2006年11月

2006年11月28日

緊急告知! 新極真会理事会の通告を受けて    (最新版)

11月24日付けで新極真会から理事会の決定事項として以下のような通告がなされました。
「ブログで書いた新極真会に対する小島のコラムは憶測によるもので、新極真会側の事実と異なっている。全国の会員の動揺を鑑みて、今後は小島、夢現舎からの取材を拒否し関係を断つ事を決定した」(概略)
新極真会と私の関係は、そもそも1995年の支部長協議会派によるクーデターの時点から完全な断絶関係にありました。ですから今更との感も強いのが実際です。
ただ、10月半ば、私からの三瓶啓二氏への電話に対する筋の通らない逃避と、黒澤道場と新極真会との間の問題に私が関わった事に端を発し、新極真会事務局との間でトラブルが生じたのは事実です。事務局とのやり取りの際、互いに冷静さを欠いた議論に終始し、事務局長・小井泰三氏に対する私の偏見から「新極真会、崩壊の序曲」という小論を掲載しました。
しかしその後、柳渡聖人氏の仲介により改めて小井氏と会談し、私自身の過失を認めて謝罪し、また小井氏も今後、新極真会として私からの取材を受け入れる事を確約し、さらには柳渡氏ともども小島と新極真会の関係改善に向けて積極的に尽力する事も約束してくれました。
少なくとも私は、新極真会事務局との間では関係改善を果たし、以後良好な関係を続けてきました。小井氏や柳渡氏とも幾度となく話し、冗談を言い合う関係にあった事は事実です。数日前も、大山総裁のお墓参りに行きたいという私からの相談に対し、小井氏及び事務局は実に誠意あるアドバイスをしてくれるだけでなく、お墓の地図までFAXで送ってくれました。
その意味で、今回の新極真会理事会の通告は私にとっては意外なものでもあります。今の段階ではまだ柳渡氏、小井氏からの事情説明を聞いてないので何とも言えませんが、少なくとも両者の力が及ばない所で、または両者が関わらない所で論じられたものと推測するしかありません。
私は小井氏との再会談後、直ぐに「新極真会、崩壊の序曲」をブログから削除し、改めて今回の経緯を小島の偏見によるものであると謝罪する文面を入れて「新極真会との確執と和解の経緯」として、事実経過をありのままに掲載しております。同時に柳渡氏、小井氏からは感謝の言葉さえ頂いております。
繰り返しますが、未だ私も事情や経緯を把握しておりません。しかし、少なくとも新極真会理事会の通告文は納得出来るものでは到底なく、何を以て私が「推測」で否定的な事を書いたのか? ならば理事会が主張する「事実」とは何なのか? 新極真会側の対応如何では顧問弁護士を代理人とし、内容証明郵便にて「公開質問状」を送付して明確な答えを求める決意です。また新極真会が公益団体NPO法人である以上、メディアの取材を拒否する権限はなく、またメディアには「言論、表現の自由」が日本国憲法で認められています。新極真会側はこれらの法律に無知なのか、全く無視した行為だと断言できます。
今後、法的代理人を通して「NPO法人法違反」「憲法違反」更には「名誉毀損罪」で法廷闘争を挑む覚悟です。そして、新極真会とのやり取りの全てを当ブログさらには私の著書、私が関係する週刊雑誌の中で明らかにしていきます。繰り返しますが、新極真会が公共機関NPO法人である以上、このような不当かつ無法な言動は決して許されない行為であるのは、常識ある方々ならば一目瞭然のはずです。いずれにしても新極真会側から明確な事情説明がない限り、小島及び夢現舎は法的に新極真会を徹底的に追及していく覚悟です。
私は物書きであり、ジャーナリストを自認している以上、「筋の通らない批判」は避けてきました。私に過失があると理解したからこそ、私は「新極真会、崩壊の序曲」を削除し、謝罪と供に「新極真会との確執と和解の経緯」を新たに掲載したのです。今度は、新極真会理事会の通告に対し、私は「筋の通らない批判」と受けとめています。何ら明確な説明もなしに物書きである私の文章を否定、批判するならば、私は自らの名誉をかけて新極真会と争う事に一切の躊躇いはありません。
既に私は柳渡氏に事情説明を要求し、小井氏からの対応も求めています。今回の決定を行った理事は以下の7名です。
緑健児/小林功/三好一男/藤原康晴/木元正資/外舘慎一/鈴木国博
彼ら理事からか、または代理人として柳渡氏と小井氏からの誠意ある私への対応を要求する次第です。
しかし11月27日現在、柳渡氏、小井氏からは何の連絡もありません。当方から幾度となく連絡しても居留守のままであり、当然、新極真会理事会からの連絡もありません。
唯一、三瓶啓二氏に電話がつながりましたが、三瓶氏の返答は以下の通りです。
「理事会の決定を知らされただけで、俺は何にも知らないし一切関わってない。勝手にしろ」
三瓶氏のスキャンダルの証拠や証言は私の元に保管してあります。いつ公表してもいい段階にある事はここに印しておきます。また、10月16日の三瓶氏への電話以降、三瓶氏が新極真会理事にかなりの圧力をかけていたという情報を私は得ていますし、第一、三瓶氏は理事ではないものの「相談役」の立場にあり、理事である三好氏、小林氏、外舘氏、木元氏、鈴木氏達に対して絶大な影響力を有している事も周知の事実です。
三瓶氏の横柄な電話対応こそが、今回の理事会決定の鍵であると私は「推測」しています。もし私の「推測」が間違いならば、「真実」を公表するのが公益団体NPO法人の義務ではないでしょうか?


余談ながら、このような一貫性を欠いた対応こそが、全国の新極真会会員や支部長、指導員からの不満が私の元に寄せられる原因ではないでしょうか? 事務局とは和解させながら、別の理事会では事務局と全く別な対応をする。影の実力者である三瓶啓二氏(これも私の憶測と彼らは主張するのでしょうか?)は決して表に出ず私から逃げまくる。三瓶氏には明らかにされたら社会生命を失いほどの痛恨の過失があるにもかかわらず、この期に及んでも責任回避どころか無関係を主張する。いずれにせよ、新極真会の意志決定がどこでなされるのかも相変わらず不明のまま、各部署による対応の矛盾。何ら私への事情説明を求める事なく一方的な批判と断交宣言。全てが密室の中で決められるのか新極真会の実態なのです。少なくとも「武道団体」を名乗り「教育」を掲げる団体、それも公益団体NPO法人の姿勢ではないと私は断言しておきます。私への通告文だけで事が納まるという甘い考えもきわめて愚かであり大いに反省して頂きたいと思います。
そして、このような一貫性のない、意志決定機関の曖昧さが、松井派極真会館や極真館との大きな違いであり、「そもそもはクーデターによって生まれた烏合の衆による非合法的組織」というレッテルが貼られ、西田幸夫氏、大石大悟氏や長谷川一幸氏、七戸康博氏、増田章氏など、常識ある人達が離れていくのです。

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2006年11月27日

連載・大山倍達プライベート迷言集(9)

