2007年01月

2007年01月30日

再起不能!? 史上最悪のダウンに見舞われて… (最新改訂版)

誰にでもその日によって体調の良し悪しがあるものだ。
私は子供の頃から常に大人達から「元気な子」と言われてきた。その元気さが家庭環境によって悪の方向に向かってからは、「元気な子」から「手の着けられない悪ガキ」または「何をしでかすか分からない少年犯罪者」などと呼ばれるようになるのだが…。


1986年、「月刊空手道」編集長としての立場で大山倍達総裁にお会いした時、総裁は別れ際に握手をしながらこう言った。
「極真にはねえ、パワーのある男が沢山いるが、君ほど元気のいい男は初めてだよ」
多分に社交辞令とお世辞の混じった言葉である事は先刻承知だが、しかし大山倍達にそう言われて悪い気がする人間はいないだろう。考えてみれば、私はこの歳までずっと「元気」「パワフル」「強気」などと出会う人達から例外なく言われ続けてきた。そして必ずのように「どうすれば、そんなにパワーを保てるのですか?」などと訊かれた。そんな質問に対し、私は真面目に答えた事はない。「えっ?別にこれが普通ですよ」としか言わない。
だが、私には殆どの人が知らない顔がある。その秘密を知っているのは唯一、相棒の塚本佳子くらいだろう。


学生時代はそうでもなかった。多分、ストレスというもの(私は今でもストレスの意味が理解できないが…)を感じた事も背負った事もなかったからだろう。つまり「社会的義務」を負っていなかったからだと思う。
ところが就職してからはそうはいかなくなった。時折、確実に自分の五体からエネルギーが枯渇するのを感じるようになった。まるでガス欠になった車のように、何もかもやる気が失せてしまうのだ。だが、周囲の人間はそんな私の状態を些細も感じなかったはずだ。何故なら、それはあくまで私の内的な問題であり、それを表に出さない程度の術と、最低限の非常用エネルギーは蓄えていたからだ。


しかし、そんな状態になると私は必ず「2日間の引き籠もり」をする事に決めていた。約2か月に1度の頻度で私のエネルギーは切れる。理想的には土日がいいのだが、そう都合がいい時ばかりではない。平日でも、ヤバいと感じたら私は強引に2日間の代休を取った。
スーパーマーケットで菓子パンやカップラーメン、そしてコーラやジュースを買いだめする。食べ物はとにかく簡単に口に出来るものでなくてはならない。そして布団の周りにそれらを並べ、窓は雨戸で締め切り、部屋の電灯も消し、小さな読書灯だけにする。更には電話の元栓も外して布団に潜り込む。
初日は死んだように寝る。とにかく寝る。2日間、寝続ける。そうするとさすがに目が覚める。だが一切テレビも付けない。好きな音楽も聴かない。本も漫画も手にしない。
ただ、ボーっと何にも考えない。というか、私は過去頭の中が真っ白になったり何にも考えないという事がない。少なくとも自覚がない。だから、何にも考えないのではなく、例えば自分が鳥になって空を飛んでるとか、海辺で日光浴をしながら水平線を見ているような…そんな事をボーっと空想しているのだ。そうすると、また眠くなり寝る。
ちなみに、そんな時は時計を見るのは厳禁だ。時間を忘れるのである。今何時か?それどころか今が朝か夕方かさえも考えない。あるがままに何にもしないのである。腹が減れば手を伸ばして菓子パンをかじり、喉が乾けばぬるいコーラを飲む。そしてボーっとするか寝る。
すると徐々に体の底からムズムズと得体の知れない「怪物」が目を覚まして動き出すのを感じるのだ。だんだん居ても立ってもいられなくなる。あたり構わず叫びたい衝動に駆られてくる。しかし、それでも必死でその怪物をなだめすかして寝る。
そうすると、翌日には以前のような自分が完全に甦っているのである。


だが20代後半、結婚し子供が生まれると、そんな「2日間の引き籠もり」は不可能になった。かといって私のエネルギーは無尽蔵ではない。何とかエネルギーを充填しなければストレスで押しつぶされそうになる。
「1人にならなければ、1人にならなければ!」
ところで、私の結婚は決して成功ではなかった。日々の生活自体が徐々に私の精神を狂わせ、エネルギーを奪っていった。こうして30を超えた頃から、私は偏頭痛に悩まされるようになった。ところがこの偏頭痛は何故か定期的になる。それも大体2か月に1度の割合なのだ。
私は理解した。偏頭痛はまさに私のエネルギーがゼロになり、体がヤバい状態にある事を知らせる「危険信号」なのだと。
それ以後、私は偏頭痛に襲われると家を出た。池袋のカプセルホテルに2日間籠もるようになった。いつしか2日間が3日間に延びた。多分、その分だけ私自身が抱えるストレスは増えていたのだろう。
確かに当時の私は1日中腹を立てていた。毎日が不満だった。仕事もプライベートも、何もかも捨ててしまいたい衝動と格闘しながら生きていた。唯一、息子だけが可愛かった。息子とだけは離れていたくなかった。
こうして私のカプセルホテル通い(時にはビジネスホテルを利用する事もあったが)は約5年続いた。その間、私の私生活も大きく変化した。私は日々の生活に耐える事を放棄した。
そしてまた数年が経過し、最近は息子も大人(18)になり、息子の協力で再び「2日間の引き籠もり」が可能になった。


だが、先日の偏頭痛とともに私を襲った倦怠感は過去にないほど酷いものだった。今この瞬間も、完全に回復したとは言い難い。これを書く事で、やっと再び充満しつつあるエネルギーの感覚を私は暗中模索、確かめているのである。
確かに今年に入ってから私の周囲はトラブル続きだった。会社の業績が落ち込むのは常に山あり谷ありである以上、仕方ない。だが私も塚本も予想だにしなかったスタッフの怠慢・独善。更には10年間放り続けてきたつけが回ってきたようにプライベートのトラブルが重なった。
私は親を敵に回し、あらゆる血縁と縁を切る事を覚悟した。心を鬼にして数人のスタッフのクビを切り捨てた。全て苦悩の末の決断だった。いくら私の側に塚本がいてくれても、今回の決断は何もかも私自身が責任を負うべきものだった。
こうして、気がついたら私は酷い偏頭痛に襲われ、おまけに風邪をこじらせてダウンを余儀なくされた。まる3日間、私は死んだように寝続けた。4日目もベッドから起きられなかった。だが、その頃になると、独りぼっちで寝ている自分が無性に悲しくなった。そんな私の心を見透かすように、気がつくと息子は私の近くにいてくれた。飼い犬の老犬・エルも私のもとから離れようとはしなかった。
私は思った。
そうなのだ。今回のダウンは決して一連のトラブルによるストレスだけが原因ではないのだ。確かにエネルギーは完全にゼロだった。非常用のエネルギーまで使い果たし、マイナス以下に陥ったのも事実だ。
だがそれは、近々本格的に取り掛からねばならない「大山倍達の遺言」に向けたエネルギーを充填する為に、私の体と精神が己に課したオーバーホールなのだ。
弓は弦を引けば引くほど、放つ矢は強力になる。それと同じ事で、向かう方向と反対への力が大きければ大きいほど、それを乗り越えた時のエネルギーは凄まじい。
今回の私のダウンは「大山倍達の遺言」執筆に向けた引き籠もり、否、エネルギー補給の為の「冬眠」だったのだ。同時に、「大山倍達正伝」の執筆時のような身を削るような苦行に臨む事へのたじろぎであり躊躇いでもあった。
私はそのように理解した。
まだ全快ではない。
しかし全快は近い。
また塚本と2人の「戦い」が始まろうとしている。私には塚本佳子という強いパートナーがついている。
私達は勝たなければならない!

samurai_mugen at 20:03|Permalinkclip!単発コラム 

新極真会へのメッセージ!     (07/1/30)

