選手得意の中段回し蹴りもヒットし、中々勝機を見出せないナカハラ選手に焦りの表情が見え始める。後半、ナカハラ選手は打ち合いの合間に胴廻し回転蹴りなどの奇襲技を繰り出すも、苦し紛れの技の掛け逃げとも見られ、あまり印象が良くなかったようだ。
結果、軍配は4−0でテイシェイラ選手に上がる。決定打が無いままの本戦決着に観客は憮然としていたが、決しておかしな判定ではなかっただろう。
ナカハラ選手にとっては釈然としない判定結果だとは思うが、この借りを世界大会で返せるよう奮起してくれるよう期待したい。

男子無差別
優勝 Ewerton Teixeira エヴェルトン・テイシェイラ (ブラジル )
2位 Andrews Nakahara アンドリュース・ナカハラ (ブラジル )
3位 Zahari Damyanov ザハリ・ダミャノフ (ブルガリア )
4位 Krzysztof Habraszka クリストフ・ハブラスカ (ポーランド)

※他に女子の試合と型の試合が公開されていたが、特に印象に残るような試合はなかったので、本レポートでは割愛する。


記/一撃倶楽部・特別範士〜
Woldwalker

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2007年06月24日

投稿・「私的日本拳法論」〜一撃倶楽部・G.MASTER

私的日本拳法論



早いもので、日本拳法と出会ってからもう今年で十八年目になる。長年、日本拳法という武道に関わった人間として、ここで一つ私なりの「日本拳法論」を述べてみようと思う。なお、これはあくまでも私的な「日本拳法論」であり、同じく日本拳法を修行している方にとっては、「これは違う」と思う事があるかもしれないが、これについてはご容赦頂きたい。

●日本拳法とは

はっきり言って、日本拳法はきわめてマイナーな武道である。一般的には殆ど知られておらず、「拳法」といえば日本少林寺拳法や中国拳法を指す場合が殆どである。
人から「何かスポーツ等やってますか?」と聞かれて「日本拳法をやっている」と答えた場合、たいていの場合は「ニホンケンポウ? それはどんな武道なんですか?」などと聞き返される事が多い。だが、これはまだマシな方で、ひどい場合には、「ああ、少林寺ね」と手前勝手に誤解する人もいる始末だ。
その為、日本拳法がどんな武道なのか説明をするのに一苦労する事になる。私自身、何度苦労したか数え切れない程である。また、武道や格闘技の修行者や興味のある人達でも、「日本拳法という名前は聞いた事はあるが、実際に見た事はない」というのが殆どであろう。

日本拳法は、昭和七年に澤山宗海先生によって創始された。当時、大阪府警柔道師範であった黒山高麿先生は、「洪火会」という柔道を中心とした武道団体の会長に就いていた。格闘において有効な手段である当身技が柔道では廃止され、僅かに形のみに継承されている事実を残念に思った黒山先生は、当身技を中心とした新たな武道を創始する事を決心した。そこで、その頃関西大学・柔道部学生の澤山宗海先生に当身技の研究を依頼した…これが日本拳法誕生の端緒といわれている。
澤山先生は、古流柔術の当身技や、糸東流空手創始者・摩文仁賢和先生のもとで沖縄唐手をも学んだが、柔術も空手も「形稽古」に終始しており、澤山先生が夢想する拳足による自由な打ち合いなど望むべくもない状態だった。そこで、澤山先生は古流柔術や唐手から離れて独自の道をいくことになる。
格闘の方法として、当初は「空撃」呼ぶ寸止めでの稽古を試みたが、さらに「実戦」を目指し防具着装による稽古を重視していった。

●防具着装による乱稽古

日本拳法は、面、胴、股当て、といった防具を着装して稽古や試合を行う。これは、剣道の防具を参考に作られている。
これらの防具を着用することにより、思い切った突き蹴りはもとより投げや関節技も行う事が可能になった。これは毎回の稽古で、いわゆる手加減なしの「真剣勝負」が出来る事を意味する。
これこそが日本拳法の最大の特徴である。日本拳法出身のなかには、キックに転向し「マッハパンチ」でKOの山を築いた猪狩元秀先生が広く知られている。猪狩先生はキックに転向した後も、大学で日本拳法の防具練習を続けたそうである。
しかし、防具着装とはいえ頭部への打撃による危険性は否定出来ない。今年も、某大学で死亡事故があったばかりである。もっとも、この事故は稽古との直接の因果関係ははっきりしていないのだが…。
また、防具は重く高価であり、見た目もあまり現代的でなく格好良くない。今後は防具の軽量化とより高い安全性が求められる。一般に普及するためには、さらに見た目もスマートな防具の開発が待たれるところだ。

●日本拳法の形

日本拳法にも形は存在する。
しかし、空手の型とは大きくニュアンスが異なる。澤山先生は、「形による約束動作」を嫌い、防具着装による「乱稽古」を創始し、重視した。
しかし一方では、防具に頼る安易さから、技術面における集中力や克己心などが次第に軽視され、精神面でも粗雑になっていった事は否定できない。
澤山先生はこれらの面を補う目的で、形練習にある礼の作法、精神鍛練性、正確な当身技の間合、体捌きの運用など…、乱稽古のみに偏せず、精神修養も含め心身のバランスがとれた拳法を目指して形を「創作」したのである。
つまり、日本拳法の「形」は創始者である澤山先生が明確な目的を持って創作したものである。空手のように古く沖縄時代から伝承のかたちで伝えられてきたものではない。
それ故、空手のように「型」の動きと「組手」の動きが全く異なるのではなく、日本拳法は「形」の動きはそのままにも「乱稽古」にも通用するのである。
つまり、「乱稽古」のなかから「形」が生まれたといってよく、すなわち「乱稽古」あっての「形」であり、「形」あっての「乱稽古」なのである。
実際、試合などでは「形」の動きをそのまま応用した技を駆使している選手もみられる。また、強い選手は概して形も上手いのである。
このように、「試合・乱稽古」と「形」の一致が図られている点が日本拳法の長所ではないだろうか? 少なくとも「型」と「組手」の意味合いや求めるものが遠く乖離している空手よりは比較にならない程、日本拳法の「形」は進化しているといえる。