大山総裁は何事においてもかなりの自信家だった。それは女性についても変わらなかった。「英雄、色を好む」という諺があるが、まさに総裁は「色」を好んだ。
私は総裁と行動をともにする事が多かった。特に1980年代後半から1993年まで、すでに総裁が70歳を迎える前後の時期である。例えば、当時恒例だった夏合宿地・「安房自然の村」。総裁は、そこの経営者の奥さんにぞっこんだった。喫茶コーナーでコーヒーを飲む時も、総裁は奥さんが入れてくれた時だけ「このコーヒーは美味しいね」と繰り返した。正直言えば、「安房自然の村」の喫茶コーナーのコーヒーは不味かった。煮詰まって焦げた味がして飲めたものではなかった。
総裁も私には「ここのコーヒーはお湯で薄めないと飲めないね~」と言っていた。しかし、奥さんがコーヒーを入れ、ちゃっかり総裁の隣に座りでもすれば、直ぐに鼻の下が伸びた。確かに奥さんは美人だった。
総裁はよく「やはり女性はね~、美人じゃないといけないよ」と言っていた。だから、レストランや喫茶店でも、あまり「美しくない」ウェイトレスがやってきても総裁は見向きもしなかった。そのくせ、明らかに美人のウェイトレスがやってくると、必ず何か一言口にした。
「ありがとう。美味しそうなコーヒーだね~」
「仕事は疲れるだろうが頑張りなさい」
そういえば千葉・一宮の旅館の女将も美人だった。少し気位が高そうな、ツンとした女将を私はあまり好きではなかった。女将は総裁に対しても時にぞんざいな態度を見せた。しかし、それでも総裁は女将が美人というだけで何もかも許せるようだった。昼食を部屋でとる時、総裁は女将が料理を持ってこないと途端に不機嫌になった。
私はそんな「女好き」の総裁が好きだった。「女好き」「色好み」といっても、総裁の態度や目線にはネバッとした厭らしさがなかった。まるで少年が美人のお姉さんに甘えるような、そんな年甲斐もない態度が微笑ましかった。総裁を見ながら私はよく思ったものだ。
「もう70にもなるお爺ちゃんが、子供みたいに美人な女性に夢中になるなんて、きっと総裁は自分の年齢を実感なんてした事ないんだろうな」
しかし、時に総裁は「大ボラ吹き」でもあった。この時も一宮の常宿に迎う途中だった。リアシートに私は総裁と2人で座っていた。すると、何を思ったのか、突然総裁は言った。

「きみ~、小島は女性にモテるかね? 男はね、女性にモテるようじゃなけりゃ一人前じゃないよ。小島が一人前のね~、大人の男ならば、それで甲斐性がって強ければ女性にモテるよ。女にモテないような男はね、何をやっても半人前なのよ…」

私は総裁の言葉を聞きながら、10年も前(当時から数えて)、総本部の稽古中に総裁が言い放った言葉を思い出した。

「きみたちね~、アフリカのライオンはね~、強いものたけがメスと仲良くやれるんたよ。弱いライオンはね~、メスから見向きもされず群れからはじかれてのたれ死ぬのよ。人間もライオンと同じだよ。強くてね、女性を守れる男は必ずモテるよ。強くなりゃね~、女なんてわんさわんさと寄ってくるよ」

私達、道場生は内心「本当かな~?」と思いながらも、「それじゃ強くならなきゃ」と、延々と続く前蹴上げの移動稽古に耐えたものである。
総裁は車の中で更に言葉を続けた。

「…私はね~、今まで『これは!』と思った女性はみ~んな手に入れたよ。それこそ百発百中、一撃必殺だよ~。私は今でも現役だからね~。生涯現役! 空手と女性は生涯現役なのよ。ただね~」

そう言うと、総裁はしばらく黙った。そして悪戯っぽい顔をしながらまた話し始めた。

「私は若ハゲでね~。30を越えた頃からハゲ出して、ハゲるにつれて自信がなくなっていったんだよね~。ただ私の場合は前からハゲていったからね~。まだましなのよ。頭頂部からハゲていくと悲惨たよ。カッコ悪いからね~。でも私は前からハゲていったから。元々私は額が広かったからね。しかし40を越えて、完全にハゲた時はさすがに私も男は終わったと観念しました。あの時は寂しかったよ。もう女性にはもモテないのかと思うとね。 ガックリときたものです。でも不思議なものでね、今度は50を過ぎるとね、ハゲも貫禄のひとつになるんだね~。私が女性に不自由したのは40代だけだね。50を越してからまた、モテるわモテるわ。やっぱり男は強ければハゲてもモテるのよ。私が稽古中に手拭いで頭を巻いたり外出の時に帽子を被るのはね、別にハゲを隠してるんじゃないのよ。頭がツルツルだとね~、汗が直に目に入るし、夏なんかね~、太陽の下にいると頭が陽に焼けてヒリヒリ痛いのよ。だから帽子を被ってるのよ。もっとも私は若い頃からハットが好きでね~。昔は大流行したんです。アメリカの俳優でね、ジャン・ギャバンというのがいて、彼がハットを被ってね、アル・カポネのようなギャングを演じるのに憧れてね~。それでハットを被るようになったのよ。帽子を被るとハゲるというからね~、私の若ハゲも帽子のせいかもしれないね。そういや小島、きみも年中帽子を被ってるたろ? 帽子は若ハゲのもとだからね、気を付けなさい」

いつのまにか、女性の話がハゲの話題になり、そして帽子の話になったまま、私達は一宮の旅館に到着したのであった。

2006年11月25日

極真館主催全日本選手権大会/盧山初雄館長インタビュー (06/11/23)