顧問弁護士を代理人とし、新極真会との折衝は年を越しながらも相変わらず続いている。
私はこのブログでも繰り返し書いている。私そして夢現舎の目的は断じて新極真会との「ケンカ」ではない。あくまで関係改善が目的である(理不尽にケンカを売るというならば、いつでも買う準備はあるが)。その為にも、まずは昨年11月に新極真会から私および夢現舎宛てに送付された「絶縁状」の撤廃を私達は求めている。
代理人とは別ルートで私のもとに寄せられる多くの新極真会関係者からのメールや電話によれば、私達との関係改善を図るべきだという内部の声が急激に高くなっているのは間違いないようだ。ただ、やはり問題は意志調整にかなり難問があるのが伺える。
民主的合議制を標榜し、NPO法人という公共団体を謳う組織にしては、やはり意志調整および意志決定に何故、数カ月も要するのか理解に苦しむ部分は少なくない。多くの新極真会関係者や幹部が匿名を前提に非公式に公言している(矛盾しているが)ように、現在の新極真会内部にのっぴきならない「異物」が存在しているのは確かなようだ。
組織間の問題やトラブルは、たとえ事務レベルでの調整や根回しが必要であるとしても、最終的にはトップ同士が直接会談して決着を付けるのが国際的慣習であり、それが最も誤解も少ない明快な解決法である事は論を待たない。勿論、会談には法的代理人や第三者が立ち会うのが理想であるのはいうまでもない。
多くの人達が理解しているように、新極真会のトップが緑健児氏である事は疑いのない事実である。だが、何故か私に会うべき新極真会側の「代表」がなかなか決まらないというのは一体どういう事なのだろうか?仮に新極真会を代表するのが理事会を構成する7名の理事であるならば、私は7名を相手に会談に臨んでも一向に構わない。とにかく私達は新極真会と良好な関係を築きたいだけなのだ。
夢現舎は現在、公式に盧山初雄氏が率いる極真館と梅田嘉明氏が再建中の(財)極真奨学会を支持する立場にある。しかし、それが即ち他団体への否定ではないし、他団体の主張や理念への否定でもない。現に私は今、松井章圭氏との再会を機に、主義・主張の壁を超えて松井派極真会館との友好・協力関係を改めて深めていくつもりでいる。
新極真会ともそのような関係でありたいと望んでいる。私と塚本佳子共著で執筆予定の「大山倍達の遺言」では、大山総裁亡き後の極真会館分裂騒動に関わったあらゆる人達の声を可能な限り汲み取り、偏見や先入観を廃した真にジャーナリスティックなルポルタージュを目指している。
私達は決して新極真会を「クーデターにより成立した異分子団体」とは一方的に断じたくないのだ。彼らなりの「正義」を知り、世に問いたいだけなのである。

samurai_mugen at 14:58|Permalinkclip!単発コラム 

連載・髭さんとの思い出(7)  最新改訂版

当時、私が通っていた中学には2つの不良勢力が何かにつけて角をつき合わせていた。ひとつは私が所属する柔道部の利根川という3年生を番長とするグループである。このグループは不良の「本流」と言ってもよかった。
私が幼い頃、世話になった父親の博徒仲間で「在日」の梁川さんの長男、智明ちゃんが最初に作ったグループで、2代目の番長がやはり柔道部の2年先輩の若林さんであり、利根川さんは3代目だった。
この時代、1970年代半ば頃から「暴走族」が社会問題になりつつあった。メディアは東京の「マッドスペシャル」とか「スペクター」更には「みなごろし」なんて物騒な名前の暴走族が派閥抗争や一般人への暴力事件など起こす度、大袈裟に報じていた。私の街にも暴走族が結成され、名前を「eve」といった。名前に似合わず「eve」は凶悪な武闘派暴走族として近隣では怖れられ、その裏の総長が梁川智明ちゃんだった。


ちなみに私が「智明ちゃん」という書き方をするのは、私が家庭の事情で梁川さん宅に預けられていた時期があり、まるで兄弟のように過ごしたからである。今でも私は「智明ちゃん」と呼んでいる。私が中学に入学する時、入れ替わるように智明ちゃんは卒業していった。ある日、智明ちゃんは私を自宅に呼び出し、こう言った。
「中学には悪いやつらが一杯いる。一志はグループがないからヤバい事もきっとある。毎日毎日カミソリ振り回している訳にもいかないだろ?だからこれからは何かあれば『梁川は兄貴分だ』と言えばいい。それだけで大抵の事はケジメがつく。俺の跡目を若林に任せてある。一志はどうせ柔道部に入るんだろうから、若林についとけ。一応親父らの真似して、これから義兄弟の契りのさかずきを交わす」
私達の家庭環境が悪かったのが最大の理由だが、また当時は映画も任侠物が大流行していた。高倉健や鶴田浩二は東映の2枚看板で、北島三郎の「兄弟仁義」が街のパチンコ屋では何度も流れていた。智明ちゃんは湯飲み茶碗を持ってきて、自宅で親父さんが密造した白い「朝鮮酒」(後に、私はそれがマッコリという事を知る)を茶碗に注ぎ、おもむろにポケットからジャックナイフを取り出した。
ジャックナイフはよく映画に出てくる不良が振り回すやつで、先端が蛮刀のようにやや太く反っているのが特徴だ。だがジャックナイフを実際に見るのは初めてだった。刃渡りは約10センチ強、真鍮製の柄と小さな鍔が付いている。握りの部分に何やら模様の入った緑色のガラスが埋め込まれていた。ボタンを押すと刃が出る飛び出しナイフと違い、革製の鞘が刃を覆っていた。
智明ちゃんはジャックナイフで小指の腹を軽く斬った。うっすらと血が滲んでくる。智明ちゃんは私にも同じ事をやるように促した。私は目をつぶりながらナイフの刃を指に当てた。加減が分からず深く斬ってしまったようで、指から血が滴った。智明ちゃんは血の付いた2人の小指を絡ませ、それを茶碗の酒の中に突っ込んで掻き回した。白い酒が心なしかピンクに色付いた。そして茶碗の酒を交互に3回ずつ飲んだ。最後に飲み干した智明ちゃんは、茶碗を投げつけで割った。
これが私達の「義兄弟」の契りの儀式だった。あくまでもガキの遊びであり、見様見真似でしかなかった。だが何故か私達は満足だった。一人っ子だった私にとって、智明ちゃんが本当の兄になった気がした。帰りに智明ちゃんは私にそのジャックナイフを握らせた。
「兄弟の記念にこれをやる。とうちゃんに内緒だぞ。誰にも見せるな。鞄の底に忍ばせて先公の持ち物検査に気をつけろ。最悪の時だけ使え。でも絶対刺すな。刺したら殺してしまう。顔や手を狙って斬るんだぞ」
およそ、これから中学に入るガキのする事ではなかった。でも、当時の私には悪い事をしているという意識はなかった。否、あったが罪悪感はなかった。それでも私は智明ちゃんから貰ったジャックナイフを持ち歩く事はしなかった。自分専用のタンスの1番下の奥に古新聞で包んでしまい込んだ。


さて利根川グループに対抗していたのが野球部の落ちこぼれ連中が徒党を組んだ不良一派だった。加藤某という3年生が「頭」で加藤のガチガチの子分は10名程度だった。そこにシンパが集まると、その数は30名くらいになった。
そもそも私が入った中学は県内でも有数のマンモス校で、1学年だけでも400名以上の生徒がいた。当然、落ちこぼれて悪に走る連中は多い。また学校の方針で生徒全員が何らかの部活動に参加する事が強制された。特に男子は殆ど無理矢理、運動部に入れさせられた。文化部は「虚弱児達のもの」という偏見がまかり通っていた。そして、どの部活に入るか迷っている生徒はまた強引に野球部に押し込まれた。当時の野球部の顧問は島田という教師で、生徒から「暴力教師」と呼ばれ、授業中でも野球バットを手放さず、何かにつけて生徒を殴った。私は島田が大嫌いだった。当時は今以上に野球は花形スポーツで、野球部の顧問・監督である事をいつも鼻にかけていた。学校の規律は自分が守るという態度がありありで、それが私には鼻持ちならなかった。結局、足下の野球部でさえ管理出来ないくせに「柔道部なんてゴミ捨て場だ」と公言してはばからない「クズ先公」だった。
そうは言っても加藤グループの台頭は島田だけを責める事が出来ないのもまた事実だった。野球部も100名を超える大所帯になれば、さすがの「暴力教師」でも隅々まで目が行き届かない。大所帯の野球部は常時県でベスト8がいいとこの2流チームだったが、レギュラー争いは熾烈で、これもまた当然のように落ちこぼれが出てくる。ましてや嫌々野球部に入れられた者は最初から真面目な練習を放棄していた。こうして、自然とガタイのデカい加藤某を中心に新興の不良グループが誕生する事になった。
私は入学当時から加藤グループに限らず、常に徒党を組み、集団行動を好む野球部の連中が嫌いだった。だから学校で何かトラブルがあるといえば、その大半が野球部の連中とだった。勿論、私が柔道部という事も、彼らが私を敵対視する理由のひとつだった事は否定出来ない。加藤グループに属さない野球部の連中は、決して加藤達を白眼視する事もなく、内部的には色々あったのだろうが、表面的には良好な関係を維持していた。
そんな背景があったからか、私には陰でカツアゲやカンパなどの名目で一般の生徒達から金を収奪する加藤グループには大きな嫌悪感を抱いていた。柔道部の利根川グループも不良集団ではあったが、もっぱら活動は他校の不良達との抗争に終始していた。だが利根川グループも加藤達に無関心でいた訳でなく、何かいったん事あれば徹底的に潰すと利根川先輩は口にしていた。
利根川グループは20名程度の人数だった。数では加藤グループに劣るが、結束は固く、生粋の不良ばかりだった。また前述したように、利根川グループには梁川智明ちゃんら、暴走族の「eve」も後ろに控えていた。戦力的には利根川グループの方が数段上だったが、唯一の懸念は加藤グループが常に陰湿な攪乱戦術を取ってくる事だった。
ところで、私は梁川智明ちゃんの関係もあり、また柔道部に所属していたが、中学2年に入ると利根川グループとも一線を画し、一転して「がり勉」に変貌していた。利根川先輩達がそんな私に文句を言わなかったのは、勿論智明ちゃんの口添えがあったからである。