●普及に向けて

現在、日本拳法は関西を中心とした日本拳法会と、関東を中心とした日本拳法連盟、日本拳法協会等がある。つまり、ひとことに日本拳法とはいっても組織統一がなされていない点が普及などについても大きなマイナスとなっている。
長らく関東と関西では断絶状態が続いていたが、近年になってやっと、関東の日本拳法連盟と関西の日本拳法会が団結することで、統一組織である日本拳法全国連盟の結成に向けた交流が始まっている。
また、今年二月に日本拳法協会・森良之祐最高師範が逝去したが、関東に於ける日本拳法が廃る事はなく、むしろ複数ある団体がまとまりつつあるようだ。これは、森先生がまいた種が確実に育っているといえるのでないだろうか。

ただ、日本拳法は主に大学、自衛隊、警察を中心として普及した為、「一般道場」が非常に少ない。全国的に知名度が低いのはこの為である。普及にはまず指導者作りをして「一般道場」を増やしていかなければならない。この点が今後の課題である。

ところで、ちょっと気掛かりなのは、来年度から自衛隊の徒手格闘が変更され、日本拳法を廃止して伝統空手に変えるという動きがある、という事を耳にした。伝統空手に対して特に偏見はないが、「寸止め」で組打技もない伝統空手と、日本拳法とどちらが実戦的か、ちょっと考えればわかると思う。全日本国民の命を預かる自衛隊・防衛省は、政治的な介入などに影響されず、判断を誤らないようにして欲しいものである。

(了)

記/一撃倶楽部・範士最高顧問 G.MASTER

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新極真会、崩壊の序曲/不祥事相次ぐ組織体質を問う! (大改訂版)

新極真会、崩壊の序曲
不祥事相次ぐ組織体質を問う



●前代未聞の事件と、その対応

さる6月22日、新極真会大阪泉州支部長・小木剣太が逮捕監禁・強盗強姦未遂容疑で逮捕された。
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『産経新聞(6/22)より抜粋』

連続強姦で28歳男を逮捕
DNA一致、余罪追及へ

大阪府泉佐野市で帰宅中の女性が車で拉致、乱暴された連続強姦(ごうかん)事件で、大阪府警は22日、逮捕監禁や強盗強姦未遂容疑で同府岬町深日のサッシ加工業、小木剣太容疑者(28)を逮捕した。小木容疑者は容疑を認めているという。同市内で起きた別の2件の現場で見つかった遺留物のDNA型がいずれも小木容疑者と一致しており、府警は余罪を追及する。
調べでは、小木容疑者は5月8日午後11時ごろ、泉佐野市の路上で、帰宅中の30歳代の女性を車で拉致。粘着テープやポリ製ロープで目や両手を縛って連れ回し、暴行を加えた上、現金が入ったハンドバッグなどを奪った疑い。「抵抗したら殺すぞ」などと脅し、犯行後は拉致現場から約20キロ離れた岬町の山中に女性を放置したという。
同市内では3月から6月にかけて同様の手口の事件が少なくとも3件発生。拉致現場はいずれも半径約50メートル以内に集中していたことから府警は現場周辺に土地勘のある人物の犯行とみて現場付近を通行する不審車両を捜査。被害女性の1人が目撃したスライド式のワンボックスカーと小木容疑者の車が酷似していたことから関与が浮上した。
さらに3件の現場で採取された遺留物のDNA型が小木容疑者と一致し、逮捕に踏み切った。現場周辺では他にも手口のよく似た強姦未遂事件や強制わいせつ事件などが数件確認されており、関連についても調べる。

「表」の顔…子供に空手の指導

「挨拶を欠かさない礼儀正しい人だと思っていた」。小木容疑者の自宅近くに住む男性(78)は、近所の子供たちに熱心に空手の指導をする同容疑者の「表」の顔との違いに驚きを隠せない。
小木容疑者は妻と子供3人の5人暮らし。約半年前に両親の隣の家に転居してきた。愛想が良く近所でも慕われていたという。近くに住む女性(23)は「がっしりしていたが、普通の人だと思っていた。身近な人が女性を乱暴する罪を犯すなんて、すごく嫌な気分だ」と怒りをあらわにした。


『関西テレビ(KTV)ニュースより』

逮捕監禁・強盗強姦未遂で男を逮捕。数件余罪も?

大阪府泉佐野市で通行中の女性を拉致して性的暴行しようとしたうえ、現金などを奪い、山中に放置したとして空手団体の支部長が逮捕されました。強盗婦女暴行未遂と逮捕監禁の疑いで逮捕されたのは大阪府岬町に住む空手団体「新極真会」大阪泉州支部の支部長・小木剣太容疑者(28)です。調べによりますと小木容疑者は5月上旬、泉佐野市内で通行中の30代の女性を車に乗せて拉致し、性的暴行しようとしたうえ、現金などを奪い、岬町の山中に放置した疑いが持たれています。被害女性が覚えていた車の情報から小木容疑者が浮上したもので、小木容疑者は容疑を認めています。近所の人は「体格いいし、先生らしい人。一見朴訥な感じな人。信じられない。そんなことするような人には見えない」と話していました。同じ泉佐野市内では、2007年3月以降、20代から30代の女性が襲われる事件が少なくとも2件起きており、警察は小木容疑者に余罪があるとみて調べを進めています。


小木は元々、和歌山の黒岡八寿裕・新極真会支部長の道場少年部に入門。新極真会の若手エースとしてエリート街道を歩んできた。事情通によれば、1997年5月にオーストラリアUCLAキャンプ場で開かれた国際合宿に新極真会の実力者・三瓶啓二の「付き人」として参加して以来、「三瓶グループ」の尖兵的な立場で大阪でも名前が知られていたという。支部長の就任も、三瓶の強いバックアップによるものだと関係者は語る。
また選手としても、中堅クラスとして活躍。昨年の第38回全日本大会では2回戦に進出している。
逮捕以降、小木の道場は閉鎖されているが、以下が小木道場所在地である。