極真館主催全日本選手達大会/盧山初雄インタビュー


極真館が発足して今年で4年目になります。この間、私達極真館は、亡き大山倍達総裁の遺志に従い、「武道空手」の探求と普及、そして「最強の極真空手」の威信復活を目標に一生懸命頑張ってきました。
その結果、多くの人達、特に極真空手経験者、ファンやメディアの方々から「大山総裁の遺志に最も忠実な団体」であると評価を受けつつあります。これは、何よりも喜ばしい事です。しかしその反面、大きな責任感も抱いているのもまた事実です。
かつて大山総裁は「極真空手こそが地上最強の空手である」と公言し、弟子である私達も、「最強の極真空手」を目指して死ぬほど苦しい稽古・精進を重ねてまいりました。しかし大山総裁の死後、極真空手はまるで手の平を返したように「格闘技ショー」に近付き、一方で完全なる「スポーツ空手」へと変貌していきました。結果的に大山総裁が唱えた「最強の極真空手」の威信は地に堕ちたと言っても過言ではない状況に追い込まれたのです。
大山総裁から直に薫陶を受けた我々弟子達は今こそ、「最強の極真空手」としての威信とカリスマ性を再び戻さなくてはなりません。それこそが大山総裁への恩に報いる事であり、大山総裁の遺志の継承であると信じる次第です。極真空手は断じてアマチュアとしての「武道空手」でなければならず、プロレスまがいのショーやスポーツ空手であってはならないのです。
その為にも、大山総裁の弟子である我々は日々、努力精進をし、初心に戻り、極真空手の原点に回帰する事に全精力を傾ける義務を負っているのです。
今日の大会で、極真館主催の全日本選手権は4回目となりますが、4年前と比べて選手層も格段に厚くなり、選手のレベルもきわめて高くなりました。しかし決してそれに甘んじることは許されません。大会・試合は日々の精進の結果を試す場でしかないのです。大切な事は決して慢らず、ショーマンシップに走る事なく、またビジネス至上主義に陥らず、謙虚に稽古を繰り返す事でしかありません。極真館はこれからが正念場だと謙虚に受けとめております。
また、来年からは全日本ウェイト制大会が新しい「真剣勝負ルール」のもとに行われます。この試みに対して外部に賛否両論の声がある事は承知しています。しかし我々は、「大山道場時代の空手」に立ち返り「地上最強の極真空手」のプライドを取り戻し、名実ともに「最強の極真空手」を再構築する為にも、この空手界に新しい波、新しい風を起こさなければならないと信じています。そして、この姿勢こそが大山総裁が遺された「極真空手」の本来あるべき姿であり、大山総裁の遺志を継ぐ事だと確信しています。つまり、今年の成果を土台に、来年は大きく飛躍しなければならないと今から気持ちを引き締めています。
また、来年からはいよいよ財団法人極真奨学会が実際に活動を再開させる事になります。我々極真館も(財)極真奨学会の一傘下組織として、再び「極真空手」の総結集と大同団結に少しでも寄与していく所存です。決して極真館の下につくのではなく、(財)極真奨学会のもとに少しでも多くの仲間達が集まり、対等な立場で協力していく事こそが重要であり、大山総裁が作り上げた極真空手を守る事だと信じてやみません。
さて、本日の全日本選手の内容に関しては、まず選手達の個々の戦い方が押し合い、圧し合いといった汚い組手ではなく、大山総裁が言われていた「華麗なる空手」に一歩近づいたかなという実感があります。結果として、選手たちのKO勝ちが多く、内容的にも極真会館初期の空手を彷彿させる内容に近づいたと自負しています。
我々のさらなる強い希望としましては、日本人選手の一人ひとりが海外の一流選手達と戦っても互角以上に渡り合えるようにレベルアップしてもらうことです。きわめて遺憾な事ですが、現在海外の選手達のレベルは日本選手を遥かに凌駕しつつあるのが現状です。国内の大会で優勝した、2位になったという程度の事で喜んでいてはいけません。むしろ海外の強豪と戦った時にどのような試合をするのか? 「勝つ自信があるのか、それともないのか?」と、私は優勝した藤井選手ならびに上位に入賞した選手に問い糾しました。
例えば、先日のヨーロッパ大会で優勝したオシポフ選手について言うならば、会場で主審をした廣重毅副館長は「選手達の蹴りが速すぎて見えなかった」とさえ言っていました。日本選手には、そのような強い外国人選手達を相手にして絶対に勝たなくてはならない義務があると同時に覚悟が必要なのです。大会・試合の見地から言うならば、それが今後の日本選手達最大の課題です。
それにしても総体的に今大会は、我々が考えていた以上に素晴らしい大会として有終の美を飾れた事は紛れもない事実です。今後も大山総裁の薫陶と遺志を厳守しつつ、ますますの極真空手の発展に尽くしていく所存です。そして私自身も生涯を掛けて「一武道家」として絶え間ぬ精進をしていく覚悟です。どうか、今大会に足を運んで下さった皆様、または大山総裁が築き上げた極真空手を支持して下さる皆様、今後とも温かい応援と厳しい助言をよろしくお願いいたします。

(構成/小島一志)

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大会講評! 極真館主催全日本選手権大会/小島一志 (06/11/23)

11月23日、極真館主催による全日本選手権大会が開催された。
会場となった「さいたまスポーツアリーナ」はフルで4万数千名の客席を有するが、今回はその1/4のスペースを使い、更に両サイドの2階席も暗幕によって仕切られた。その分、特設アリーナ席が設けられた為、総観客席は約6千名。
しかし、2回戦終了後の開会式の時点で会場は殆ど満員状態。最上部脇に僅かながら空席が見られる程度だった。松井派極真会館や新極真会が従来通りに東京体育館を使用し、しかし客席がやっと5割を越える程度でしかなく空席の多さに侘しさを感じたのに比較し、やや小さなパイながらも満員状態の会場を見るのは、観客の熱気を直に感じられるという意味において好感を覚えた。
新極真会主催の全日本選手権の講評でも触れたが、Kー1やPRIDEなど「観戦を目的とした格闘ショー」が一般化した現在、もはや「極真空手」はあくまで実践者の為のアマチュア武道としての存在を主張する時期を迎えていると私は思っている。ならば、かつてのように大会の成否を観客動員数で測るのもナンセンスである。たった5、6割の観客数にもかかわらず単に「伝統」「プライド」に拘り、1万人弱のパイを有する東京体育館を使用するよりも、今回の極真館のように相応の会場を使用する方が、選手や大会関係者、そして観客が一体感を持てるという意味でずっと「熱い」大会になるというのが私が最初に感じた感想である。
会場を仕切る暗幕には「天地一拳」「天下布拳」と毛筆で書かれた大段幕から釣り下げられ、中央には日本国旗と極真館マークの旗が収まっていた。照明が落とされた会場の中で、試合場にだけスポットライトが当てられている。松井派極真会館や新極真会が使うオーロラビジョンもなく、当然オーロラビジョンでグッズ類の宣伝・広告が流される事もない。きわめてシンプルながら商業主義を一切感じさせない重厚感のある演出にも大きな共感を感じた。

最近、といっても大山総裁亡き後の10年間、2日間にわたる126名参加のトーナメントの在り方には少なからずの疑問や批判の声が上がっていた。極真空手が実践者だけでなく、観戦して楽しもうという浮動ファンが圧倒的に多かった1980年代前半まではそれでよかったかもしれない。しかし、あらゆるアマチュア格闘技・武道の大会を通して100名を優に越す選手が出場し2日間にわたって行われる全日本または全国選手権大会はない。柔道、剣道の例を見るまでもないだろう。
ましてや「競技技術」が急激に進化しつつある極真空手に、かつてのような「ショー的要素」を求める事自体が矛盾である。だからこそ、近年の松井派極真会館や新極真会の大会は観客達に間延びした印象を与え、見る者の緊張感を削ぐ傾向が高い。
「試合が単調で面白くない」
「選手達の戦いに緊張感がない」
「延長で体重判定が多く、つまらない」
これらの批判は決して「観戦」に徹するファンのものだけではない。試合を見守る道場生や経験者の多くが実際に語っている言葉である。世界大会はいざしらず、全日本選手権に関しては出場選手を約半数に絞り込み(その分、予選となる地方大会を充実させる)、1日で行うのが「まっとうな大会運営」ではないか? 私は1995年の「極真分裂」直後から、選手層の浅薄化を鑑みながらそう思い続けてきた。その意味でも、出場選手54名という極真館の大会を私は評価する。

トーナメントには極真館だけでなく、今後極真館の上部組織となる(財)極真奨学会(財団法人・国際空手道連盟に名称変更予定)の元に加盟・協力予定の極真会浜井派、極眞会(水口道場)など、更にはアメリカや南アフリカ、ウクライナからの招待選手が集結した。
試合自体について私が最初に懸念したのは選手層の薄さによる技術・戦術の低下である。しかし、少なくとも2回戦以上の試合はレベル的に殆ど松井派や新極真に劣らなかった。考えてみれば極真館が2002年に発足して5年程度しか経過していないとは言いながらも、後の(財)国際空手道連盟参加を見据えた各「極真系団体」が極真館の友好団体に加わる事で、極真館勢力の会員数は既に1万5千名を優に超えている。これは新極真会(公称・2万名)に肉薄する数であり、更に50余名に絞り込まれた選手達である以上、レベルの高さは当然と言えば当然である。