ところがある日、とんでもない事態が発生した。中学2年の秋が深まった頃であった。午後5時を過ぎれば陽は落ち、田舎のだだっ広い校舎や校庭はまっ暗くなる。
クラスの用事で部活が遅くなった私は柔道場に向かおうと教室を出た。そこに野球部の内田というクラスメートが私のもとに走ってきた。内田は野球部の中で唯一私が懇意にしていた人間だった。野球部に籍はあるが内田が練習に参加している姿を見た事はなかった。かといって内田は加藤グループにも関係していなかった。要は一匹狼の不良だったが、むしろ利根川グループに近い存在だった。
内田は焦りの表情を浮かべながら言った。その瞬間、チラッと内田の顔に好奇心に満ちた目が光った。私は厭な予感がした。
「大変だ。トレセンの所に秋川麗子が加藤さんに呼び出された。無理に連れて行かれた」
秋川麗子とは紛れもなく髭さんの娘である。私は真っ直ぐ学校の柵を超えて自宅に走った。

(つづく)

※この物語は実話ではありますが、登場人物はすべて仮名です。尚、これまで「Aさん」と記してきた「髭さんの娘さん」ですが、今後は「秋川麗子」と書いていきます。

samurai_mugen at 06:07|Permalinkclip!連載・髭さんとの思い出 

2007年01月22日

連載・大山倍達プライベート迷言集(13)改訂版

近年、極真空手各派の大会で「型試合」が行われるようになった。空手が単なる格闘技ではなく伝統武術である以上、そして極真空手が剛柔流や松濤館の系譜を引いている証明としても、このような「型試合」には大きな意味があると私は評価している。


しかし、極真空手にとって「型」はある意味、パンドラの箱と言ってもいい。1980年前後、総本部への出稽古に週1の割合で出席していた私は、大山総裁が次のような言葉を滔々と口にするのを何度も聞かされた。

「きみたちねえ、強くなりたければ1つの型を1万回繰り返したまえ。太極を1万回、ピンアンを1万回やればねえ、そりゃあ強くなるよ」
しかし一方で、「実戦空手」を標榜し、「寸止め空手」を否定する極真会館は明らかに型を軽んじていた。大山総裁が「型は大切である」と力説する陰で、総本部の先輩達は「セイエンチン?知らない」と平然と言い放ち、「ピンアンなんか審査の前に覚えればいい」と断言した。
ちなみに、黒澤浩樹といえば「極真史上最強の戦士」「格闘機械」と私が公言した空手家である。しかし黒澤が型を知らない事は公然の秘密(?)だった。先日、食事をしながら郷田勇三(松井派極真会館最高顧問)は笑いながら言った。
「城西の連中はみんな型を知らないが、特に酷かったのが黒澤だった。あいつが分支部長になる時、『おまえ、平安Ⅴ出来るか?』と訊いたら、偉そうに胸張って『押忍!出来ません』とあの迫力で言われたからな」
だが黒澤は決して例外的存在ではない。むしろ黒澤の方が「極真空手の本流」を継いでいると言えるかもしれない。
「大山倍達正伝」の取材で私と塚本佳子は既に50年以上前の大山総裁を知る、多くの空手関係者に話を聞いた。そして大山総裁の師である曹寧柱はじめ「全て」の人達が異口同音に「大山倍達は型を好まず、型を軽んじ、型が出来なかった」と証言している。
1940年代後半から50年代にかけて大山総裁と懇意にしていたある流派の師範は次のように私に話した。
「大山さんの試割りは見事でしたし、彼の強さを疑う者はいませんでしたが、型だけは見られたものではなかった。でも大山さんには型が出来ないという自覚がないのか、よほどの自信家だったのか平気で型の演武もしてしまうんです。山梨の甲府の映画館を借り切って行われた中村(日出夫)さん主催の演武会でも、大山さんは突然型をやり出して…。それが私達には何の型か分からないんです。つまりデタラメなんですが、最後に後ろ向きのまま、ハイっ終わりです!てやられた時には笑っていいのか感心したフリをしなくてはいけないのか迷ったものです」


1952年、大山総裁が初のアメリカ遠征を行った際、プロレスのリングで型を演じると、観客に「音楽を流せ!」と野次られた逸話は有名である。ただ私達の調査では、大山総裁がプロレスのリングで型を演じた記録は確認していない。
だが、冒頭で書いたように道場では型の重要性を説いていた大山総裁ではあるが、時には正反対の言葉を公言していた事を知る極真空手関係者も少なくないはずだ。

「型なんてものはね、要はダンスと同じようなものたよ。寸止め空手を私がダンス空手と呼ぶのもねえ、寸止めの組手そのものがダンスそっくりだからという理由もあるが、型、型と言ってねえ、まるでダンスみたいな型をやってそれが空手の真髄だなんて威張っているからたよ。組手で戦えない臆病者が言うセリフたよ、そんな事は。私ならばね、新体操のようにレコードで音楽を流しながらやれと言うね」

この言葉の延長線上にあると思える主張を私が大山総裁自身から聞かされたのは総本部の総裁室であった。確か1990年前後だったと記憶している。ソファーに座りながら全日本空手道連盟への批判を一通り語った後、大山総裁は身を乗り出すようにしながら言った。

「小島、実はね、極真も型の試合を始めようかなと思っているんたよ。でもねえ、全空連と同じ事やってもしょうがないからね。極真だからこその型の試合にしたいんたよ。今の太極とかピンアンとは別にね、おのおの選手達が自分で型を作るのよ。1分の試合だとしたら、きっかり1分で終わるように計算してね。そして自分の型に合う音楽を選びレコードに合わせてやるのよ」

私は「総裁、つまりそれは創作型という事ですか?」と言った。大山総裁は頷くと、幾分声を大きくして答えた。

「そうたよ、創作型たよ。ただね、いくら創作とはいっても、型の動きは合理的でなければなりません。攻撃で言えばコンビネーションの概念だよ。更に動きの中には攻撃だけでなく防御も入っていなければならない。それが欠けていたら減点とする。また、型の中には必須の技も入れてね。たとえば跳び後ろ回し蹴りとか二段蹴りとかを入れて、それが上手く出来たらポイントを加算する。仮に三段蹴りを見事にやったら得点を2倍にするとかね。勿論、動きやリズムは音楽に合っていなければならない。そういう型の試合を女子部にやらせるんです。これは必ず注目される。極真空手らしい型試合だと思わないかね?」

私は当然、大山総裁のアイデアを目の前で否定する事など出来なかった。「それは素晴らしい考えですね」と調子を合わせた。だが一方で、案外妙案かもしれないと真剣に思ってもいた。
考えてみれば、創作型は既に芦原英幸が率いる芦原会館で採用されていた。芦原会館では従来の「伝統型」以外に、「実戦型」が体系化されていた。中には「投げの型」といったサバキの究極を体現するような型もある。この時、大山総裁が芦原会館の「実戦型」を念頭に話していたとは思えなかった。私は大山総裁の提案を聞いて、改めて芦原英幸の先見性に感心していた。
ただ、それを音楽に合わせて行う、それも選手個人が個々にオリジナルを作るという点に、良くも悪くも大山総裁らしさを感じざるを得なかった。私は少し突っ込んだ質問を試みた。
「総裁、その型試合で流す音楽ですが、ビートルズのようなロックでもいいんですか?」
すると、大山総裁は急に顔をしかめた。

「きみねえ、あんなねえ、退廃的な音楽はタメだよ。格調高くクラシックじゃなけりゃタメじゃないのよ」

私は頷きながら、心の中で「どう考えても空手にはクラシックよりもロックのリズムの方が合っているのに…」と思っていた。しかしそれを口にする勇気はなかった。


もし、今も大山倍達が健在だったならば、極真会館の型試合は全く別のものになっていたかもしれない。もし、あの時大山総裁が構想していた型試合が現実になっていたならば、最初は多くの批判に晒されるかもしれないが、意外に支持されていたかもしれない。
あくまでも競技試合として考えるならば、「武道性」など幾つかの点で疑問視されながらも、全空連系の方が圧倒的に歴史が長く、その意味でレベルも極真空手系団体の比ではない。今後も極真系団体の型試合が「競技的レベル」において全空連に追い付く事は不可能だと私は見ている。なんと言っても、「極真空手」の体質が「組手偏重主義」である事は大山倍達の生前から変わらないからである。
「極真空手」を名乗る団体が優に10を超えるという究極の分裂状況にある現在、せめてどこかの団体に、大山総裁が夢見た型試合を開催して欲しいと私は願っている。仮に「邪道」などと批判・揶揄されようが、それが大山倍達の空手観を体現するものである以上、立派に「極真空手」の系譜の上にある事は間違いないからだ。