大阪泉州支部
支部長・責任者/小木剣太
連絡先住所/大阪府阪南市尾崎町508-3インテリア大植ビル5F
0724-72-5805

事件に対する新極真会の対応は早かった。小木が逮捕された22日夕方には「新極真会」ホームページに、次のような緑健児代表による謝罪コメントが掲載された。

『お詫び』
この度は当会の大阪泉州支部長である小木剣太が、本日(6月22日)逮捕監禁、強盗強姦未遂の容疑で大阪府警泉南署と泉佐野署に逮捕されました。
本件は青少年育成や社会貢献を使命とする武道団体において、前代未聞の極めて悪質且つ重大な事件であり、被害者の方にはお詫びの言葉もございません。また、会員の皆さまや当会の活動をご支援して下さる皆さまには多大なご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。当会では、今回の事件を真摯に受け止め、本日付けで小木剣太を除名処分と致しました。今後、このような事態を二度と繰り返さないように、当会支部長責任者への指導教育を徹底して参りたく存じます。

平成19年6月22日
NPO法人全世界空手道連盟新極真会/代表理事 緑健児
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ところが、少なくとも21日の段階で、緑代表がスイスに滞在していた事が確認されており、彼がどこまで事情を認識していたかは疑問である。おそらく事務局あたりが作成したコメントが緑代表の名前で発表されたと思われる。
なによりも驚くのは、事件発覚後、新極真会関連の殆どのHPが閉鎖またはアクセス不能になった事である。特に小木に関するデータはたった数時間の間に、完全に削除された。新極真会の公式HPも、この緑代表によるコメント以外、一切他のページが閲覧が出来なくなった。
完全な情報隠蔽である。
元々、新極真会はきわめて閉鎖的な体質を持っていた。本部の公式HPはじめ、各支部などが作成しているHPには一切、管理者のアドレスが掲載されていない。
これは異常な事である。管理者側の情報を一方的に流し、外部からの「声」は受け付けないという姿勢の象徴といってもいい。ましてやNPO法人という公共性の高い団体では有り得ない事だと断言してもいいだろう。
また、支部長や事務員など関係者は外部からの電話には必ず留守電で対応する。他団体やメディアとの接触は複数でなければならない。民主的合議制を謳い、理事会制度を採りながら、組織としての決定がどこでなされているのか皆目見えない…。
このような、民主制というよりも、むしろ独裁制を思わせる秘密主義、排他的な土壌が今回の事件の素地になった事は否定出来ないだろう。この事件を新極真会側は単なる「個人の問題」であり、「組織の問題」ではないという形で事態の収束を図ろうとしているのは、一切の情報流出を防ぐ為、新極真会関係のあらゆるHPが閉鎖された事がひとつの傍証となろう。
だが、過去、新極真会関係者がどれだけの事件を引き起こし、組織が如何に事件を隠蔽、またはうやむやにしてきたか? 極真会館分裂後、多くの「極真空手系団体」が活動しているが、新極真会ほど多くのスキャンダルを抱える組織は他に例がない。
その代表的かつ象徴的なものが鈴木国博(現赤羽・厚木支部長)による暴行事件と、塚本徳臣(現世田谷塚本道場責任者)の大麻事件である。

鈴木と塚本の事件を検証する前に、今回の小木剣太が引き起こした逮捕監禁・強盗強姦未遂事件について、ひとつだけ触れておきたい。
今年5月、ステーキチェーンの「ペッパーランチ」大阪心斎橋店で、店員による強盗強姦・逮捕監禁至傷事件が発覚した。以下は産経新聞(07/5/16)の記事の抜粋だ。


女性客に睡眠薬飲ませ拉致、乱暴/ステーキ店店長ら逮捕

大阪・ミナミのステーキチェーン店「ペッパーランチ」心斎橋店(大阪市中央区心斎橋筋)で、食事中の20歳代の女性客を拉致して乱暴したとして、大阪府警南署が強盗強姦(ごうかん)と逮捕監禁致傷の疑いで、同店店長の北山大輔(25)=大阪府泉佐野市=と店員の三宅正信(25)=大阪市西成区=の2容疑者を逮捕していたことが16日、分かった。2人は犯行を認めており、「女性をかこっておくつもりだった。インターネットでスタンガンや睡眠薬を購入し、店に来る女性客を物色していた」と供述している。調べによると、2人は9日午前1時過ぎ、同店で閉店作業を装って入り口シャッターを閉め、1人で食事中だった女性客に「逃げたら殺す」とスタンガンで脅迫。無理に睡眠薬を飲ませ、泉佐野市内の貸しガレージまで車で連れ去り乱暴した上、現金約5万5000円入りの財布を奪った疑い。店内にはほかに客はいなかった。2人は制服姿のまま犯行に及んでいた。
女性はその後もガレージ内の車の中で手足を縛られ監禁されていたが、同日午前9時過ぎ、自力で脱出し、通報。南署に被害届を出した。南署員が店で何食わぬ顔で勤務していた2人を任意同行した。
女性は「現場には男が4人ほどいた」と証言しており、同署はほかにも共犯がいる可能性もあるとみて捜査している。
(以下、省略)


この「ペッパーランチ」事件の主犯・北山大輔と小木が「友人」関係にあるという噂が当時から関係者の間で囁かれていた。被害者が証言する「男4人」のうちの1人が小木だと断定する声も少なくない。
この事件に関する警察の捜査は一応終了したといわれるが、今回の小木の逮捕により、意外な事実がさらに発覚する可能性は低くないだろう。 続きを読む

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2007年06月18日

シリーズ/空手・武道人物小伝(4)中村忠〜追加改訂版(「お知らせ」追加)

●誠道塾を率いる達人・中村忠


中村忠師範といえば「大山道場」時代から初期の極真会館を支えた重鎮として知られている。知性派であり理論家でもあった中村師範が初期の極真会館において数々の近代化に向けた改革を行った事は有名だ。
そんな合理主義者でもあった中村師範だからこそ、アメリカに渡った後も極真会館の国際組織の取り纏めに甚大な貢献力を発揮するのが可能になったといえる(中村師範の極真会館離脱後、それらの組織は崩壊してしまうが…)。
中村師範が極真会館を離脱した理由については触れない。
中村師範の著書「人間空手」の中でその経緯が詳しく述べられているからだ。
私自身の正直な感想を言うならば、「人間空手」はその内容の暴露性の高さによってあまり評価していない。事実の誤認も少なくない。だが私も出版界に身を置く人間である。あれが全て中村師範の手によって書かれたものであるはずはない。基本的にゴーストライターが完成させたものである以上、一概に中村師範を責めるわけにはいかないと思っている。
後に私は「人間空手」のゴーストを務めた人物に会った。
彼は仕事でニューヨークに滞在中、中村師範の誠道塾に入門し、中村師範の人格の虜になったという編集者だった。事実の誤認については、編集者自身がアメリカ在住が長かった為、日本空手界の実情に疎かった事、そして本人が空手初心者であり、空手界のしきたりや作法を知らなかった事が原因だと彼は釈明した。
また暴露性の高い内容になってしまったのも、彼の独善的な正義感ゆえであり、また帰国してから執筆した為、まだPC、Netが普及していなかった時代、なかなか中村師範に原稿のチェックをしてもらう時間がなかったと言い訳をしていた。