極真館主催の試合ルールは既存の「極真ルール」に改良が加えられている事は当ブログでも既に書いた通りだ。両者が超接近間合いで頭や胸を付け合っての連打戦を禁止し、また接近戦に挑む場合でも技を出しながらでなければ反則を取られる。更に顔面を無防備状態にした攻防を防ぐ為、手による顔面牽制も認められている。だが、2、3回戦に関しては他団体の選手や外国戦手、また極真館所属の選手でもまだ新ルールに不慣れな選手も多く、不用意に接近したり、掌底押し(実際には拳で押すように叩いていた選手が殆どだったが)で注意を受けるケースも少なくなかった。

ちなみに、極真館の場合、審判員の教育が徹底されている。その為、審判員による反則に対する基準に殆どブレがなかった点は特筆するべきだろう。それ故、一方の選手が連打攻撃に出た場合、ある程度の接近戦は容認するものの、互いが足を踏張ってのパンチ合戦に終始するというような、一般の「極真系」団体では見慣れた様相は皆無に近かった。
打撃格闘技の場合、選手は疲れると互いにもたれ合う習性がある。ボクシングの場合は後半のラウンドに入るとクリンチが激増する。これはキックボクシングも同様だ。極真空手の場合、掴みが禁止されている為、延長戦にもつれ込むと必然的に体を付け合った状態でスゥイング気味のパンチの応酬になる。
また顔面殴打が禁止されている為、危険な蹴りを封じ込める手段としてあえて超接近間合いに挑む戦術をとる選手も少なくない。または接近間合いからフットワークを駆使し左右に動く事で攻撃の的を外す戦術も多用される。前者の傾向が高いのが新極真会であり、後者の戦術が主流となっているのが松井派極真会館である。結果的に中間間合いでの攻防が極端に減り、パンチと下段蹴りが多用され、多彩な蹴りが出にくくなる。それも「最近の極真空手の試合は面白くない」と言われる要因である。もっとも「技術は競技ルールに従って進化する」という法則があるように、これらの戦術もルールで認められたものである以上、一概に否定する事は出来ない。
しかし極真館ではルールとして、超接近間合いでの顔面をガラ空きにした攻防が禁止されている。その為、必然的に中間間合いでの攻防が中心となる。試合では上段回し蹴りは勿論、前蹴りや中段回し蹴りが多用され、後ろ蹴りや後ろ回し蹴りといった近年の「極真系団体」の試合ではあまり見られなくなった技が乱れ飛んだ。新極真会の大会では「掛け逃げ」的な後ろ回し蹴りや胴回し回転蹴りなどの奇襲技を使う選手が少なからずいたが、極真館では相手が倒れた瞬間に下段突き(寸止め)を決めた場合、「技あり」を取るルールが徹底している為、同じ後ろ回し蹴りでも、タイミングを見計らい、相手の隙を突いて出すケースが殆どだった。また、パンチも中間間合いから放ち、その後蹴りに繋ぐかパンチの連打で接近戦に入るケースが多かった。相手をKOしての「一本勝ち」が多かったのも、ルール改正の効果によるものと言える。
中間間合いでの攻防が中心となる事で選手達の戦術も多様化し、そこに選手の「個性」も生きてくる。今回の大会を見ながら、私は1980年代後半から1990年初期、つまり松井章圭、増田章、黒澤浩樹が台頭していた「三強時代」から、桑島保裕や緑健児、八巻建二ら個性豊かな選手達が鎬を削っていた時代の「極真空手」を思い出した。勿論、当時に比べて選手達が総じて小粒である事は否定出来ない。だが、今回のトーナメント程、華麗で多彩な組手を見られた大会は近年にないだろう。極真館のルール改正が正解だった事を実感した人間は決して少なくないはずだ。

唯一、課題を言うならば殆どの試合ではルールで認められた「顔面牽制」が生きていなかった点である。城南支部系の選手達に、かすかに「顔面牽制」が見られた程度である。そうは言いながらも、中間間合いでの攻防に入るまでの駆け引きは、一般の極真系団体には見られない遠隔間合い(顔面殴打可の間合い)で行われるケースも多く、これも「顔面牽制」のひとつと考えればルール効果は無ではなかったと言えるだろう。

準々決勝以降の試合は、松井派極真会館や新極真会の試合と比較しても全く遜色がなかった。試合結果については既に「速報」で紹介しているので詳しくは触れないが特筆する選手を挙げておく。
極真館主催ウェイト制大会で4連覇を果たしている岩田學は果敢な攻撃で一本勝ちを収めるなど破竹の勢いで勝ち上がったが、ラフ攻撃による減点が祟り準決勝で姿を消したのが残念だった。また第1回優勝、第3回大会準優勝の実績を持つ市川雅也(奈良支部)もパワフルかつ冷静な組手で相手を圧倒しながら勝ち上がったが、新鋭・夏原望(城南川崎)のスピーディで多彩な技の前に準優勝で涙を飲んだ。
決勝戦は夏原と藤井脩祐(城南大井町)と、同門対決になった。しかし第2回、第3回大会連続3位の実績を持つ藤井が夏原の攻撃を巧く躱し、積極性と決定打の多さで夏原を上回り、念願の初優勝を手にした。

繰り返すが、極真館主催全日本選手権は「ルール改正」という思い切った試みが功を博し、盧山初雄館長が公言する「原点回帰による華麗なる武道空手」の復活が明確な形として表れた事は間違いない。来年からこの大会は主催が極真館から(財)極真奨学会に以降する予定ではあるが、今後の発展がきわめて楽しみである。

最後に、エキジビションして行われた「真剣勝負ルール」による試合について触れておく。試合ルールについては当ブログでも何度か紹介してきた。ボクシング用グローブとは異なるサポーター的なグローブ(自衛隊徒手格闘術で採用されているグローブの改良型。指が自由に使える)と肘サポーター、そして前頭部と後頭部を保護する簡易的なヘッドギアを着用する。その上での顔面殴打、顔面&頭部への肘打ち、3秒以内の掴み、投げ、関節技を認めるというルールである。
試合は3試合行われた。春のウェイト制大会でも2試合が行われ、この時は両試合ともパンチによるKOで勝敗が決まった。だが今回は3試合とも判定勝ちまたは引き分け。
勿論、これは過去にない画期的なルールであり、このルールによる試合が「確立」し「様式化」するまでには最低でも3年は必要になるだろう。
しかし、春の公開試合に比較して今回の公開試合が地味で、特にパンチの決定打が出なかった点を以て簡単に「技術的未熟」と決め付ける事は適切ではない。何故なら、この真剣勝負ルールが「掴み」可であり「顔面&頭部への肘打ち」が認められている点を無視してはいけないからである。当然、スーパーセーフなど頭部用防具も着用していない点も見過ごしてはならない。
ムエタイも肘打ちが認められており、肘打ちはパンチよりもKOに繋がりやすい必殺技とされている。ただムエタイはボクシンググローブ着用の為、中間間合いからの一撃か「首相撲」からの肘打ちに限定される。だが極真館のルールでは掴みがある為、より多様な肘打ちが可能になる。ボクシングやキックボクシング、日本拳法、防具空手のようにパンチだけが顔面に飛んでくる訳ではないのだ。つまりパンチを躱したとしても波状攻撃で肘が直線または曲線的に襲ってくる可能性も高く、また逆にパンチに対するカウンターとして肘打ちが伸びてくる事もあるのだ。更にパンチを避けられた場合、投げだけでなく掴みからの肘打ちもありうる。結果的に選手達はパンチ(手技)に慎重にならざるを得ない。
春の公開試合よりも積極的なパンチ攻撃が見られなかった背景に肘打ちの存在を無視してはならない。
中には殆ど蹴りを出さず、手技に意識が集中してしまった選手もいた。パンチと肘打ちの技術、手技と蹴りのコンビネーションなど課題が多い事は否定出来ない。それでも3戦目の東海林亮介(第2回全日本王者)と藤井浩史の試合はエキジビションとは思えない高レベルで緊迫した攻防が繰り広げられた。特に東海林は手技と蹴りのバランスがよく、キックボクシングやスーパーセーフ着用ノックダウンルール、または日本拳法の試合とも異なる、まさに空手らしい戦いを見せてくれた点は高く評価出来るだろう。
いずれにせよ、来年からの全日本ウェイト制選手達が楽しみである。極真館が目指す「最強神話の復活」と「武道空手としての原点回帰」は確実に形となって表れつつある