2007年01月18日

盧山初雄の極真空手・少年教育論/「ジュニア極真空手入門」より

告知

『ジュニア極真空手入門』(仮題)
著者:盧山初雄(極真館館長)
発売元:(株)ナツメ社
制作:(株)夢現舎
発売:2007年3月中旬
価格:1,200円(+税)


現在、極真空手の中でも大きな比重を占めつつある「少年部」。少年部の為の技術書はこの20年以上、存在しなかった。少年部の増加と大会・試合の活発化に伴い、今だからこそ少年少女(ジュニア)の為の最新技術を集めた書籍が求められていると言えるだろう。
著者の盧山初雄師範は極真空手の世界にあって最も早く「教育としての少年空手」の重要性を説いてきた。1981年の埼玉大会に始まり、1994年からは全日本少年空手道選手権を開催。現在では毎年500名を超える少年少女選手たちで賑わっている。
また本書では、実際に子供を道場に通わせる親(家族)に向けた盧山師範の熱い教育論が注目される。近年の少年犯罪、不登校児・引き籠もり問題、大人による虐待事件の多発化…。盧山師範は今こそ極真空手の重要性が問われる時代だと説く。この盧山師範による教育論は子を持つ全ての親に対し、大きな説得力を持つ事は間違いない。
以下、本書8章「極真空手を学ぶ子どもたちに思う」の中から、盧山初雄師範の文章を1部引用する。


●極真空手を学ぶ意義
まず、私がみなさんにもっとも伝えたいのは、極真空手は武道であるということ。そして武道の本来の意味をしっかりと理解してほしいということです。
武道とは、相手と戦うための技術を身につけることです。ただし、ここで勘違いしてはいけないのは、他人と戦うために武道を学ぶのではではない、ということです。
私の師匠であり、極真空手の創始者である大山倍達先生は、いつもこのようなことをおっしゃっていました。
「実際に戦うときのために、刀はつねにみがいておかなければならない。ただし、それを一生使わないでおくことが、もっともいいことだ」
この言葉には、ここで私がみなさんに伝えようとしている「武道本来の意味」のすべてがこめられています。刀をみなさんが学んでいる極真空手におきかえればわかりやすいでしょう。極真空手の稽古でいつでも相手と戦えるように技術をみがきながら、それを実際に相手に使うことなく、争う前に未然に防ごうとすることが一番大切だということなのです。
武道が戦うための技術である以上、一見すると矛盾しているように感じるかもしれません。しかし、武道を学ぶ人にとって、実際に相手と戦うことは、「最低最悪」の行為だということを覚えておいてください。
では、空手の技を使わずに争いを未然に防ぐにはどうすればよいのでしょうか? それは、自分から好んで危ない場所にいかない、夜道をひとりで歩かない、など危険な目に合わないような心がけを常にもつことです。危険な目にあってからどうするのではなく、どうすれば自分が危険な目にあわないかを先に考えるのです。
武道を学ぶということは、そういう意識を学ぶことでもあるのです。極真空手の厳しい稽古を通して、実際に戦う技術を超えて、危険に対する感覚を養うことができるのです。

●少年非行~いじめに導くものここ数年、少年・少女たちが起こした、または巻き込まれた犯罪のニュースを毎日のように耳にします。ただし、こういった少年の犯罪や非行が問題になったのは、決して最近に始まったことではありません。過去にも社会問題として大きく取り上げられた時期がありました。それが、家庭や学校での暴力事件が全国的に多発していた1970年代後半~1980年代前半の頃です。
この背景には、戦後に生まれ育った、今の「団塊の世代」の人たちが受けた教育や生活環境の影響が考えられます。戦後の日本は、とにかく物がなく、だれもが貧しい時代でした。そしてそんな時代に生まれたのが、現在「団塊の世代」といわれている人たちです。ところが、その団塊の世代の人たちが大人になる頃、日本は高度成長の時代に入り、人々はたくさんのお金をえることができるようになりました。そしてその時期に親となった団塊の世代の人たちは、自分が小さい頃貧しくて苦労した分、自分の子どもには苦労をかけさせまいと、子どもを甘やかして育てるようになります。また、それこそが自由主義であると教育を受けました。そうして甘やかされて育った子どもたちが親や友だちに暴力をふるって問題になったのが、1970年代後半から1980年代前半なのです。
ところが、現在の少年たちの非行犯罪は、時代が経つことで質が変わってきているように感じます。これは、「団塊の世代」の親のもとで育てられた20~30年前の非行少年たちが、今度は親となり、自分の子どもに対する教育を放棄し、さらには虐待し始めたことに原因があるように思います。その虐待をうけた子どもたちが結局どうなったのかというと、今度は陰湿ないじめに走るようになったのです。
昔は、悪い子は悪い子なりの雰囲気があったものです。しかし今は、見た目は普通の子が集団でいじめに参加しています。それもそこにはルールなどまったくなく、相手をとことんいじめぬく。私は20年、30年前の少年非行より、現在のほうが怖い世の中になったと思います。
では、そういう子どもたちに対して、私たち大人がとるべきことはなんなのか? それは「痛み」や「苦しみ」「悲しみ」などを教えてあげることだと思います。
仮に極真空手を学んでいる子どもがケンカをしたとしましょう。その子どもは、極真空手の稽古の中でたたかれることの痛みや苦しさをわかっているため、相手に対する痛みも自然と理解しています。また、負けたときの悲しさもわかるため、負けた相手への思いやりの気持ち、いたわりの気持ちもでてきます。これはじっさいに相手をたたいたり、たたかれたりする、極真空手でなければできないことです。痛みや悲しさがわかっていれば、相手に対してこれ以上やればまずいということが直感的にわかるものです。しかし、それが今の子どもたちはまったくわかっていないのです。
私はこれまで、全国からいろいろ問題のある子ども(非行少年など)を道場であずかってきました。私が最初に彼らに対してやったことは、ただ道場の稽古に参加させることだけです。それで十分でした。稽古では、大きい声であいさつや返事をしなければなりません。先輩のいうことをきちんと守らなければいけません。人に対して両手であいさつ、両手でものをもらわなければいけません。そういった中で子どもたちには、自然と相手に対する尊敬が芽ばえるし、もちろん、稽古で組手をしていれば、たたかれたときの痛みや苦しみも自然と理解できます。
あずかった子どもたちは、みな1ヵ月、いや1週間で態度が変わります。そのたびに、その子たちの親はなぜこんなに変わるのか驚くばかりでした。極端な言い方をしますが、私は、人間として成長するのに足りない部分のすべてを極真空手の道場で補うことができると思っています。