1987年、私は帰国した中村師範と会った。
それまでも多くの空手家・武道家に取材を通して会ってきた私だが、その背後に不思議なオーラ(あまり使いたくない表現だが)を感じたのは中村師範はじめ数名しかいない。
中村師範は実に穏和で、私の予想通りに理論家だった。小柄ながら、その肩幅の広さと鍛錬の跡が垣間見れる筋肉の盛り上がり方に、やはりただ者ではない威圧感と同時に人間的な厚みを感じた。
ただ、やはりアメリカ滞在が長い為か、アメリカ的フラグマティズム(功利主義)主義者的な一面も持っていた。だが、これは決して悪い意味ではない。
中村師範も誠道塾という流派・団体を抱え、それは空手・武道組織であると同時に経営母体でもある。団体の運営にはビジネスが絡むのは当然である。
中村師範は、だから取材に入る前に、ビジネスとしての取材協力費などについて私に質した。当時の私には初めての経験で、最初は当惑した記憶がある。だが、私が提示した少ない気持ちばかりの金額に対しても嫌な顔ひとつせず、「こういう確認がビジネスの正しい手順である」というだけの様子だった。
数年後、私は独立して編集制作会社を設立するが、この時の中村師範の姿勢が大いに役にたった。
出版界はいまだ実に古い体質を持っている。フリーの編集者やイラストレーター、デザイナーが版元から仕事を受ける場合、驚く事に版元は金銭的な提示をする事もなく、受注側もそれを求めない風習がいまも残っている。
「暗黙の信頼関係」により、契約がなされるケースが大半なのだ。といっても余程の事がない限り、「契約書」を交わす事さえない。仕事を終え、版元に納品してから数カ月後、銀行にお金が振り込まれてから初めて、仕事の金額を知るという異常な世界である。
しかし、私は中村師範から学んだビジネスの作法を最初から貫き通した。
それを嫌い、露骨に不快な顔をする版元の担当者もいた。だが私は、受注の最初に金額を確認するという、現在の夢現舎では当たり前になっている事だが、それは「当方の主義」として徹底的に版元に主張し続けた。その結果、これが夢現舎では重要なルールになっている。
そして、このようなビジネスの作法を私に自らの姿勢で教えてくれたのが中村師範なのだ。

話を空手に戻す。
中村師範は決して自慢話を自らするような方ではなかった。それでもアメリカに渡った当時の苦労が如何に大変で、また連日、生命さえ賭けた戦いの連続であったか…。中村師範は訥々と語った。
「私が背が低いから随分、アメリカ人には舐められました。しかし、舐めてきた相手は必ず潰しておかなくてはなりません。私は大きくパワーのある相手にはいわゆる奇襲技で倒していきました。カニ挟みでバランスを崩して下から蹴りを入れたり、フェイントから背後に回って崩してから攻撃したり…。極真会館時代に米軍キャンプで指導した経験と、ムエタイとの試合に向けてボクシングを学んだのが自信になりました。アメリカ人はすぐボクシングの真似してパンチを打ってきます。そんな相手には正面から顔面にパンチを入れてKOしたものです」
中村忠の誠道塾といえば、極真ルールを大きくアレンジして、いわゆるマーシャルアーツスタイル(グローブ着用、ローキック禁止のポイントルール)を普及させた事でも知られている。一般に、このルールは北朝鮮テコンドーが採用して広めたといわれているが、それは間違いだ。北朝鮮テコンドーが誠道塾を真似たのである。現在でもアメリカで主流になっているポイントルールの元祖が誠道塾である事は多くの資料が証明している。
「ローマに行けばローマの習慣に従え、という諺があるように、やはりアメリカ人に空手を普及する為には完全な日本式では限界があります。アメリカ人は痛い思いをしたり怪我する事を極端に嫌います。特にボクシングが栄える国ですから、足を攻めるローキックを嫌がる傾向が高い。試合を楽しむスポーツとして捉えているんです。そういう国民性には最低限、合わせていくのも必要だと思いました。勿論、高段者には極真のルールに近いフルコンタクトの組手をやらせますが…。また、アメリカ人には、空手は護身術である以上に、東洋の精神を学ぶ場という意識が強いのです。禅とか瞑想に多大な興味を持っています。だから、試合がスポーツ的である分だけ、精神鍛錬、瞑想、訓話の時間を作り、東洋の精神を説く事を重視しました。ある面、ビジネス的必要性もありますが、この基本姿勢は間違っていないと信じています。空手は武術です。本来はスポーツや娯楽ではありません。試合に勝って、『どうだ!』というような態度を取ったり、ガッツポーズを取って勝利をアピールするのは、空手の試合をスポーツとして考えるアメリカ人特有のものです。しかし、それが当たり前になってはいけません。その意味でも外国人には、日本人と違って最初から、精神性や道徳観念を指導していく事は絶対に必要なのです」
実際、中村師範は空手家というより古刹の名僧にも似た雰囲気も持っていた。

極真会館を離れた人たちは、極真空手を「幹」にしながらも、自らの空手観、武道観によって新しい模索をする…それが正しい在り方であるのは言うまでもない。
誠道塾は現在、日本にも逆上陸している。アメリカで受け入れられた精神道徳教育を重視する空手が、如何に日本で受け入れられるか? 組織の総帥である中村氏がアメリカにいる以上、多くの困難もあるに違いない。組手技術も、進化の激しい日本に比較すると、どうしても遅れている印象が強い。
だが、中村忠という空手家が生粋の極真空手の系譜を引き継ぐ後継者である事は誰も否定しないだろう。いつか、あのアメリカンルールによる大会を日本で開催し、誠道塾の存在を公開してほしいものである。