(小島一志)

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2006年11月23日

速報! 極真館主催全日本空手道選手権大会(00/11/23、さいたまアリーナ)

極真館主催第4回全日本空手道選手権大会/試合結果((mugensha)

2006年11月23日(木・祝)、さいたまスーパーアリーナにて、極真館主催による第4回全日本空手道選手権大会が開催された。

昨年のチャンピオン・舩先雄(奈良)が準々決勝で岩田學(埼京・城北)に、準決勝で第1回大会チャンピオンの市川雅也(奈良)が夏原望(城南川崎)にそれぞれ敗れる混戦模様の中、決勝に進んだのは、共に初の進出となった夏原望と藤井脩祐。
決勝は、お互い譲らぬ激しい打撃戦となり、積極的な姿勢と有効打で上回った藤井が、再延長判定の末5ー0で勝利し、初優勝を飾った。

総体的な試合様相は厳格なルール規制の結果、新極真会や松井派極真会館のような、超接近間合いからの打ち合いは殆ど見られず、中間間合いからの激しい攻防が主流となった。それ故、選手の個性も他の極真系団体に比較して組手に見る事が出来た。また歴史的に新しい団体の主催大会にもかかわらず、試合レベルも他団体に決して劣らなかった点が注目出来る。来年から(財)極真奨学会主催大会となる予定だが、そんな気運が試合レベルにも表れていたのかもしれない。

決勝戦の前には、来年のウエイト制大会から正式に採用される「極真館真剣勝負ルール」によるエキシビジョンが3試合行なわた。春のウェイト制大会ではKOシーンが見られたが、今回は選手同士の技量が拮抗していた為か、試合自体は地味な様相に終始した。しかし観客の注目度は高く、白熱した攻防に熱い視線と歓声が注がれた。まだまだエキジビションの段階であり、蹴りを使わずパンチ中心の選手もいたが、極真空手の新方向を示唆する意味でも今後の進化が期待される。

●最終結果
優勝/藤井脩祐(城南大井町)
準優勝/夏原望(城南川崎)
第3位/市川雅也(奈良)
第4位/岩田學(埼京・城北)
第5位/舩先雄(奈良)
第6位/櫻井豊(埼京・城北)
第7位/市川典秀(奈良)
第8位/D・シンピウエ(南アフリカ)
敢闘賞/松井潤一(城南川崎)
試割賞(21枚)/市川雅也(奈良)
特別賞/D・シンピウエ(南アフリカ)
技能賞/夏原望(城南川崎)

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2006年11月19日

大会速報! 松井派極真会館全日本選手権大会/最終日(11/19)

松井派極真会館 第38回全日本空手道選手権大会/最終日試合結果(11/19)
(mugensha)


準々決勝で優勝候補の田中健太郎(川崎中原)が、クリストフ・ハブラシカ(ポーランド)に右上段回し蹴りで技有りを取られて敗れるなど、波乱が続出した最終日。ベスト4に日本人選手がひとりという異様な状況の中、決勝の再延長、終盤に中段膝蹴りで攻めたてた内田義晃(京都)が、アルトゥール・ホヴァニシアン(総本部)を判定3-0で下し、昨年に続いて連覇を達成した。
内田をはじめ今大会でベスト8に残った5人の日本人選手は、来年開催予定の世界大会に日本代表として出場することになる。
しかし、今大会の結果は、更なる強豪外国人選手が待ち受ける世界大会に向けて、予想以上に厳しい現実を日本につき付ける結果となった。


●最終日結果
優勝/内田義晃(京都)
準優勝/アルトゥール・ホヴァニシアン(総本部)
第3位/ディミトリー・ルネフ(ロシア)
第4位/クリストフ・ハブラシカ(ポーランド)
第5位/木立裕之(本部直轄浅草)
第6位/別府良建(鹿児島)
第7位/田中健太郎(川崎中原)
第8位/池本理(兵庫)
敢闘賞/クリストフ・ハブラシカ(ポーランド)、ディミトリー・ルネフ(ロシア)
新人賞/原田聡一郎(千葉県中央)
試割賞(29枚)/内田義晃(京都)

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2006年11月15日

連載・芦原英幸語録(8)