●親に期待すること
極真空手によって子どもを正しい方向に導くことができるのは事実であるとしても、やはり教育の根幹は家庭でなければならないと思います。なぜなら、子どもと接する時間が一番長いのが親(家族)だからです。
しかし、前述したとおり、今の親たちはみな、小さい頃に甘やかされて育ってきました。そのため、親自体に人を尊敬する気持ちがなく、満足に敬語でさえ使えない人が多いのが現状です。そういった親は、何ごとに対しても自分の責任を棚に上げ、子どもが悪くなるのを、学校の責任、社会の責任にし、原因が家庭にあることがまったく理解できません。これが非常に深刻な問題です。子どもに対する教育はまず親がしなければならないのに、それに対する使命をまったくわかっていないのです。
自分に甘く、人に厳しく、すべてを社会のせいにする親の様子を見ていた子どもが、決して他人を尊敬するような人間に育つとは思えません。まず、子どもを教育するのは親なんだということをはっきりと自覚しなければならないでしょう。
極真館では、子どもだけではなくて、できればその親も学んでもらいたいと思い、定期的に親子教室を開催しています。ただし、それは親が強くなるうんぬんのためではありません。実際道場に来て汗を流し、苦しみを子どもと一緒に味わう。そうすることによって、本当の意味での親子の連帯感、信頼しあう気持ちが芽生えればいいと思っています。
またそれ以上に、親子教室には親ががんばっている姿を子どもに見せてほしいという願いもあります。親が汗をかく姿を見ることで、子どもは親をもっと尊敬するし、子どももがんばろうという気持ちになるはずです。
私は以前、デンマークに指導に行ったことがあります。そこで稽古の最後に講義をやったときのことです。私は、空手を学ぶ人は先輩や目上の人を尊敬しなければいけないという話をしました。すると講義のあと、ひとりの支部長が私のもとにやってきて次のような質問をしたのです。
「どうして先輩を尊敬しなければいけないのですか?」
私は最初、この支部長はなんてばかげたことを聞いてくるんだと唖然としました。ところがその質問の意味をよくよく考えてみたところ、彼の質問は当然のことだと気づいたのです。
日本では目上の人を敬うことは当たり前のことです。ただし、デンマークなどのキリスト教圏の国では、人はみな平等という考えが一般的です。そのため、その支部長には、ただ先輩だから、目上だからというだけで尊敬する必要はないという単純な理屈が思い浮かんだのでしょう。彼ら西洋人が尊敬するのは、自分にもっていないものをもっている人、または自分よりもっともっと努力する人なのです。
ちなみに、この指導セミナーには、親子で参加している人たちもたくさんいました。そしていずれの親子も、子どもより親の方が必死になって練習していたことを覚えています。そして、親の必死な様子をみながらその子どもも一生懸命努力をしていました。私はそこに、親子の本当の原点をみたような気がします。
前述したように、日本の社会には、先生、先輩など目上の人を尊敬しなければならないという儒教精神が古くから根づいています。ただし勘違いしていけない のは、この教えは「自分より先に生まれた人は自分より努力をして、自分より知識をもっている、自分より優れている」という前提の上で成り立っているということです。
親子関係も同じことがいえると思います。昔はなぜお父さんが尊敬されたのかというと、子どもを養うため一生懸命努力したからです。そして、その姿を子どもたちが見て育ったからです。しかし、今はすべてがお金、お金であり、お金を与えることが子育てだとさえ思っている親が多いようです。
昔は「地震、雷、火事、親父」ということわざもあったように、親は子どもから尊敬され、かつ怖がられる存在でした。しかし今は、親が汗水流して働く姿も知らず、親が怖い存在だとこれっぽっちも思わない子どもが急増しています。
親が子どもに怖がられなくなったことで、子どもにとって歯止めとなるべき人間がいなくなってしまったのです。子どもが悪いことをしてもしかる親がいない。だから少年犯罪や家庭内暴力、引き籠もりといった問題も、いきつくところまでいってしてしまったのだと私は考えています。
歯止めのない社会、だからこそ私たちのような人間が、怖い大人の代役を勤めざるをえないのです。体罰に関しては、賛否両論あると思いますが、それ以前に今は体罰をできる資格のある親がいなくなっているような気がしてなりません。これが一番問題ではないでしょうか?
極真空手が少年教育に大きな効果があることはいうまでもありません。しかし、それ以上に正常な親子関係を築くことを、親のみなさんには忘れないでほしいと思います。

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2007年01月17日

嗚呼、懐かしの大沢食堂…名物「キョクシンカレー」(改訂版)

実は昨日から楽しみだった。何年振りだろうか?あの大沢食堂に行くのは!


以前はJR巣鴨駅の北側にあったと記憶している。松井派極真会館最高顧問(当時は極真会館支部長協議会会長)・郷田勇三師範の愛車、スポーツタイプのオープンカーに乗って颯爽と大沢食堂に乗り付けたのはいいが、食堂のマスター、あの往年の実力日本No.1キックボクサー・大沢昇氏は悠々と昼寝中だった。なかなか頑固者の大沢氏は、大山道場時代からの盟友・郷田師範に対しても、面倒臭そうに「今日はもうやんないの!」なんて事を言っていた。
大沢食堂の名物といえば極辛カレーである。少なくとも極真空手関係者のなかで、大沢食堂の名前を知らない者はモグリと言っていいだろう。そして名物・極辛カレーを完食した者は必ずや周囲から尊敬の眼差しで見られるのである。ちなみに極真空手関係者の間では、極辛カレーを「ごくから」とは読まない。「極辛」すなわち「キョクシン」である。極真空手を学ぶ者は「キョクシンカレー」を制覇しなければならない。しかし、かつて何人の勇者達が「キョクシンカレー」の前にKOの山を築かされてきた事か?
何度か郷田師範と一緒に車を飛ばした末、やっとありつけた「キョクシンカレー」。あの強烈な辛さとの格闘は、まさに十人組手をも上回る苦しさを私の舌を通して全身に与えた。流した汗の量も十人組手を優に超えるものだった(少し大袈裟か?)。食べ終わった後はまるで廃人のように茫然自失に陥り、そのクセ、数日経つと何故かあの辛さが恋しくなってしまう。


……あれから少なくとも10年以上の時が過ぎた。現在、大沢食堂は引っ越しして、巣鴨の最寄りとはいっても白山通りの地下鉄白山駅の近くにある。息子さんも成長し、奥様ともども家族仲良くお店を切り盛りしているという。先日、郷田師範には日暮里のホルモン屋で大変ご馳走になった。そのお礼に今度は塚本佳子と私で大沢食堂に招待する事を提案したのである。


ところが今朝、といっても既に午前10時を過ぎていたが、目を覚ました瞬間、異様なだるさと体の重さに私は愕然となった。無理にベッドを出てトイレに向かうが、何故か足元がフラフラする。年柄年中、風邪を引いていると自嘲げ(自慢げ)に公言している私だが、今日の体の違和感には少しだけ驚いた。
再びベッドに潜り込んだ私は冷静にこの状態を分析した。この数年、仕事の関係で昼夜逆転の毎日が続いてきた私は不眠症に悩まされ、主治医から軽い睡眠導入剤と精神安定剤を処方してもらっている。昨夜(というより既に今朝だが)、私は普段より1錠だけ多い睡眠導入材を飲んだ。これがだるさと足元のフラフラさの原因だ。しかし、それだけではない。私は「本格的」に風邪を引いているのだ(普通はただの風邪)。熱っぽいのはその為だと考えた。
私は風邪薬を普通の倍飲んでベッドに潜り込んだ。飼い犬のエル(甲斐犬)を呼び込み、エルを抱いて再び眠りについた。
次に目が覚めたのは午後1時頃だった。本来ならば起き出して出社の準備をしなければならない時間である。塚本との打ち合わせも山ほどある。だが、やはり体は動かない。熱っぽさは増した感がある。私は出社を諦めた。塚本との打ち合わせならばいつでも出来る。情けない私の姿に呆れ返る塚本の表情を一瞬だけ思い出したが、憐憫と軽侮の目で塚本に見られる事には馴れている。
留守電から流れる会社からの定例ミーティングの報告を「子守歌」替わりに聞きながら、私はまた眠りについた。ひょっとしたらその前、会社に電話を1本入れたかもしれない。だが全く記憶にない。
午後4時、私は再び目覚め、秘書に電話した。もう出社している時間はない。真っ直ぐ郷田師範と約束した巣鴨駅に直行するしかないと私は悟った。私は無理をしてベッドを離れ熱い風呂に入った。しかし、またもや風呂のなかで眠りに落ちた。洋服を着替え、外出の準備を整えて時計を見ると、約15分の余裕が出来た。私はコタツに電源を入れて横になった。ハッと気がついたら既に5時を回っていた。
万事休す…。私は秘書に電話して遅れる事を告げた。
「郷田先生と塚本と大志には先に行っていてもらってくれ」
マンションから駅までの距離は異常に長く感じた。地に足が着いていないのが分かった。そしてやっとの思いで私は電車に乗り込んだ。この分ならば15分程度の遅刻ですむ。
ところが池袋駅で予想外の災難が待っていた。恵比寿駅で人身事故があり、山手線は止まっているという。帰宅ラッシュに揉まれながら、私はひたすら耐えた。約20分後、外回りの山手線がようやく動き出した。だが安堵する暇もなく、今度は大塚駅で電車はストップした。車内放送は信じられない言葉を繰り返していた。
「現在、事故現場の恵比寿駅では怪我人の救出を行っています」
しかし、そのうち放送内容が変わった。
「現在、恵比寿駅では遺体の搬送作業を行っています」
私は耳を疑った。過去、こんな車内放送など聞いた事がないからだ。電車のなかは騒然となった。同じフレーズが何度も繰り返されたと思うと今度は「恵比寿駅では事故の処理が続いております」と変わった(この車内放送の言葉はひょっとしたら私の聞き間違いかもしれない。そう思った私は巣鴨駅で待っていた秘書に話した。すると、彼も巣鴨駅構内を流れる放送で同じ言葉を聞いたという。やはり本当だったのだ)。
そうこうするうちに時間だけが過ぎ、約15分後、やっと電車は動き出した。巣鴨駅の改札口には秘書の飯田が焦りの表情を露わにして待っていた。私たちは直ぐにタクシーに乗り込み、大沢食堂に向かった。