あの日に感じた柔らかいオーラがある限り、そしてアメリカ的な稽古法を押し付ける事なく、日本に合った試合ルールや技術に対応していく事が可能になるはらば、今後、日本でも誠道塾を支持し、存在力のある団体として認められていくのも決して不可能ではないだろう。


(了)

※お知らせ(小島一志)
「シリーズ空手人物小伝」は、旧ブロックにて、「三瓶啓二」「柳渡聖人」「小笠原和彦」を扱った作品が掲載されています。
是非、ご覧頂ければ幸いです。

samurai_mugen at 07:29|Permalinkclip!その他の連載コラム 

塚本佳子・作品集/「数見肇の百人組手〜極真空手の武道性」(2)

●数見肇の死闘−・前半

蒼白な表情で現われた数見に対して松井はいった。
「あまり気負わずに、達成することばかりを考えないで。これからやったことのない境地に挑むわけですから、そのときの自分自身をしっかりと見つめてください。必ず出来るから」
太鼓の音が、数見の長い長い闘いの始まりを告げた。
とうとう「その瞬間」がやって来たのである。
一人目から飛ばし過ぎではないかと思うくらい、数見は相手と真正面から組み合った。冷静に闘っているように見えるが、私はすでにこの組手で百人全員と闘い続けられるのかと心配になった。
だが、数見自身、まだペースも掴めていなかったのだと思うし、百人組手というものに対する不安が拭いきれていない状態では、そういった闘い方しか出来なかったのかもしれない。
セコンドは、間断なく数見に声を掛け続けている。その度に数見は「押忍」と答え、うなずいていた。もちろん、彼らの指示通りに体を動かしてもいた。
ちなみに、数見の空手におけるテーマは「平常心を保つ」ことだという。セコンドからのアドバイスがきちんと耳に届き、それを実践しているということは、少なくともこの時点では彼自身のテーマは守られていたといってもいいだろう。
師匠である廣重もセコンド同様、常に数見に声を掛け続けていた。
「きちんと拳を握って。手を開いていると気持ちまで緩むぞ」
「数見、考えないでいいからどんどん行け」
五人目が終わったとき、セコンドが汗で濡れた畳をタオルで拭いた。すでに数見の道着は汗で色が変わり始めていた。
十人目に入る前、数見は「はー」と息を吐いた。突きにも蹴りにも十分にパワーが乗っている。少しずつペースも掴めてきたのだろうか。表情には一切の変化がない。
前述したように、今回の百人組手では十五名ずつ対戦者である道場生が入れ替わる。その間、約五分間の休憩となった。
上昇した体温を下げるために頭に氷を乗せている数見に松井が声をかけた。
「効かせられないのだから、もっとタイミングを考えて−−」
十六人目からしばらく茶帯が続いた。数見と茶帯との力の差は歴然だ。
しかし、茶帯程度だと、まだ力を抜いて闘うことを知らない人間も少なくない。なかにはムキになって攻めてくる生徒もいるほどだ。茶帯だからといってあなどることは出来ない。だが、数見は彼らの攻撃を見事に捌いていた。
数見の表情が多少余裕のあるものへと変わってきたのはこの頃である。そもそもスロースターターの数見である。ここにきて、やっと本領を発揮してきたといってもいいだろう。

前にも述べたように、数見が百人組手への挑戦権を与えられたのは、第七回世界選手権に向けてもっとも活躍が期待されている選手だからである。それに加 え、数見であれば絶対に百人を相手に闘い抜いてくれるという信頼を置ける選手であるからであるのはいうまでもない。
私は数見が百人組手を行なう前日の夜、第二十四回全日本選手権と第三十回全日本選手権のビデオを見ていた
。テレビ画面には、二十歳、そして二十六歳の数見の闘う姿が映っている。どちらの数見も淡々とした表情で闘っていた。
七年連続決勝戦進出を果たしている数見は、実際はどうであれ、試合場では常に冷静で、決して平常心を失わない選手である。見ている人間に緊張感や不安を一切感じさせない安定感が安定感が数見の強さでもある。その精神力の強さは、現在の極真会館の選手のなかでも群を抜いているといっていいだろう。
だが、同じ淡々とした闘いのなかにも、第二十四回大会における二十歳の数見の表情にはまだ初々しさが残っていた。ただがむしゃらに、常に挑戦者として相手に向かっている青年が、その後、極真空手の大会史を塗り替えていくことになるとは、数見本人も予想できなかったことだろう。
ましてや、選ばれた人間だけが挑戦できる「百人組手」に挑む存在にまでなるとは……。
ビデオを見ている途中、ふと時計に目をやると、針は午後十一時三十分を指していた。これから十二時間後、多分、数見の人生においてもっとも苦しく、そして長い時間がやってくる。数見はいま、何を考えているのだろう。ふとそんな思いが私の脳裏をかすめた。
数見はテレビのインタビューで、百人組手を目前に控えた心境を「いままでにない不安を抱えている」と語っていた。第六回世界選手権、日本の威信を一身に背負い、大きな重圧のなかで闘った準決勝のフィリォ戦でも感じなかった類いの「不安」に、数見の胃は悲鳴をあげていたという。食は細くなり、百キロあった体重も九十六キロにまで落ちてしまった。
常に平常心を失わない数見が抱えていた「不安」とはどういったものだったのだろう。不安の源である百人組手を十二時間後に控えて、その気持ちは一層強く なっているのか。それとも逆に開き直っているのだろうか。
私にはまったく想像のつかない百人組手の過酷さに、数見は最後まで平常心を保ち続けることができるのか。そして、百人組手が終了した後、数見はいままで 得たことのない「何か」を掴むことができるのか。
だが、どんなに考えても、やはり私には数見の抱えている「不安」の正体を理解することは出来なかった。