松山の芦原会館総本部には1986年以来、1990年まで都合5ー6回は足を運んでいる。
あれは何度目の松山訪問の時だったろうか? 正確には覚えてないが、少なくとも芦原先生の娘さんが(2人いるはずだが、どちらの方かは忘れてしまった)中学生の頃だった。
当時、私は芦原会館近くのボロなビジネスホテルに宿泊していた。毎回、滞在は1週間程度だった。毎日、夜遅くまで芦原先生と行動を供にし、朝は昼前には必ず芦原先生がホテルまで迎えにきてくれた。その日も、芦原先生と昼食を食べ、総本部1階のアスレチックジムでウェイトトレーニングのやり方を芦原先生から教えてもらっていた。
とても閑かな昼下がりだった。奥様は買い物の帰りらしく自転車に乗り、前の籠にはスーパーの袋を詰め込んで帰ってきた。袋からは白い大根と青い葱がはみ出していた。芦原先生は、「今日はいい天気じゃけん。松山港にでも行こうか…」なんて言いながら欠伸をしていた。
そこに娘さんが学校から帰ってきた。ところが娘さんは何故か泣きベソをかいている。自転車を会館脇に止めた奥様が娘さんに駆け寄り、ヒソヒソと何か話していた。芦原先生も怪訝な顔で2人を見ていた。すると、奥様は娘さんの手を引いて私達の方にやってきた。一目で表情が厳しいのがわかった。奥様によると、娘さんが下校中、変質者の男に悪戯されそうになったという。それで娘さんは必死に逃げてきたと奥様は言った。奥様は娘さんに「でも、何にもされなかったのよね?」と聞くと、娘さんは黙って頷いた。私も胸を撫で下ろしていたが、フッと芦原先生を見ると、すでに鬼のような形相になっていた。
芦原先生は、娘さんに「分かった。ワシが痛め付けてきちゃるけん!」と言うと、そのまま走り去っていった。奥様が止めようとしたが、その時にはもう芦原先生の姿はなかった。私達は会館3階の私室に入った。娘さんはいつしか元気を取り戻していた。奥様が入れてくれたコーヒーを飲みながら、改めて娘さんの話を詳しく聞いた。
娘さんによれば、彼女は友人数名と談笑しながら歩いていたという。すると前からズボンの股間のチャックを下ろした中年の男が、卑猥な言葉を言いながら娘さん達を通せんぼするように立ち塞がった。当然、娘さん達は嬌声を上げながら走って逃げた。結局、その変質者は娘さん達を追わず、娘さん達は無事に逃げきる事が出来た…。よくいる変質者の話である。奥様も笑顔に戻り「困ったものね。一応、学校に連絡しておこうかしら」と言うと、実際に電話の受話器を取った。そして今回の経緯を担任の教師か誰かに話していた。
私はハッと気付いた。
「芦原先生、どこにいっちゃったんだろう?」
私は電話を終えた奥様に芦原先生の事を話した。今度は芦原先生の行方の心配である。奥様は1階にいる職員の弟子を呼んだ。2人の弟子がやってきた。
考えてみれば芦原先生も気が早過ぎる。自分の可愛い娘さんが「痴漢」に遭ったのだから怒るのは当然ではあるが、実際、芦原先生は変質者の風貌も、どこで娘さん達が変質者に遭遇したのかも、何にも娘さんから聞かないまま出ていったのだ。仮に、その変質者が再び同じような行動をしていれば分かるかもしれない。芦原先生は娘さんの通学路を知っている訳だから、道伝いに行けば変質者を見つける事も不可能ではないだろうが…。しかし、松山は地方とはいっても四国一の大都会だ。たんぼや畑が広がる田舎ではない。相手の姿の見当もつかないのに捜し出すのは少々無茶ではないだろうか?
そんな事を考えながら、私は奥様や娘さん、弟子達を見ると、やはりみんなも浮かない顔をしている。私は言った。
「先生は相手の顔もわからずにどう捜そうと思ってるんでしょうか?」
だが、どうも奥様達の反応は鈍い。私は何か場違いな発言でもしたのだろうかと自問自答し始めた。すると、奥様は「相手が見つからない方がいいのよ。見つけてしまったら何するか分からんけん。殺してしまうかもしれないのよ」と言った。弟子達も、そして娘さんまでもが真剣な顔で頷いた。
私は、ようやく合点がいった。
「そうか…。娘さんには全然被害がなかった訳だから、とりあえずよしとして、それなのに先生は怒って駆け出していってしまった。本当に芦原先生がその変質者を見つけてしまったら、殺してしまう可能性もある」
私達は一転して、芦原先生が変質者を捜し出さない事を祈り始めた。
だが芦原先生はいつになっても戻ってこない。私は奥様や弟子の方達と1階に降りて芦原先生の帰りを待った。時間はすでに午後5時を回っている。芦原先生が出ていってから3時間が過ぎていた。奥様も心配しながら「どうしちゃったのかしら。警察に連絡しておこうかしら」と落ち着かない。娘さんもやはり心配そうに奥様に寄り添っていた。
陽が沈み空は暗くなっていた。そろそろ6時になるという頃、芦原先生は戻ってきた。真っ赤な顔をして汗だらけだ。私達は芦原先生に駆け寄った。すると、芦原先生は娘さんを抱き抱えながら言った。

「すまん、すまん。ワシ、変態男の顔も何にも知らんまま捜しちょったけん。とうとう見つからんかった。ワシは直感が鋭いけん、顔なんか知らなくても変態男なら直ぐに分かると思っちょった。今回は勘が狂ったけん。見つけだして金玉引っ込抜いてやろうと思っちょったけん。勘弁してな…」

芦原先生の言葉に私達が小さく安堵の声を上げたのは言うまでもない。同時に私は何故か鳥肌が立った。
後で芦原先生が言うところでは、娘さんの通学路を中心に街中をうろつきながら不良やゴロツキは勿論の事、道を歩いている男性を見付け次第、「オマエが変態男か?」と聞いて歩いたという。奥様は呆れ顔で言った。