相変わらず、私にとって大沢食堂はとても遠かった…。


大沢食堂は満員の客で賑わっていた。決して広くない店内の1番奥の席に郷田師範と塚本たちがいた。大志の顔が異様に赤い。私が訊くと、「キョクシンカレー」に挑戦中だった。塚本は「これでも辛いんですよ」と言いながら、澄ました顔で中辛カレーを食べていた。郷田師範はスタミナ定食を平らげて、大志がヒーヒー言いながらカレーを食べるのを笑いながら見ていた。私たちが頼むまでもなく、郷田師範の口から「キョクシンカレー」が2つ注文された。
真っ赤な色をした「キョクシンカレー」は昔と変わらず強烈な辛さだった。1口、口に入れた瞬間に体中が眠りから覚めた。私は辛さを感じる前にカレーを口に次々と放り込んだ。汗など吹いている暇もない。水で口内を冷やす隙も惜しんで私は必死に食べ続けた。約5分で私は完食した。ティッシュで口元と顔中の汗を拭いながら、全く収まる気配のない辛さの余韻と格闘しながら、それでも私は若干の「勝利感」に満足していた。秘書の飯田も死にそうな形相を浮かべながら完食した。
一息ついてから、ラーメンと餃子に取り掛かった。大沢食堂のメニューはどれも量が多く美味い。ラーメンなどメディアが騒ぐ有名店よりずっと美味しい。手作りの餃子は絶品である。ホルモンも美味そうだ。チャーハンも食べたい。大沢昇氏は息子と一緒に黙々と料理を作り、料理を運びながら、私たちに挨拶をしてくれた。既に60歳を超えているにもかかわらず、童顔の笑顔はまさに、在りし日のチャンピオンのそれだった。
かつての栄光にしがみつく事なく家族共々協力して大繁盛店を切り盛りしている大沢氏…。「彼なら立派なジムのオーナーになれたのに」とか「あれだけの実力者を格闘技の世界から離すのは惜しい」などと言う人は多い。だが、私は今でも現役で大沢食堂を支えている大沢氏の姿がとても眩しく見えた。かつて芦原英幸先生は言った。
「何も空手家や格闘家だけが戦っている訳ではないけん。人生という世界で空手家なんかよりもずっと汗をかいで戦っている人たちの方が本当の戦う事の苦しさを理解しているんよ」
私は改めて芦原先生の言葉を噛み締めた。
店の前では何人もの客が列を作って待っていた。私たちは彼らに席を譲り、店を後にした。
塚本によれば、今夜は郷田師範には新年会の予定が入っていたという。これから宴席に向かうと言って立ち去っていく郷田師範を見送りながら、改めて私は郷田師範の温かい心尽くしに感謝していた。今後、私たちは「大山倍達の遺言」の取材で大沢氏に会わなければならない。その為の「面通し」を、郷田師範は一言も恩着せがましい事を言わずにしてくれたのである。
それにしても今日は散々な1日だった。「キョクシンカレー」のおかげで忘れていた悪寒が再び襲ってきた。帰りのタクシーのなかで、私と大志はただ「辛かったな!」と言い続けていた。それでも、そんな苦労をしてまで行った大沢食堂、そして黙々と働く大沢氏の姿。更には予定をずらしてまで私たちに付き合ってくれた郷田師範の「男気」から、私は大きな勉強をさせてもらったと心から感謝している。今日の辛さもみな、その為の試練だったのだ。
今度は夢現舎のスタッフを全員連れて大沢食堂に行こう。そして男性スタッフには「キョクシンカレー」で徹底的に鍛えてもらおう。


付記
ちなみに、私は辛いものが大好物である。特に唐辛子、チリ系には強い。そして私は大のカレー好きでもある。20代の頃、私は当時のガールフレンドとともに東京中の「カレー専門店」を食べ歩いた。それが貧乏だった私たちの唯一の楽しみだった。インド系を最も好んだが、大衆食堂のカレー、蕎麦屋さんのカレー、洋食屋さんのカレーも大好きである。
20倍とか30倍とか辛さを自慢する店にも何度か行った。だが、大沢食堂の「キョクシンカレー」に(味、辛さともに)太刀打ち出来る店は皆無だと断言する。
ただ唯一、大沢食堂の「キョクシンカレー」を超えるものがあるとするならば、富山では知らない者がいないといわれている名店・富山タージマハールの「ブラックカシミールカレー」である。大沢食堂のカレーは名実ともに「大衆食堂のカレー」の極みと言える。だが、富山タージマハールのカレーは「南部系インドカレー」の極致だ。具のない(見えない)ドロドロしたスープカレーだが、そのコクの深さは並ではない。何10種類ものスパイスが融合した辛さは実に芳醇で、単にチリだけでは味わえない絶妙なカレーだ。特に「ブラックカシミールカレー」は、辛さだけでは大沢食堂の「キョクシンカレー」に一切引けをとらない。その上、とてもスパイシーなのだ。これこそが、「薬膳」である。本当に疲れ切り、食欲のない時、私はレトルト製の「ブラックカシミールカレー」を食べる事に決めている。
ちなみに、この「ブラックカシミールカレー」を作っているのも、本物の「極真空手黒帯」の猛者である事を知る人は少ない。