二十五人目は、数見にとって最初の関門だったかもしれない。対戦者は同じ城南支部の高久昌義だ。高久の機敏な動きに対して、次第に数見の息が上がっていく。そして、数見は初めて自ら大声で気合いを入れた。その叫びは、いつも道場で拳を交えている高久に対する数見の「闘志」以上に、ともすると萎えてしま いそうな自分の気持ちへの鼓舞とも感じられた。
この頃から、闘いが終わる度に数見は脛につけたサポーターを直す仕種を繰り返し始めた。うつむいたときの数見の表情を見ることはできなかったが、ひょっとするとこのときだけが数見が苦しい表情を露にできる瞬間だったのかもしれない。しかし、サポーターを直し終わり顔を上げた数見の表情は、いつもと変わらないポーカーフェイスだった。
そして、三十人目のフィリォを迎えた数見は、これまで常に対戦者の胸元辺りに向けていた視線をフィリォの目に会わせた。やはり数見にとって第七回世界選手権の最大の敵はフィリォだということなのだろうか。
フィリォとの闘いの後、二度目の選手入れ替えが行なわれた。私の前に腰を下ろしたフィリォは、隣にいる木村靖彦に英語で話し掛けた。
「ここからがきついんだよ」
数見の動きはまさにフィリォの言葉通りになった。
三十五人目を過ぎた頃から、数見の動きに急激に疲労の色が見え始めたのだ。
汗を拭く回数が増え、気合いを入れることも多くなった。そして何よりも、対戦者との最後の握手がきちんと出来なくなった。それに併せて極真空手特有の挨拶である「十字」さえも正しく切れない。
そんな弟子向かって、廣重はいった。
「数見、いまからだ。ここからがんばろう」
数見は「押忍」と答えるが、その声は以前より小さくなっているのは明白だ。
一つの闘いが終わる度に、両手で膝を支えながら上体を伏せる場面が多くなっていく。まだ、半分も終わっていない状況で、最後まで数見は立っていられるのだろうか。
私だけでなく、数見の闘いを見守るすべての人たちがそう思っていたに違いない。
次第に顕著になっていく数見の疲労した姿に、セコンド陣が張り上げる言葉は次第に変わっていった。それまでは具体的な技術のアドバイスが多かったが、いつしか「顎を引いて」「腹で呼吸をして」「圧力をかけろ」といった、精神面ともとれるものに比重を置いた言葉が目立ち始めた。
だが、数見は「武道家」だった。
どんなに疲れていても、松井の「きちんと服装を直して」という言葉に「押忍、失礼しました」と答える場面が何度か見られた。
丁度半分が終了する五十人目の対戦者は田村悦宏だった。
数見と田村は、過去全日本選手権で三度闘っている。しかも、すべてが決勝戦である。戦績は数見の二勝一敗。どの試合も厳しい闘いだったが、四度目となる今回ほど辛い体調での闘いはなかったはずだ。
一分三十秒の闘いが終わり握手を交わした田村は、数見の右手を握ったまま、もう一方の手で数見の肩を叩き、「がんばれ」といった。数見は田村の言葉に頷 いた。誰もが数見の完遂を願っているのだ。
折り返しを過ぎた直後、松井の怒声が道場内に響き渡った。
「ちんたらやるな!経験者からいわせてもらえば、ちんたらやられるほうが辛いんだから、しっかりやるように」
疲労困憊している数見に対して、どうしてもきつく攻められなくなってしまう対戦者の気持ちはよくわかる。だが、それこそ肉体の犠牲を払ってまで挑む百人組手である。それを感傷的な「情」だけで台無しにすることほど挑戦者に失礼な行動はないのだろう。経験者である松井の言葉だからこそ、そこには重みがあった。
その後、対戦者は容赦なく数見に襲い掛かっていった。そして、とうとう数見のポーカーフェイスは疲労とともに崩れ去った。
しかし、精神的な修行こそが、百人組手に課せられた本当の意味での苦行である。どんなに苦痛に顔を歪めようとも、闘い続けることに意義があるのだ。
数見にとって、ここからが未知の「何か」を手に入れるための正念場となるはずだ。
そして私は、限界に直面しながら闘い続ける数見を通して、極真空手の本当の姿を見られるような気がした−−。


(つづく)

(「新極真空手」スキージャーナル/6号1999年8月10日発行「百人組手に見る極真空手の武道性」からの抜粋)

samurai_mugen at 03:23|Permalinkclip!小島&塚本作品集 

塚本佳子・作品集/「数見肇の百人組手〜極真空手の武道性」(1)

塚本佳子・作品集
from「新極真空手」6号
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数見肇の百人組手
〜百人組手に見る
極真空手の武道性(1)


●数見肇の死闘−−長い一日の始まり

一九九九年三月十三日。
この日、極真会館総本部において、四年ぶりの「百人組手」が行なわれた。挑戦者は、「数見肇」である。数見は、史上初めて全日本選手権を四度制覇し、今年の十一月に迫った四年に一度の世界選手権では、本家日本の牙城を守る日本勢の第一人者と目されている。
私が総本部に到着したのは、午前十時だった。総本部の前は、すでに数見の対戦者となる百人の道場生たちで溢れ返っていた。彼らは入り口に並び、受付で自分の順番を確認していた。
そこには、数見とともにすでに第七回世界選手権出場が決定している、田村悦宏や市村直樹の姿も見えた。

