連載・芦原英幸取材録

2007年02月11日

連載・芦原英幸取材録(9)

八幡浜駅前のアーケード商店街の入り口脇には小さなスーパーマーケットがあった。
店頭で何やら揚げ物らしきものが実演販売されていた。そこには大きな人だかりが出来ていて、香ばしい魚のフライに似た匂いが漂っていた。私は芦原英幸に「先生、あれ何売ってるんですか?」と訊いた。朝食抜きで早起きしてきた私のお腹は、その匂いに誘われるようにグーグー泣いていた。
「ありゃ、ジャコ天よ。小島はジャコ天知らんの?」
関東生まれの関東育ちの私は実際、初めて耳にする言葉だった。すると芦原は「そういえばちょっと小腹が空いたな。よし、ここで待っててね。わしが買ってくるけん」そう言うや否や芦原は走るようにスーパーの人だかりの中に入っていった。
ところで芦原英幸はいつもダンディーだった。この日も濃紺のパリッとしたスラックスに黒いポロシャツ、そして真っ白なスウィングトップを羽織っていた。175センチ前後の身長で、後ろから見るとやはり「素人」には見えない筋肉が肩や背中に盛り上がっていた。そんな芦原がなんの屈託もなく街の「おばさん」達の中に分け入っていく姿はなんともユーモラスだった。
私はアーケードの入り口付近で待っていた。なかなか芦原は戻ってこない。本来ならば私が買いに行くべきところを、芦原は私を振り切るように行ってしまった。私は芦原をまるで使いっ走りにしたようで大きく後悔していた。約15分後、芦原は脂が染み出した紙袋を抱えて私のもとに戻ってきた。
「ほれ、これがジャコ天よ。こっちではみんなオヤツ代わりに食べるんよ。熱いうちに食えや」
そう言いながら袋を私に差し出すと、自分も1つ摘んでかじりだした。それは、私が知っている「さつま揚げ」に似ていた。というより、まさにさつま揚げそのものだった。私は恐縮しながらジャコ天を口に入れた。普通のさつま揚げと違い、かじるとジャリジャリする。小魚が粗くすりつぶされているのだ。
フーフー言いながら私は芦原とともにジャコ天を頬張った。意外に脂っぼくなく、とても美味しかった。「これがこっちの庶民の味っちゅうもんよ。なかなか美味いやろ?」そう言いながら芦原も2枚、3枚と簡単に平らげた。


「よし、食べながらいくけん。昼飯はもっと美味いものをご馳走するけん」
そう言うと、芦原は急に歩き始めた。私は急いで芦原の後を追った。だが、ほんの10メートルも進まないうちに、また芦原は足を止めた。商店街の人が数人店から出てくる。
「先生、こっちにきとったの?」
見る見るうちに芦原の周囲に人が集まってきた。そして芦原はお茶屋の中に誘われていった。仕方なく私も続く。お茶屋の主人は「今お茶を入れますけん、飲んでいってください」と言いながら私は店内の椅子に芦原と並ぶように座らせられた。
「久し振りやのう、先生」
「先生、今日はどしたん?」
次々と商店街の人達がやってきては芦原に声を掛ける。芦原は嬉しそうに笑いながら相槌し、私を紹介した。
「ほー、取材ね。先生は相変わらず人気もんやね」
いつしか芦原を囲む人達は私に向かっていろんな事を話し始めた。お茶屋さんの主人が私に湯飲み茶碗に注いだお茶を差し出す。芦原は完全に私を無視して「ジャコ天の後のお茶は美味いけん」などと言っている。
「先生の事はよく書いてくださいよ。八幡浜はね、先生がきてから街のヤクザどもはいなくなったんよ。みんな先生がゴミ退治をしてくれたおかげや」
「みんなして道場に通ったもんだよ。ここの連中はみんな1度は先生にのされたやつばっかりですから」
いつになっても話は止まず、芦原も立ち上がろうとしない。そのうちに場所を近くの喫茶店に移そうという事になった。芦原を中心に人垣が一斉に動き出し、通りを挟んだ斜め前の喫茶店に入った。どんどん人が増えてくる。いつの間にか喫茶店は満員になった。人達がやってきては芦原に挨拶する。
最後には伊予銀行の支店長と警察署長までやってきた。銀行の支店長は、「まだ私がペーペーの時に先生に世話になったんですよ」と言い、警察署長も「先生にはとことん空手でしごかれましたわ。八幡浜署では柔道と一緒に空手も正課になってましてね。署員はみんな先生に転がされたもんです。柔道5段の私も子ども扱いされたもんですわ」などと言う。
「しかし、みんな最後はここに戻ってくるんやね、○○さんも、あれから大洲の副支店長を勤めて今は支店長さんやもんねえ。署長もいろんなとこ転属して、松山にも配属されていたんよ。それが今じゃ、また八幡浜や」
芦原は大きな目を細めながら私に紹介する。