「みんな怖かったでしょうね。あのギョロ目で因縁つけられて、何人の被害者が出た事か? 不良っぽい人なんか張り手の1つや2つ、やられたに違いないわ。困ったもんだわ」

今回の芦原英幸語録は奥様の言葉も付録の2本立てでお贈りした。

samurai_mugen at 01:20|Permalinkclip!連載・芦原英幸語録 

2006年11月13日

日記・正義なき力は暴力なり(06/11/5ー11/12)   未収録文追加最新版

今日は06年11月12日。
話はその1週間前の11月5日から始まる。この日、9月から10月にかけてろくにトレーニングしなかった私は調子に乗って息子のトレーニングに付き合ってしてしまった。朝から風邪気味で「今日は休もうかな…」と思っていた。しかし一念発起してトレーニングウェアに着替えた。11月とは思えない程に暑く陽射しも強かった。私のマンションは大規模修繕中でバルコニーのバーベル類は使えない。ならば「今日は空手とアスリーツトレーニング中心でいくぜ!」と大張りきりの息子…。
悪い予感を抱きながらも、私は屋内で腹筋と背筋を5セットやって外に出た。ボクシングを始めてからランニングが日課の息子と一緒に約3キロのランニング。息子の後をついていくのが精一杯。近所の小学校の校庭に入る。私達は腕立てを始めた。まず普通の腕立てを100回。それから石の階段に足を乗せ、傾斜腕立て&拳立てをバリエーションを付けて5セット。ヒンズースクワットを100回3セット。カーフレイズ200回2セット。立禅を15分。
息子は常に私の2倍の量をこなす。ただ、息子にはまだ立禅を教えていない。私が立禅をしている間、息子はボクシングのシャドーを3分セットで繰り返していた。休憩を挟んで50メートルダッシュを10セット…死ぬかと思った。
息子は18の元気盛りだ。そもそも息子と同じトレーニングをしようというのが無理なのだ。しかし息子との親子稽古は息子が浅草松井道場に入門した4歳の頃から続けてきた。かれこれ15年間もやってきた事になる。数年前までは嫌がる息子を無理に引っ張ってトレーニングしてきた。幼稚園児の息子に体中サポーターとヘッドギアを付けさせて倒れるまで組手の特訓をしてきた。それなのに今度は私が歳だからと逃げる訳にはいかない。
石階段を利用して踏み台昇降運動を10分3セット。鉄棒で懸垂20回3セット。3セット目は8回でダウン。もう頭クラクラ。情けなさの極致だ。Tシャツは汗でグッショリだ。Tシャツを脱いで絞ってみたら、汗がポタポタと落ちてきた。
5分間の休みを挟んでスキルトレーニング。まずは息子に教えてもらい(私も昔、半年間ボクシングジムに通っていたが…)シャドウボクシングをステップと重心移動に気を付けてゆっくり正確に2分5セット。ジムのように3分セットでは無理だ。そして息子とマスボクシングを2分3セット。次は空手のスキル。シャドウ1分5セット。受け返しを2分10セット。タイヤに蹴りを左右30本。最後はスパーリング。もうやりたくない。「そろそろ競馬中継が始まるから帰ろう」と私は息子に提案するが、息子受け付けない。仕方がなくスパーリングを1分5セット。3セット目からは間合いをとって逃げる戦術しかない。しかし息子は城西流の接近戦で…ライトコンタクトの約束なのに当たりは相当強い。いつのまにか完全な組手になった。
大昔の首都圏大会、城西の大賀さんから技ありをとった得意の後ろ蹴りを出すが空振り、その瞬間息子の上段回し蹴りを側頭部にもらい、思わずダウン。無念不覚…完全に私の負けだ。それでも左の上段回し蹴りと中段横蹴りが意外に使えた事だけは嬉しかった。
翌6日はずっと死んでいた。風邪も拗らせた。
11月7日、夕方から極真館本部で盧山先生と打ち合せ。仕事内容はもっぱら塚本に任せて私は盧山先生と冗談話でお茶を濁した。
盧山先生の話。来年から本格的に財団法人極真奨学会(財団法人国際空手道連盟に名称変更申請中)が活動再開。財団の運営は梅田先生や米津氏など「第3者」が行う。そして極真館は財団の下部組織に入るとの事。だから(財)極真奨学会主催の大会と極真館の大会が別々に行われる事もありうるという。顔面殴打可の真剣勝負ルールはあくまで極真館の大会で実施するようだ。
私は盧山先生に黒澤道場の件を改めて話した。盧山先生は「黒澤道場に限らず浜井道場や極眞会、増田道場、更には清武会など、決して極真館の下につくのでなく同格の極真奨学会の協賛団体としてやっていきたい。これこそが大山総裁の遺志を継ぐ形での大同団結になるのではないか。だから黒澤君も極真館と同格の仲間として付き合えればいいし大歓迎だ」と言ってくれた。
11月8日。昼過ぎに起きた私は塚本と打ち合せ。まだ体が重い。夜、ボクシングの練習から帰った息子はベランダのバーベルセットが元に戻っているのを見ると「親父、久しぶりにウェイトやろうぜ!」と私を誘う。仕方なく「久々だから軽くウォーミングアップ程度にしよう」と、トレーニングウェアに着替えてベランダに出る。
腹筋、背筋、ヒンズースクワット、カーフレイズを一通りやってからベンチプレス。約2カ月振りのバーベルは重い。普段は70キロから始めるが、この日は55キロ、20回からだ。5キロずつ挙げていき私は85キロを10回で終える。息子は100キロを8回。クールダウンも入れて10セット。少し重量を下げてバーベルカール、スタンディングロウ、バックプレス、ダンベルロウ、リストカール…。約1時間半。
もう夕食は喉に通らない。プロテインとサプレメントだけ。息子は特大サイズのとんかつを軽く平らげた。
11月9日。午後3時起床。塚本と打ち合せ。
11月10日。やはり午後起床。塚本と打ち合せ。明日は極真館の撮影だ。早く寝ようと思ったら夜12時、柳渡先輩から電話。
この10年間のブランクを取り戻すかのように、話はあっち行ったりこっち行ったり…。柳渡先輩は昔気質の情熱家。新極真会事務局の小井氏が私との和解の後、私と黒澤道場の関係が悪化する事を心配して電話をくれた件を伝えると、柳渡先輩は号泣。涙脆い先輩なのだ。私はジャーナリストを自認している。だから、新極真会が組織として完璧ではないし、多くの問題を孕んでいる事も否定出来ない。また、私と塚本の著書ではこれら新極真会の課題について触れない訳にはいかない。ここでは1つだけ、柳渡先輩との話で明らかになった新極真会に対する私の疑問を挙げておく。
そもそも新極真会は、改選制がなく松井体制の独裁化を懸念し、「民主的合議制による館長(会長)の改選制」を唱えて松井派極真会館を離れて支部長協議会派極真会館を設立した。現在、新極真会では理事制と委員会制を取り、定期的に支部長による選挙によって会長(正確には代表理事)が選出される建前になっている。だが、どうも現実には圧倒的多数の支部長が緑健児会長の続投を願い、改選の可能性は少ないという。理由は、緑氏のクリーンなイメージを看板保っておく必要性と、緑氏の豊富な財源…。柳渡先輩はそこまでは明言しなかったが、私には容易に推測出来た。また、緑氏は正式には「代表理事」であり、理事会の長ではあるものの、決定権の有無については、柳渡先輩でも私に巧く説明出来なかった。
もっとも松井派極真会館や連合会の例を挙げるまでもなく、完璧な組織は存在しない。私は小井氏と話し、新極真会の事務局がしっかりしている以上、今後の新極真会の運営は決して悲観的ではないと再認識したのもまた事実だ。
また、こうして柳渡先輩と色々な話が出来る事で、柳渡先輩個人との付き合いだけでなく、新極真会とパイプが出来た事が嬉しかった。
また柳渡先輩は「小島は今まで空手や格闘技の世界でケンカを売りまくり、さぞ修羅場を潜ってきたんだろう。オマエも大変だな」と心配してくれた。だが正直言って、私は過去、自著などに対するクレームもなく、怖い思いをした事など1度もない。そういえば1回だけ1990年前後、「月刊武道空手」を制作していた頃、正道会館の石井和義から脅しの電話がきた事がある。
「生きのいい若い連中を10人ばかり行かせるで。海にでも沈めたるわ!」
だが、私は石井の話を最後まで黙って聞いた後、「石井さん。私は元月刊空手道編集長の小島一志ですが、小島一志と分かって因縁を付けてるんですね」と言った。途端に石井の態度が豹変し「今、『格通』の編集部におるんですわ。正道を批判する記事が出たっちゅうんで格好だけ付けさせてもらいました。気にせんといて下さい」と言うや否やそそくさ電話を切ってしまった。私は今でも石井の激変の理由が分からない。勿論、私もこの世界にいる以上、顧問弁護士も雇っているし、あまり表には出せない色々な後ろ盾もいる。だが石井が私の背後を知るはずもなく理由が分からないまま今日に至っている。
柳渡先輩は言った。
「小島の後見人は沢山いるだろうがこの場合は芦原師範だと思う。芦原師範が小島の後見人を自称していた事は有名だ。当時は芦原師範の力は絶大で、極真の支部長も触れないようにしていた。オマエは、芦原師範に可愛がられていたからなあ」
そういえば、私が辞めた福昌堂が「小島を解雇したので、以後は小島と関係を持たないように」という回状をメディアや格闘技団体に送った時も、芦原先生は「絶対に小島が一人前になるまでワシが守っちゃるけん」と言ってくれた。私は柳渡先輩の言葉で、芦原先生のあの時の「約束」を思い出した。
とにかく、そんなこんなで柳渡先輩との電話を切ったら午前4時を回っていた。
11月11日午前9時。私は睡眠不足とトレーニング疲れでクタクタのまま起きた。風邪薬と頭痛薬を一緒に飲み、熱いシャワーで目を覚まして川口の極真館本部に向かった。「技術書」の撮影は重労働だ。私と塚本が道場に着いた時にはすでに撮影の準備は整っていた。夢現舎として担当のスタッフを2人つけていたが、まだ雑用程度しか役に立たない。しかし私の隣には塚本佳子がいる。それだけで私は気が楽になった。
「ジュニア空手入門」の為、道場内にはモデルの子供達が20名近くいた。また支部長や指導員も10名程度いる。見学にきた父兄の姿もあった。道場は熱気に溢れていた。盧山先生は所用の為少し遅れると聞いていたが、岡崎寛人師範の采配が見事で、各支部長もテキパキと動いてくれた。そして何よりも子供達の礼儀正しさは脱帽ものだ。塚本曰く「昔から盧山道場の少年部の礼儀正しさは極真随一だった」という。早朝からまる1日、誰1人騒いだりする事なく、先生達の指示に従っていた。また版元の甲斐部長と斎藤編集長まで撮影に顔を見せてくれた。尤も彼らは昔から熱烈な「盧山初雄ファン」なのだが…。
盧山先生は昼頃現われた。撮影中、盧山先生のチェックは厳しく、しかしモデルの子供達は盧山先生の指示通り寸分の狂いもなく技を繰り出す。その技の見事さは言葉では簡単に表せられない。本書を見て頂ければ一目瞭然だろう。
撮影の連続の為に道場の緊張が飽和状態になったかと思うと、盧山先生は冗談を言って場を和ませる。まさに空気の読み方は達人の領域だ。
イメージ写真の撮影に入ると、突然、盧山先生は立ち上がった。今から野球バットを折るという。弟子が頭の上にバットを立てて支える。しかしバットはグラグラとして安定しない。だが、それに構わず盧山先生は構える。この時の表情の厳しさはまるで別人だ。道場内が静まり返る。
結局、盧山先生は手刀と裏拳でバットを折った。「折る」というより「斬る」という表現の方が正しいだろう。更にバットを2本重ねて立て、得意の下段蹴りでバットを斬った。盧山先生には失礼だが、すでに60近い年齢にもかかわらず、その鋭さは往年と全く変わらない。毎日、鍛練を怠らず、スクワット3千回を自らに課しているが故の名人技だ。盧山初雄こそが「極真魂の後継者」と言われる所以である。また岡崎師範も瓦12枚を寸勁で割った。
午後8時頃、長い撮影は終了した。ボクシングジムに行った息子と駅で待ち合わせ、私は帰途についた。盧山先生のバット斬りが頭から離れない。また疲れ切って食欲もない。とにかく風呂に入り、息子と「お笑いビデオ」を見ながら1時間くらい仮眠を取り、食事をしてベッドに入った。興奮が冷めず、精神安定剤を飲み、ブログとコミュニケーションBOXをチェックして明け方寝る。
そして今日、11月12日。息子と一緒に起床したのが午後2時。背中と腰が鉄板のように張って痛い。しかし息子は「だから運動したのがいいんだ」と言う。さすがにウェイトトレーニングは諦めて、補強&柔軟とボクシングの練習。そして空手のシャドー、受け返し。スパーリングはやらずに1時間ちょいでお茶を濁した。
夜、行きつけの寿司屋で夕食を食べた。と言っても回転寿司である。
しかし、今でも盧山先生の隙のない構えとバット斬りの映像は頭から離れない…。