後で詳しく触れるが、現在の極真会館における百人組手は、世界選手権に向けて、代表選手に「気合い」を入れるための「儀式」的な側面を持っている。しかし、世界選手権への出場権を獲得すれば誰もが挑戦できるというものではない。それは、百人との闘いを乗りきれるだけの実績と力を持っている者だけに与えられる「特権」といってもいい。
今秋に迫った第七回世界選手権で、数見とともに外国勢を迎え撃つことになる田村や市村は、自分たちを代表してこれから数時間の死闘を繰り広げるであろう数見の百人組手を前に、どういった気持ちで「百分の一の任務」を遂行しようと考えていたのだろうか。
大勢の道場生のなかに数見の姿は見えなかった。
すでに道場に入ってしまったのか。寒い曇り空の下、私はしばらく外で数見の到着を待つことにした。だが十時三十分を過ぎても数見は来ない。私は受付の人に尋ねた。
「数見さんはもう道場に来ているんですか」
「はい」
十一時三十分開始予定なのだから、私が到着した十時には会場入りしていても何らおかしくはない。それなのに、なぜ私は数見がまだ道場に来ていないと思い込んでいたのだろうか?
数見は、「その瞬間」を待つ道場での苦しい時間を、たとえ一分でも一秒でも短縮したいと思っているに違いない。数見にとっては本来もっとも「安心」できる場所であるはずの道場が、今回ばかりは拭いきれない「不安」に満ちた空間なのだから−−。
そう私が勝手な想像をしていたのだと思う。
結局、私は百人組手を直前に控えた数見の表情を確認することは出来なかった。私は百人組手が行なわれる二階道場へと上がった。多少暖房は入っていたようだが、窓に取りつけられた大型扇風機が回っている。百人組手が始まると、これからどんどん道場内の温度は上昇していくのだろう。だが、外に三十分も立っていた私には、そんな道場内でさえ寒く感じられた。
開始十五分前。それまで和やかだった道場内に少しずつ緊張感が漂い始めた。誰もが落ち着きなくソワソワとしている。
館長である松井章圭が道場に姿を現わした。そして、息子の苦行を見守るために総本部に来ていた数見の父親に話し掛けた。
「見ていて辛い場面もあるとは思いますが……」
父親は険しい表情で松井の言葉を聞いていた。松井自身、過去百人組手の挑戦者であったと同時に、史上三人目の完遂者である。父の厳しい眼差しは、松井の言葉に百人組手の過酷さを改めて実感させられたがゆえのものだったのではないだろうか。
数見の師匠である廣重毅もまた落ち着かない様子だった。腕を組み、手持ち無沙汰に道場内を歩き回っていた。
廣重は四年前、やはり弟子である八巻建弐の百人組手を見届けた。完遂したものの、その後、八巻は一ヵ月弱の入院を余儀なくされた。人並みはずれた体躯と強さを身につけた八巻でさえも、それだけの犠牲を払って成し遂げたのが百人組手であった。数見にはいったいどのような結果が待ち受けているのか?
どれほどの弟子の力を信じていようとも、百人組手という極真空手最大の苦行を前にしては、不安な気持ちを拭い去ることは出来ない。それは師である廣重だけでなく、数見の父親も、かつて同じ苦しみを味わった松井も、ただ最後まで数見が自分の力で立っていられることだけを祈るしかないのである。
道場には八巻の姿もあった。だが、この日の八巻は四年前と違い、数見が闘う百分の一の立場でしかなかった。その立場の違いは穏やかな八巻の表情に如実に表われていた。
八巻は四年前に挑んだ百人組手について、どこかの雑誌のインタビューに答えていた。
「五十人を過ぎると突然ガクッときました。対戦者すべての攻撃が鉄パイプで叩かれているようでした……」
午前十一時。三階道場に百人の対戦者が揃った。テレビ放映用のセレモニーを始めるため、道場生たちは道着の下や上に着ていた上着を脱いだ。
だが、数見はまだ道場に入って来ない。
午前十一時十五分。太鼓の音が総本部中に響き渡った。数見のいないセレモニーは、松井の挨拶だけという簡単なもので終わった。
「百人組手はさせてあげるものではありません。数見君が世界王者を目指すための一つのハードルです。試合ではないのでムキになって勝負する必要はありませんが、決して気を抜かないように。しっかりと気合いを入れて数見君の相手を務めてください」
スペースの関係上、百人すべての対戦者が二階道場で自らの出番を待つことは不可能である。最初に闘う十五名と世界選手権代表選手を残し、それ以外の道場生たちは二階道場へと下りていった。
残った十五名は、各自柔軟体操を始めた。対戦者たちには、まだ緊張の色は見えない。十一時三十分を回った頃、一人目の対戦者である総本部所属の入澤群が道場の中央に立った。さすがに一番手は緊張するのだろう。入澤は堅い表情をしていた。
対戦者たちが動き出したからか、少し道場内の気温が上がり始めたようだ。それでも私にはまだ寒く感じられた。だが、松井はいった。
「始まったら暖房は切ってください」
一見何でもないような松井のこの言葉に、私はこれから行なわれる「百人組手」というものが、寒さをも吹き飛ばしてしまうほど「熱く」、そして「過酷」であることを実感した。
十一時四十分。やっと数見が道場に現われた。
道場に入って来た数見の表情は蒼白で、試合場で見せるそれとは若干異なるもののように思えた。それでも精一杯、平常心を保とうとしていたのだろう。その ときの私には、数見の表情から緊張感を感じとることは出来なかった。その代わり、いいようのない「不安」な気持ちが、数見の五体すべてを支配しているよ うに私には感じられた。 続きを読む

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2007年06月16日

小島一志の国内・海外取材旅行記(4)〜追加改訂版

●飛行機嫌い(3)


恐怖感というものは、あるきっかけを期に突然最高潮に達するものばかりではない。
徐々に徐々に、無意識のうちに心の底に沈殿しつつ、それが満杯、飽和状態になった時、理屈も何も関係なく「どうしようもなく怖い」という感情に支配されるものなのかもしれない。
そしていったん「恐怖感」を実感してしまったら、もう終わりである。恐怖感から逃れる事はきわめて至難の業となる。

前回記した1986年9月のオーストラリア取材の時、確かに私の意識には全くといって飛行機に対する恐怖感はなかった。だが、いまとなればあの時点で、私は無意識に恐怖感を心の底に溜め込んでいたのかもしれない。
メルボルンからシドニー行きの国内線に乗る時、私はなんとなく「また飛行機か、面倒だな」と気が重くなった記憶がある。それまでは「飛行機は楽しいもの」と思い込んでいた自分が、「面倒だな」と感じた事だけでも、心のなかに何らかの変化が生じていた事になる。


実は、1984年の熊本取材以降、オーストラリア行きまでの2年間に、私は何度も国内線に乗っていた。福岡、金沢、鳥取、そして沖縄には3度、渡った。飛行機に乗る度、私は内心ウキウキしていた。ただ、飛行機に馴れてくると、喜んでいる自分が田舎者に思われそうで恥ずかしくなってきた。
「俺なんか飛行機に乗るの別に特別な事じゃないもんね!」
そんな見栄が出てきて、飛行中も窓の外を眺めたりもせず、機内食(当時は国内線でも軽食程度の機内食が出た)も、本当は嬉いくせに、わざと面倒臭そうに食べて、わざわざスチュワーデスを呼びつけてはコーヒーのお代わりを注文していた。
そのうち、飛行機に乗るとすぐにシートベルトを締め、スチュワーデスを無視して文庫本を広げたりするようになった。勿論、アピールでしかないのだが、如何にして「私は飛行機に馴れてますよ」と見られるかばかり考えるようになっていた。
20代の私はやたらと自己顕示欲の強いバカだった。
それでもオーストラリア取材の時は、さすがに初の海外、それも羽田ではなく成田発という事で、ミーハーな本音が爆発してしまったのである。