芦原英幸と言えば劇画「空手バカ一代」で有名になったと多くの人は言う。だが、ここに集まっている人達は、そんな事と全く関係なく、「生の芦原英幸」を愛しているのだ。私は八幡浜の人達に囲まれて、今でも慕われている芦原を見ながら、改めて彼のカリスマ性を実感していた。
約1時間半後、私達はやっと商店街の人達から解放された。芦原は顔を火照らせながら、「いやー参った参った。ここにくる度これじゃけん。いっそ、この商店街を通らず遠回りしたくなるんよ。でも、嬉しいねえ。芦原は幸せ者よ」と言った。私は「先生、八幡浜は何年振りなんですか?」と聞いた。すると「2か月振りくらいかなー、3か月は経っておらんよ」と言う。
私は驚きを隠せなかった。あれだけの歓迎を受けるからには少なくとも2、3年は八幡浜に足を運んでなかったに違いないと私は決めつけていた。しかし、ほんの2、3か月しか経ってないという。
「それじゃ先生、八幡浜にくる度、この歓迎ですか?」
「そうよ。毎回よ。恒例の行事のようなもんよ」
笑いながら芦原が言う。私にはどうしてもこのお祭り騒ぎが信じられなかった。しかし、これは現実なのだ。私は心から芦原が羨ましく思った。
芦原英幸は名実ともに八幡浜の英雄なのだ。


アーケードを抜けて少し歩くと鬱蒼とした林が見えてくる。道を渡って林の方に歩くと鳥居が姿を現す。その左手前に「芦原会館」という看板が掲げられた古い一軒家が目に入った。
「ほれ、あそこが道場よ。芦原が初めて建てた、っちゅうより生徒たちと一緒に建てた道場じゃけん。さっきの商店街の連中や警察署長がまだ若かった頃や、みんなであの道場を作ったんよ。いわば、あの道場こそが芦原空手発祥の地よ」
道場に近づくと1人の男性が玄関の前に立っていた。そして私達に気付くと「押忍!」と十字を切って挨拶した。芦原は気軽に「よー、ご苦労さん」と言った。そして私に「あれが今、ここを守ってる中元や」と私に囁いた。
中元憲義…。芦原会館の最古参支部長である。痩せぎすながら、山崎照朝(極真会館第1回全日本選手権者)にも通じる締まった筋肉がシャツの上からのぞく。背筋がシャンとした姿勢から、空手の技量が並みでない事が一目瞭然である。
私達は中元に促されて道場の玄関をくぐった。一見、普通の2階建ての民家のように見えたが、玄関の中は板張りの立派な道場である。意外に広く、道場の床はピカピカに磨かれていた。
芦原は再び言った。
「小島、ここが芦原空手発祥の地よ」

(つづく)

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2006年12月09日

連載・芦原英幸取材録(8)