付録
大沢食堂と富山タージマハールのアクセスはメールで私にお尋ね下さい。タージマハールではレトルト商品の通販も行っています。

samurai_mugen at 02:42|Permalinkclip!単発コラム 

2007年01月12日

連載・松井章圭との日々(12)修正版

1991年暮れ、松井章圭の自叙伝「我が燃焼の瞬間」が発売された。初版7000部、直ぐに増刷が決まり好調な売れ行きを見せた。だがいかんせん池田書店は実用書中心の中堅出版社である。本書のような読み物の営業は強くなかった。その意味で、最終的な刷り部数は決して松井を満足させるものではなかった。
勿論、私も「我が燃焼の瞬間」の最終部数には不満だった。そんな事もあってか、それ以後松井は「あの本には内容も売れ行きも満足していませんからね」と私に憎まれ口を言い続けた。
確かに「我が燃焼の瞬間」のライティングをしたのは私である。しかし、内容的にはなかなか松井らしい含蓄に富む本だったと私は思っている。高校時代から「天才」ともてはやされ、しかし「三誠時代」という高い壁の前で挫折や苦労を重ね、幾つもの試行錯誤を経て全日本、更には世界チャンピオンの栄冠を手にした松井だからこその「空手哲学」には十分な説得力があった。松井が好んで行った「出稽古」の重要性も理解できるはずだ。松井は空手だけでなくボクシングや大相撲にも稽古に出掛け、幾人もの名のある先輩の指導を受けながら、自らの空手を完成させたのである。松井には申し訳ないが、近年出版された評伝「一撃の拳」よりは数段出来がいいと私は自負している。
それでも版元が弱小であるが故に理想的な販売実績が残せなかったのは、この本の不幸であった。私は、いつかもっと大きな版元から松井の本を出す事が私が負わされた義務であると思うようになった。そして、それは数年後、現実となるのだが…。
それはそれとして、「我が燃焼の瞬間」は空手界に少なからずの影響を与えた。松井ファンは急増し、「松井章圭のもとで空手を学びたい」と願う人々の声が高くなった。また、松井自身も本書の出版を契機に、空手の世界で本腰を入れて生きていこうと決心したように私には見えた。
松井は自らの道場を出す事を本気になって考え始めた。
当時、大山倍達は「全日本と世界大会のチャンピオンには、どこでも好きな場所に道場を出す事を許可する」と公言していた。
実は、松井は1987年の第4回世界大会後、祖国・韓国に道場を出す事を望んだ時期がある。だが、種々の事情からそれは実現しなかった。大山は1度は許可をしたものの、唐突に韓国進出を中止した。今となれば、大山が韓国進出を断念した理由は理解できる。だが、松井にとっては1度許可されたものを、一言の理由も知らされる事なくひっくり返された事をすんなり納得する事は出来なかった。
これが、大山への疑心暗鬼、反発となり、世界大会後暫く極真会館を離れる直接の理由だった。だが、「我が燃焼の瞬間」の発売によって再び松井にチャンスが巡ってきた。当初、松井は新宿に道場を出したいと大山に願い出た。大山は基本的に賛成だったが、新宿と渋谷は極真会館の首都圏支部の中で唯一の「鬼門」だった。そこは既存の東京城西支部と東京城南支部の分岐点であり、新宿と渋谷は支部間の勢力争いの中で「緩衝地帯」とされていた。特に新宿は池袋の総本部とも近く、大山としても新宿は決して喜ばしい場所ではなかった。つまり新宿に道場に出す事は極真会館の一大タブーであったのだ。
再び松井の道場設立は暗礁に乗り上げた。そんな松井に手を差し伸べたのが東京城東支部長であり、支部長協議会会長だった郷田勇三だった。郷田は、自分のテリトリー確保にやっきになる支部長に向かって言った。
「松井こそが将来の極真の要になる人間であり、そんな極真の宝に活躍の場を与えない事は、極真の将来を危うくする」
私は郷田が語るこの言葉を間近で聞いていた。
結局、郷田は自らの城東支部のテリトリー内にある浅草を松井に譲った。松井は最初、上野を希望したが、よい物件がなく浅草の駅前に道場を開いた。浅草ならば当時の松井の住まいにも近く、後に師範代を任せる神尾の自宅にも近かった。道場開きは盛大に行われた。道場は広く明るかった。松井は上機嫌だった。支部長としての再出発に熱い思いを期していた。
丁度その頃、夢現舎も池袋駅から徒歩5、6分の新しい事務所に移転した。若干狭かったが新築のオフィスビルだった。松井は移転祝いに豪華な花束を贈ってくれた。夢現舎も松井の新道場開きに精一杯の花を贈った。道場開きの多忙な中、松井は私のもとにやってきて言った。
「これで小島さんも僕も、ワンステップ階段を登れましたね。後は落ちないようにしなければいけませんね」
私は暇があると浅草道場に遊びに行った。稽古時間外、そこで松井の補佐をする指導員と親しくなった。神尾は実に礼儀正しい若者だった。小林は城西支部出身、国士舘大学では柔道部のレギュラーを務めたつわものだ。米田は総本部内弟子時代から親しかった。時間が許す限り夢現舎でアルバイトをしてくれた。神尾も、当時私が大山から託されていた「空手百科」の内容について非公式ながら色々と相談に乗ってくれた。たまに夢現舎の女性スタッフが手作りした雑誌の料理コーナーで使う料理(ハンバーグ、ビーフシチュー、ロールキャベツ)などを勧めると神尾は顔を真っ赤にして照れながら全部食べた。
松井道場の指導員はみんな好人物達だった。また当時、松井は数年間のブランクによる錆び付いた体を元に戻す為、超人的な稽古を連日繰り返した。トレーナーを汗でぐっしょりさせながら3分を1セットとし、それをエンドレスでサンドバッグを叩き蹴り続けた。トレーナーを着替えると、今度は縄跳び30分、多い時は休みなく1時間跳び続けた。腕立て伏せは軽く映画の「ロッキー」のそれを上回る激しさだった。親指1本での腕立てを3百回、拳立てを千回繰り返した。腹筋も背筋も首の後ろに20キロのプレートを抱えて何100回もこなした。
最初は驚嘆の連続だった。だが馴れとは怖ろしいもので、私は松井の特訓を見ながら何度も居眠りをした。すると松井は私のもとにやってきて「小島さん、ぐうたらしてないで一緒にやりましょうよ」と誘った。
私は1988年、独立するまでは大道塾に通い、毎日5キロのランニングとウェイトトレーニングは欠かさなかった。しかし独立し、夢現舎に掛かりっきりになると完全に稽古やトレーニングを止めた。私が改めて稽古やトレーニングを再開するのは3年後の1995年からである。この間、私の体重は15キロ増え、ベスト体重が70キロだったのに85キロを越えていた。私がトレーニングを再開した理由は極めて不純だった。もはや私にとって「スタッフ以上の存在」になっていた塚本佳子の前で、これ以上無様な姿を晒せないと思ったからだ。
しかし1992年当時、私はセイウチかカバのような体で横に寝転んで腕枕をし、松井のトレーニングを他人ごとのように見つめていた。とにかく松井は暇さえあればトレーニングしていた。午後は指導員達とスパーリングを延々と繰り返す。相手をする指導員が可哀想に見えてきた。総本部内弟子出身の大型選手との組手でも相手にならない。
私は「さすがは世界チャンピオン!」なんて言うと、松井は憮然と「こんなんで世界大会に通用するはずないじやないですか?小島さんは何を見てるんですか?」と皮肉と言い掛かりを言ってくる。
そんなトレーニングが1カ月半も続いたろうか?松井の五体は現役時代と殆ど変わらなくなった。
私は松井に相談した「うちの息子はまだ3歳なんだけど少年部で面倒みてもらえないかな?」松井は「大志君は1人でトイレに行けますか?洋服の着替えは1人で出来ますか?」「それは大丈夫です」…こうして大志の松井道場入門が決まった。
(つづく)

samurai_mugen at 08:44|Permalinkclip!連載・松井章圭との日々 

2007年01月08日

連載・大山倍達プライベート迷言集(12)修正版

大山総裁が政治家に憧れていた事は広く知られている。1952年のアメリカ初遠征時、智弥子夫人に宛てた手紙の中で既に政治家への夢を熱く語っている。
私が大山総裁から直に政治家になりなかったという話を初めて聞いたのは1990年だった。まだ自民党の大分裂前の時期だったと記憶している。
ある日、極真会館総本部の総裁室を訪ねると見かけない紳士がソファーに座っていた。私の姿を見た大山総裁は、その人物に私を紹介した。「小島君といってね、私の弟子であり今は出版の会社の若き社長だ。早稲田の後輩なのよ」
当時、大山総裁が実際に早稲田大学に学籍があった事を知らなかった、否、信じていなかった私は内心で「総裁は拓大のはずなのに…」と少し呆れていた。総裁の紹介によると、その紳士は当時の民社党委員長・大内啓伍氏(新進党細川政権内閣で大内氏は厚生大臣に就任している)の秘書だという。私は学生時代、中道右派の民社党を支持していたので、なんとなく嬉しかったのを覚えている。
しかし、私をソファーに座るように促すと、大山総裁はおもむろに何だか分からない紙を私の前に置いた。そして何の前置きもなく「さあ、この欄にサインしなさい。君はハンコを持っているかね?」と言う。勿論、私は普段、印鑑など持ち歩く習慣はない。
印鑑がないと答えると、総裁は「仕方がないねえ、君、そこの文具屋にいって小島の三文判を買ってきなさい」と自分の秘書に命じた。私は急に不安になった。
「総裁、いったい何事ですか?」
私は思い切って訊いた。すると、大山総裁は平然と「これは民社党の入党届けだよ。君はここにサインして今日から民社党員になるんだよ。私も民社党から参院に出馬するつもりだからね、当然君も党員になって私と大内さんを応援してくれなきゃ困るよ」
寝耳に水、あまりにも一方的な話しだった。私は少したじろいだ。「お金はかかるのだろうか?」当時の夢現舎はまさに火の車だった。独立したばかりで、営業用の電車賃でさえ自腹の時期だった。そんな私の心配を大内氏の秘書の方は感じ取ったのか、落ち着いた口調で私に言った。
「お金関係は心配しないで下さい。全部こちらで立て替えますから。ウチとしては1人でも党員が欲しいだけですから、名前だけ貸して頂ければ結構です。恐れ入ります」
総裁の秘書が本当に小島の三文判を買ってきた。私は仕方がなく、しかし「民社党は好きだからいいか」と考えながら入党届けにサインをして印鑑を押した。大内氏の秘書が帰った後、総裁は私の前に腰を降ろすと、言った。


「私はね、昔から政治家になるのが夢だったんです。梶原の空手バカ一代が大ヒットして私の名前が全国区になった時、自民党からも社会党からも参議院に出馬しませんかと連日勧められたものです。私もその気になったんだがね。それを戒める人間もいてね、実現しなかった。まあ、あの頃は私も空手家としてまだまだやらなくてはならない事もあったからね。一応納得したんだがね。今考えると選挙に出ておけばよかったとも思っているのよ。そしたら縁があって大内先生と知り合ってね、参院選に薦められてね。今度はやってみようかなと思った訳です」


私は総裁の話に頷きながら、「総裁が政治家になったら何を公約しますか?」と尋ねた。総裁の答えはあまりに明快だった。


「今の日本は平和ボケしているからね、特に若者が。だから全ての中高生には体育の時間に極真空手を必修にしてね。昔ならば忠孝だがね、今の時代だから親孝行の教育をしっかりさせたいね。それに今の学校の教師は世間を知らなすぎる。大学を出たら直ぐ先生と呼ばれて勘違いするんだね。だから教師になる為には2年間の社会人生活を義務にしてね、それから医者や法律家も1年以上の社会実習を義務にして、彼らにはみな極真空手を学ばせるんです。それから、一番大切な私の義務はね、極真空手をオリンピックに入れる事だよ」