1985年夏、2度目の沖縄取材のときだった。
会社の部下である富田という新人をカメラマン役にして連れて行った。約1週間の滞在予定だった。富田はこのときが初めての飛行機だったらしく、1年前の私と同様、人前もはばからず終始はしゃいでいた。
沖縄での取材も大成功だった。各流派の「古老」たちへのインタビューも無事に終わり、クライマックスは沖縄上地流の取材だった。「月刊空手道」誌上で、当時は幻の空手と呼ばれていた上地流の大特集を組む予定だった。
上地流の本部は宜野湾市普天間にある。そこに3日間通い詰め、3日目の午後には、上地流を学ぶアメリカ軍の将校・フォスター氏の好意で、特別に米軍基地内を案内してもらった。将校専用レストランで豪華な食事をご馳走になり、戦闘機にも乗せてもらった。
最終日の午後、私たちはやっとオフが取れた(当時は上司に綿密な取材計画書の提出が義務付けられていた。だが実は、適当にサボッてはよくビーチで遊んだ。だから、これはあくまで公式的なオフを指している)。
私たちは、首里城跡に足を運んだ。
あの頃はまだ現在のように、観光化もされず、勿論首里城は再建されていなかった。首里城公園は、崩れた石垣が無残に放置され、その上に雑草が生え放題の寂しいところだった。まさに「荒城の月」または「強者たちの夢の跡」の世界だったと言える。日が傾いてくると、ますます寂しそうになってきた。
首里城跡公園には小さな茶店が1軒だけあった。そこに黄色い公衆電話がポツンと立っていた。私はそこからタクシーを呼び、さらに百円玉を5個用意してガールフレンドのヨーコに電話をした。
相変わらず元気一杯のヨーコの声を聞きながら、それでも周囲の寂しさに飲まれた私は、静かに「とにかく明日、東京に帰るから」と言ったのを鮮明に記憶している。
ヨーコは、「どしたん? 元気ないやん。疲れとんやね。それじゃ会社で待ってるから。お土産忘れんといて」と言うと勝手に電話を切った。


その日の夜、部下の富田は図々しくも「僕は編集長から3日間の有給休暇をもらったので、あと2日、こっちにいてもいいですか?」と言った。「新人類は困ったもんだ」と思いながらも、どこか憎めない愛嬌のある富田の姿に私は「それもいいんじゃないか」と答えた。
それでも富田は一応私に気を使ったのか、「でも小島さんを空港までは見送りにいきますよ」なんて調子のいいフォローをした。
だが翌日、私がホテルをチェックアウトする時間になっても富田は高鼾して起きる気配もない。仕方なく私は1人でタクシーを拾い、沖縄空港に向かった。
確か飛行機は日航機だった。
出発も昼前だったはずた。私は精一杯、馴れたふりをして機乗した。そして文庫本を広げ、そのままウトウトと寝込んでしまった。気がついたら飛行機はすでに着陸体制に入っていた。私は機内食を食べ逃した事が残念でならなかった。
飛行機が着陸した。私は機内に荷物を預けていなかったので、バッグを肩に引っ掛けたまま、早々に到着出口を出た。
すると…、なんと出口の外にヨーコがいるではないか!
飛行機は勿論、たとえ電車での取材旅行でさえ、ヨーコが駅や空港に迎えにくる事など過去に1度もなかった。私は驚いた。すると何故か、いつもは陽気なヨーコは元気がない。口数も少なく、ただ黙って私の手を強く握り締めた。
「いったい、なんの風の吹き回しだい?」
冗談めいた口調で私が言ってもヨーコは何にも答えない。かといって不機嫌でもない。仕方がなく私たちは黙ったままモノレールに乗り浜松町で降りた。私が「どっかでメシでも食べようか」と言うと、ヨーコは黙って頷くだけだ。
おかしい…。
何かが変だ。
普段ならば、食事をするレストランや食堂を選ぶのはヨーコの役目と決まっていた。というより、私には店を選ぶ権利が与えられてなかった。メニューでさえ、私は見る事も許されず、料理を注文するのはもっぱらヨーコの特権でさえあった。それが私たちの暗黙のルールだった。
それなのに、この日に限って彼女は何にも言わず、私が選んだ中華料理屋に入った。注目も私がした。
ヨーコはずっと私を黙って見つめていた。耐えきれなくなった私は思い切って口を開いた。
「なあヨーコ、いったい何があったんだ?」
すると、彼女は店に置かれているテレビに向けてアゴをしゃくった。私は反射的にテレビに視線を移した。テレビでは特別ニュースが報じられていた。深刻そうな口調でアナウンサーが、「情報が入り次第、詳しい犠牲者の報告をいたします…」などと言っていた。


1985年8月12日。日航機123便が群馬県御巣鷹山山中に墜落し、520名が犠牲者になった。この日本史上最大の航空機事故が起きた瞬間、なんと私は沖縄から東京に向かう日航機の中にいたのである。
情報が交錯する中、万が一の事を考えて、居ても立ってもいられなくなったヨーコは思わず会社を抜け出し、羽田空港まで私を迎えにきてくれたのだった。


このときの驚きと衝撃が、私が飛行機嫌いになった「原点」である。
最初は他人事だと思っていた。まさか自分が乗る飛行機が落ちるなんて…。
あの事故は1/1000000くらいの確率に過ぎない。私はそう思い込み、ひとりで納得した。だから少なくとも自分にとっては恐怖の実感もなかった。
だからオーストラリア取材時も飛行機に乗る事の躊躇いはなかった。しかし、無意識のうちに、その恐怖感が体内に蓄積されていったに違いない。
それが現実的に私を襲うのは、それから3年後の事である…。


(つづく)

samurai_mugen at 07:02|Permalinkclip!その他の連載コラム 

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