1986年春、私が初めて芦原会館総本部を訪れた時の事である。
取材初日は総本部の稽古を見学し、夜遅くまで食事をしたりコーヒーを飲みながら芦原の話を聞いた。芦原は東京でもよく私を小料理屋や小さなクラブに連れて行ってくれたが、意外にお酒を飲まなかった。松山でもそうだった。飲み屋には行くのだがあまり酒を飲まない。私も大学浪人時代、ある事があってから殆どアルコールを受け付けない体質になっていた。空手家には東孝氏や佐藤勝昭氏、佐藤俊和氏のような「ウワバミ」並みの酒好きが多いが、下戸の私には酒をあまりたしまない芦原はとても付き合いやすかった。巷間の噂では芦原は大酒飲みと言われている。確かに本気で飲めば滅法強いのかもしれない。だが少なくとも私と一緒の時の芦原はあまり酒を口にしなかった。
一方、芦原は飛び抜けたおしゃべりだった。私もかなりの話好きだが、芦原のおしゃべりは延々と続いた。だから芦原の話に付き合うのは容易ではなかった。
話題が次から次へと新幹線のように移っていく。ただボーっとして頷いていると、突然のように「小島、どう思う?」と素早い突きのような質問が飛んでくる。「自分もそう思います」などといった曖昧な返答を芦原は殊の外嫌った。具体的に、たとえ芦原の言葉に反対の意見であっても答えないと雷が落ちる。
しかし、私は芦原の話を聞くのが決して厭ではなかった。確かに芦原の話は高速で話題も四方八方に飛ぶ。だが決して「話っ放し」ではない。必ず最後には話に結論を持ってくる。私はそんな芦原を見て「頭の回転が早い人なんだな」と感動したものである。
勿論、芦原も人間だから時には他流、特に極真会館の批判を口にする事もあった。大山総裁への「悪口」を言う時もあった。だが何故か芦原の言葉には嫌みやネットリした湿り気がなかった。自分に対する圧倒的な自信がそうさせていたのかもしれない。というより、それが芦原が持つ天性の明るさなのだと思った。
ある時、芦原は突然、梶原一騎氏の批判を話し出した。極真会館を離れる事になった遠因が梶原氏にあるという事は以前も聞かされていた。
要は芦原が「空手バカ一代」のモデルにされたのも決して芦原が梶原氏にゴマを摺り媚びへつらっていったからではなく、梶原氏の方から描かせて欲しいと頼まれた事。その後、梶原氏が黒崎健時氏と組んでキックボクシングやプロレスに接近していく際、ショービジネスを好まない芦原は反対し、それ以来、梶原氏との関係が疎遠になっていった事。だから第2回世界大会でのウィリー・ウィリアムスの八百長試合や、ウィリーとアントニオ猪木の「アングル・ショー」には無関係であった事。
だが梶原氏は大山総裁との確執を深めていく過程で、あたかも芦原が「梶原シンパ」の代表のように公言し、気がついたら大山総裁の敵側の立場に見られてしまった。「芦原は梶原の太鼓持ち」「梶原と大山館長の仲を裂いたのが芦原」そんな噂がまことしやかに流された。私自身も早稲田大学の極真空手同好会にいた1980年前後、「芦原英幸は梶原一騎の番頭」だと信じていた。確か芦原が極真会館から除名になった時、その理由の1つとして大山総裁と絶縁状態にあった梶原氏との交際を続けた事が挙げられていたはずだ。
芦原は「とんでもないウソじゃけん」と私に声を荒げた。確かに「空手バカ一代」に取り上げられて「英雄」扱いをされ有頂天になった時もある。それを大山総裁が快く思わなかった事も知っている。だが「いつまでも他人におだてられて、マスコミに騒がれて浮かれている程ワシはバカじゃないけん。マスコミはとことん挙げて一気に潰しにかかるもんよ。ワシはそれを身をもって知ったんよ」と芦原は私に言った。
「小島もマスコミの世界にいる人間じゃけん。よく覚えておくといい。マスコミは勝手に人を持ち上げて商売し、次は谷底に突き落としてまた商売をする。だからワシはマスコミを信じないんよ。小島との付き合いもワシと小島の関係なんよ」
この芦原の言葉は、今でもメディアの世界に生きる私の大切な処世訓となっている。
話を梶原氏に戻す。芦原は以上のような話しをしながら「ワシは死んでも梶原を許さんけん」と顔を朱くしながら吼えた。それでも芦原の言葉や態度には陰湿さが全くなかった。人に対して怒り、声を張り上げて罵りながらも、こんなに陰湿さがない人間を私は過去、見た事がなかった。
東京でも私は幾度となく芦原が滞在するホテルを訪ね、芦原の話を聞いた。だが松山で見た芦原は開放感に溢れていた。私は松山で、芦原英幸の真の「素顔」を見たような気がした。