私は、あまりに極真色の強い公約だなと思いながらも、教師や医師、法律家を社会実習させるというのは素晴らしい妙案だと思った。だが、大山総裁の参院選出馬は叶わなかった。その理由が自民党の分裂によるものかどうかは分からない。
ただ、私は総裁が以前政治家になろうとした時、それに反対したのが誰なのか?ずっと疑問だった。私の疑問はそれから3年後に晴れる事になる。
1993年春、私は大山総裁と一緒に千葉県一宮の旅館に約1週間滞在した。その時、私が大山総裁のマッサージをしていると、大山総裁は突然口を開いた。


「君ね、私は政治家になりたかったのよ。私は毛利(松平)先生には随分世話になったのよ。今の極真があるのは毛利先生のお陰です。でもね、死んだ先生に鞭打つ事は言いたくないのだがね、私は毛利先生には2つだけ文句があるんです。1つはね、笹川(良一)先生から全日本空手道連盟への参加を直談判された時にねえ、毛利先生は小さくなって何にも私に助太刀をしてくれなかった。あの時は情けなかったよ。自分の尊敬する親分が笹川の前で猫みたいになって何にも言えないんだもの。2つ目はねえ、空手バカ一代が売れて売れて、私のところに自民党が参院選に出ないかと三顧の礼で頼みにきた時に、毛利先生だけが大反対したのよ。お前は空手家だから政治家にはなってはいけないと言うんだがね。私は分かっていました。毛利先生の腹の中がね。私が朝鮮出身者だから、スキャンダルになるのを恐れたんだね。それが自分にも火の粉が飛んでくるのが怖かったのよ。毛利先生も、もとを辿れば清廉潔白じゃないからね。戦後、随分悪い事もしたから…。私を政治家にする訳にはいかなかったんだね。でも、私は毛利先生の反対を押し切ってでも選挙に出ればよかったと…、今となれば思うんです。朝鮮出身者のどこが悪いのよ。私の国籍は日本なのよ。日本人なんです。しかし、それも毛利先生なりの親心だったのかもしれないよ。あの頃、大山倍達は生粋の日本人として漫画や本に書かれていたからね。でも、私も1度は政治家になってみたかったね。国会の用心棒でもいいから、私の使い道は自民党にもあったと思うんです」


既に私の前では自らが韓国出身者である事を隠さなかった大山総裁だからこそ、出た言葉だったのかも知れない。
私は思う。1970代であれ、80年代であれ、もし大山倍達が国会議員になっていたらどうだろうか?少なくとも浜田幸一や松浪健四郎よりは数段怖い政治家であったのは間違いない。1度は大山総裁の国会議員の姿を見てみたかった。

2007年01月02日

2007年、矢沢永吉(改訂版)

2007年が始まったというが実感など全くない。元々私はセレモニーが嫌いな人間である。大学も入学式や卒業式は出なかった。
とはいうものの、やはり世間は正月である。何か1年の計でも立てなくてはならない。そんな事、今まで考えた事もないのだが…。ただ私にとって2006年は、否2005年もヒュッ!と過ぎてしまった。
「1年なんてヒュッ!と過ぎるもの」
これは矢沢永吉さんの言葉である。私は矢沢さんのファンだ。だが、本音では「俺は矢沢永吉のファンじゃないんだ」と思っている。何故なら、私にとって矢沢さんはスーパースター(一際輝く星)のように見上げるだけの存在ではないからだ。
以前、友人の家高康彦と矢沢さんの話をした事がある。家高も学生時代から熱烈な「矢沢ファン」だった。家高は矢沢永吉を「永ちゃん」と呼ぶ。しかし私は絶対に「永ちゃん」とは呼ばない(コンサートの掛け声だけは例外だが)。これは私なりのこだわりである。私は家高に言った。
「お前にとって矢沢永吉は星のように見上げる存在か?」
家高は「そうだな。何か辛い時とか永ちゃんのように頑張りたいと思う。やっぱり星のように見上げる存在だ」と答えた。私は違う。矢沢さんの「成りあがり」を読んだ時、私は決して感動しなかった。ただ「自分と同じような環境に育って、あれだけ大きくなれた人がいるのか?自分も矢沢さんのように生きたい」と切実に思った。


ガキの頃から貧乏で、親父は博打打ちで、家庭は複雑で、いつもみんなからバカにされて育った。近所の大人は自分の息子に「あのウチの倅とは遊ぶな」と言い、友人たちは私を避けた。友人(実際は友人なんて呼べるヤツなんかいなかったが)は私を「ヤクザの子供」と罵った。小学校の「先公」たちは担任も学年主任も私を囲んで私の家庭事情を私に聞きたがった。世間話のネタにして笑うのである。私は絶対に先公達を殺そうと思った。子供心ながら私は本気だった。特に村田緑(3、4年生の担任)、大高雅子(1年生の担任)、郡司登(学年主任)…。私の家を笑ったこの3人だけは必ず殺すと誓った。だが小学生の身では、1人は殺せても3人殺すまでには捕まってしまうと考え直した。その分、私は荒れた。
小学5年、私はクラスの教室の窓ガラスを全部割った。器楽室の楽器を殆ど全部壊した。唯一シンバルだけには歯が立たなかった。それだけが悔しかった。
教護院、鑑別所…、よくわからないが、要は刑務所と学校の混ざったような所に預けられた。娑婆に戻っても私が通うのは学校ではなく市役所の中にある教育委員会の一室だった。私はそこで授業を受けた。親戚中に預けられもした。今日は「本家」、明日は「あっちの分家」。親戚といってもみんな私には冷たかった。食事時、私だけおかずが少なかった。ご飯を「お代わり」すると嫌な顔を露骨にされた。母方の親戚は優しかったが、父親は母方に預けるのを嫌った。
結局、私は近所でスクラップ屋を営みながら親父と同じヤクザ者だった在日韓国人、梁川さんのウチが最も居心地がよかった。近所で孤立していた梁川さんは、親戚や周囲から邪魔者扱いをされていた私を優しく迎えてくれた。そこで私は後に「兄貴分」になる2つ年上のTちゃんからナイフの使い方やカミソリの飛ばし方を教えてもらった。
母親が家に戻り、私を抱きしめてくれた時、私は真面目になろうと決心した。中2の時である。それからの私は「絶対、最高の進学校に入り、早稲田に行く」と決めていた。早稲田を選んだのは小説「人生劇場」の影響だった。私は侠客・吉良仁吉に憧れていた。そして強くなりたいと心から希求した。梁川Tちゃんの父親が私が引っ越す時(小学6年の時、私の家は引っ越した)、こう私に言った。
「一志、男は頭と腕力だよ。どちらも1番になれば、大人になった時、ヤクザにならないで食っていけるし、銭も沢山儲けられる。銭があれば偉くなれる」
韓国語訛りのたどたどしい言葉だったが、私は母親と一緒に暮らす事が出来た時、梁川の親父さんの言葉を思い出した…。

これが現在の私という人間の原風景である。
私は矢沢さんの「成りあがり」にどうしようもない程の共感を覚えた。大学1年の時だった。
勿論、ガキの頃から音楽、特にロックが好きだった私は矢沢さんの攻撃的なロックに魅せられた。そして、私にとって矢沢さんは「人生の目標」となった。決して別世界の存在ではない。確かに矢沢さんはスーパースターではある。夜空に燦々と輝く大きな星だ。しかし私と矢沢さんの間には見えない階段が続いていると思った。それは途方もなく長い急な階段だ。でも何時か、私は矢沢さんの近くまで階段を登っていくと誓った。


あれから30年近くが過ぎた。昨年12月20日、日本武道館最後のコンサート。既に60歳近い矢沢さんはまだ走っていた。マイクスタンドを蹴っ飛ばし、一切の音程の狂いもなく2時間半も絶唱し続けた。
矢沢さんの姿に超満員の観客が拳を振り上げ絶叫した。そしてみんなが「永ちゃん、ありがとう!!」と叫び泣いた。私も泣いた。辺り構わず泣いた。
「なんて矢沢さんは強いんだ。どこまで矢沢さんは走り続けるんだ?」
私は痛感した。まだまだ矢沢さんに続く階段は長い事を…。だから私も走り続けなくてはならないのだ。
35億の詐欺にあったにもかかわらず、たった数年で負債を整理し、赤坂にまた30億のビルを建てた矢沢永吉。そんな彼に比べたら夢現舎のトラブルなど微々たるものだ。
私も走らなくてはならない。矢沢さんの、せめて1キロ近くまで階段を登らなくてはならない。


新年を迎えて、私が思った事は矢沢永吉の生き様への新たなる憧れと挑戦だった。そのためには小さな成功に浮かれてはならない。もっともっと先を目指して走り続けなくてはならないのだ。幸い私には塚本佳子という最強のパートナーがいてくれる。天狗になるのは10年早い。謙虚に、謙虚に汗を流すしかないのだ。
今年の計は「謙虚な挑戦」である。

samurai_mugen at 06:33|Permalinkclip!単発コラム 

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