取材翌日、芦原はまだ午前8時にもならないうちに私が泊まるビジネスホテルに迎えにきた。昨夜は午前3時過ぎまで芦原と一緒にいた私は、まるで体内のエネルギーを絞り取られたかのようにベッドで深い眠りについていた。芦原も殆ど睡眠を取っていないはずだ。私の部屋をノックし、「小島!今から八幡浜にいくけん。早く起きろ!」と芦原は叫んだ。今考えてみると、私の限られた松山滞在中、芦原は精一杯に色々な所に私を案内してやろうという親切心だったのだと思う。
私はダルい体を引きずり、眠い目を擦りながら外出の準備をした。芦原は私を車の中に放り込むと猛スピードで総本部に直行し、車を降りると走るようにJR松山駅に向かった。
8時30分(記憶では)発の特急列車に私達は飛び乗った。当時の予讃線は電化されておらず、ディーゼル列車だった。固い椅子と背もたれが今でも記憶に残っている。席に落ち着くと急激に睡魔が襲ってきた。しかし私は寝る事を許されなかった。芦原はこれからいく八幡浜の事や初めて道場を開いた宇和島の話などを相変わらずの早口で話し始めたからである。この時の芦原はとても楽しそうだった。まるで小旅行にでもいくかのように、いつもより数段話に弾みがあった。
「小島、ワシが初めて道場らしい道場を持ったのが八幡のなんよ。それまでは流れ者の生活よ。工場の隅を借りたり、夕方は使わない魚河岸の市場を借りたり…。まず水道で魚の滓を流してブラシで綺麗に掃除するんよ。それだけで1時間は掛かる。それから稽古するんじゃけん。床は幾らブラシで擦っても魚の脂が染み込んでいるけえ、ツルっと滑るんよ。あっちでツルっ、こっちでツルって稽古にならんのよ。そんな流浪者が道場生の協力でやっと一人前の道場が持てた。八幡浜こそがいわば芦原空手発祥の地なんよ…」
列車は右に伊予灘を望み、左に山地を見ながらゆっくり走った。特急列車とは思えない程ゆっくりと走った。優に2時間は走った。話し疲れた芦原が「そういや昨夜は殆ど寝ちょらんけん。少し寝るか?」と言った頃、「次は八幡浜、八幡浜」という車内アナウンスが流れた。
八幡浜はまさに漁師町といった風情の小さな町である。こじんまりとした駅を出るとロータリーがあり、それを渡るとアーケードのある商店街に入る。芦原は「道場はこの商店街を抜けるとすぐじゃけん。5分も歩けば着くやろ」と私に言った。
しかし、それはとんでもなかった。私達がアーケードを抜ける為には更に約2時間を要する事になるのである…。
(つづく)

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2006年10月13日

連載・芦原英幸取材録(7)

私が初めて松山の芦原会館総本部を訪れたのは1986年4月だった。当時、羽田ー松山間の空路は旧型のプロペラ機YSだった。時間にして3時間かかったのを覚えている。芦原会館総本部はJR松山駅から3分という一等地にあった。予定より早く松山市内に入った私とカメラマンのHは時間潰しを兼ねて松山名物の五色そうめん専門店で食事を済ませ、駅前の古びたビジネスホテルにチェックインし、一息ついてから芦原会館に向かった。大通りに「芦原会館」の看板が架かり、そこを駅側に入ると直ぐに真っ白いビルが見えてくる。ビルの屋上には「芦原会館」と書かれた看板が立っていた。確か4階建てだったか、遠目にもそのビルはきわめて瀟洒だった。
春の日差しが眩しいほど、晴れた午後だった。私達が総本部の敷地に足を踏み入れると、すでに白いスウィングトップ姿の芦原英幸は玄関前のロッキングチェアに腰掛けて何十通もの手紙や葉書に目を通していた。私達を見つけた芦原は、気さくな笑顔で、「遠いところをいらっしゃい」と握手を求めてきた。そして私の耳元で「小島の上役は調子のいいヤツじゃけんな。ワシはああいうヤツ好かん。あれからも芦原にお詫びをしたいので東京にきたら会いたいなんて何度も電話を掛けてきたんよ。ワシは結構、小島さんを寄越してくれと言ってやったけんな」と言いながら、私の肩を小突いた。
芦原は「毎日読みきれんほど手紙や葉書が届くんよ。殆どが生徒や入門希望者からのものじゃけん」と少し自慢げに言うと、「さあ中へどうぞ」と私達を誘った。その時、私の視界に人間の形をした木製(または厚いベニヤ製)のダミーが映った。駐車場の横の壁にそれは立て掛けられてあった。私は咄嗟に「手裏剣の的に違いない」と確信した。
「先生、あれは手裏剣の的ですよね」
私は思わず口に出た。屋内に入りかけた芦原はきびすを返して「ああ、あれ?よくわかったな」と言った。私は映画「地上最強のカラテ2」か何かで芦原が手裏剣を自在に扱うシーンを見た事があった。「先生、少し手裏剣を見せてもらえませんか?」と少し強引かな?と思いながらも、この時を逃したら芦原英幸の手裏剣投げは永遠に見られないと必死で口にした。芦原は苦笑いしながら「ええけん。これは危険で、実戦で使ったら人を殺しちゃうけんな。カメラは撮んといて」と言いながら、いったん会館ないに入ると手裏剣を10本近く束ねて持ってきた。ただ、芦原が手にした手裏剣は、よく忍者映画や漫画に登場する星型のものではなく、一見するとただのナイフのような縦長のものだった。
芦原は的のダミーを壁の真ん中に運び、私達がいる方に戻ってきた。的までの距離は優に10メートルはある。
「それじゃ、芦原は動きながら的の真ん中、頭から腹まで縦に狙っていくけん。巧くいったら小島、コーヒーでもご馳走してな」
そう軽口を叩いたと思うと振り向き様に第1投を放った。手裏剣は見事に的の眉間に命中した。私達が感嘆の声を上げると、芦原は「これからじゃけん、見物は」と言いながら私達のもとから歩いて離れながら第2投を投げた。今度は「人中」つまり鼻と口の間に命中した。芦原は私達の方を見ると、「どや?」と聞いた瞬間、今度は左手で横殴りに手裏剣を飛ばした。投げる瞬間、芦原は冗談混じりに「シュッ!!」と発した。手裏剣はダミーの喉に刺さった。
私達はあまりの見事さに声さえ出なくなった。さっきまで1投ごとに拍手していたのだが、もはや拍手さえするのを忘れていた。芦原はまるで曲芸師のように色々な体勢から手裏剣を投げた。ある時はダミーに完全に背中を見せ、グルッと回り様に投げ、フォームも上から横から、または右側から左側から投げた。そして手裏剣は喉から胸の間、「水月」(みぞおち)、ヘソ、金的と一直線に命中し、さらに左右の手足に1発ずつ綺麗に刺した。
全部投げ終わると、芦原はやれやれという感じでダミーに刺さった手裏剣を1本ずつ抜くと大切そうにデッキテーブルの上に置き、油雑巾で拭き始めた。
私は「先生、1本だけ…、投げさせてもらえませんか?」と懇願するように言った。芦原は「ええよ」と1本の手裏剣を私に渡した。それは意外に重かった。黒光する鋼鉄の手裏剣はまるで日本刀のような怖さがあった。私がダミーに向かうと、芦原は笑いながら「小島、ダメダメ。そんな所からじゃ絶対届かんよ。もっと半分くらい距離を縮めて。投げ方の基本は野球のオーバースローの要領じゃけん。手裏剣が刺さらんと、的が弾いて飛んでくるけん。気を付けや」
私は芦原に言われたように投げた。だが手裏剣はダミーの手前で急降下し、地面に落下した。私がため息をすると、芦原は笑いながら、何事もなかったかのように「さっ、中にどうぞ」と言いながら、さっさと会館内に入っていった。
(つづく)

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