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2006年11月10日

連載・松井章圭との日々(11)

松井章圭が自分で原稿を書く事を諦めた事で、「我が燃焼の瞬間」の制作はまた振り出しに戻ってしまった。松井は今度は新しい提案をしてきた。
「小島さん、僕が一番いいと思うのは、僕が話した事をテープに取って書くんじゃなくて、僕が話す事をそのまま小島さんが文章にしていくんです。そうすれば、小島さんが変な事を書いても僕が傍でチェック出来るし、無駄がなくなると思うんです」
私は松井に従うしかなかった。もう版元が設定した締切は過ぎている。松井が納得する形で進める以外、もたもたしていたら出版さえ危うくなる。私は「そうしましょう」と頷くと、早速作業に取り掛かった。
私の机の脇に松井が椅子を持ってきて座り、松井はまるで私の家庭教師のようにふんぞり返りながら話始めた。それにしても松井のチェックは厳しかった。私はもう難しい事を考えず、ひたすら松井が話す言葉を原稿用紙に埋めていった。本当はワープロを使いたかったが、松井は「いちいちワープロの画面を見るのは面倒ですからね、原稿用紙に書いて下さい」と譲らない。私が一枚分書き終えると、松井は更に家庭教師然としてチェックする。そして必ずのようにクレームをつけた。
「小島さん、僕はこんな言い方してませんよ。ここはね、もっと謙虚に書いてくれなくちゃ困るなあ」
私は「だって、松井さんが言ったように書いてるのに」と言い返す。すると松井は「そんな言い方はしてませんよ」と言い張る。「いや、言いました」「言うはずないじゃないですか」そんなやり取りが延々と続いた。
こんな事があった。松井が言う通りに私は書いた。
《私はどこにでもいる普通の男の子だった。ただ少しだけお調子者だった》
すると松井は「小島さん、これじゃああまりに平凡過ぎるじゃないですか。プロなんだからもう少し文章の技術を使って下さいよ」と言う。私は呆れて、「じゃあ、私は少しだけ他の友達よりお調子者だった。ただ、それ以外はどこにでもいる普通の男の子だった…。こんな感じですか?」と答えた。しかし松井は腕を組んでウーンといって考え続ける。私は松井の言葉を待った。そのうち、松井は居眠りを始めた。明らかに寝ている。私は松井の耳元で「ワッ!」と言った。その瞬間、松井の手刀が私の首に飛んできた。危うく喉元は躱したものの、手刀は私のアゴを捕えた。さすがに世界チャンピオンの反射神経とパワーである。私はそのまま壁に吹っ飛んだ。
「痛てーっ!」
私のアゴは真っ赤に腫れ上がった。しかし松井は自分が何をしたのか理解できなかったようで平然と「小島さん、何ひとりで騒いでいるんですか? しょうがないなあ」と言い放った。「あんたはゴルゴ13かよ?」
そんなこんなで、松井と私の二人三脚は2ヵ月近く続いた。やっと原稿が仕上がった。ただ、松井はそれでも原稿には満足していない様子だった。後年、「我が燃焼の瞬間」が出てからも、松井は口癖のように「小島さん、僕はこの本に満足してませんからね」と言い続けた。
それでも、原稿が完成し、表紙の見本が出来上がると、松井はまんざらでもなさそうに、ニコニコしていた。
ところで、この松井の自叙伝の発売にはひとつだけ大問題が横たわっていた。それは「我が燃焼の瞬間」の件をまだ大山総裁に報告してないという事だった。当時、大山総裁は弟子達が本を出版する事を嫌っていた。過去、山崎照朝氏や盧山初雄氏達は印税を極真会館に寄付するという条件で大山総裁から自叙伝の出版許可をもらっていた。そういえば私が夢現舎を設立したばかりの頃、三瓶啓二氏の自叙伝の制作計画があった。だが、三瓶氏は「小島から総裁に話をつけてもらえないと俺にはやりようがない」と言い、私も大山総裁の許可を得るのは難しいという判断で断念した経緯がある。
松井の自叙伝の話が出た当初も、いかにして大山総裁の許可を得るかで私達は相談を繰り返した。最終的に、松井は「これは僕が責任を持って総裁に許可を得ますから、とにかく形にしてしまいましょう」という事で、後送りにしたのである。
もう、これ以上大山総裁に内緒にする訳にはいかない事態になっていた。松井は腹をくくったように、いつもとは違う厳しい表情で私に言った。
「もし、最終的に総裁の許可を得られない場合は、僕は極真を離れてもいい覚悟は出来ています。絶対に小島さんや池田書店には迷惑をかけません」
私はこの時、改めて松井章圭という人間の「強さ」を実感した。それでも一応、私達は大山総裁への言い訳を考えた。結局、小島も松井もお金に困っており(実際、その通りだったが)、少しでもお金が欲しいので松井の自叙伝を出し、小島は製作費をもらい、松井は印税をもらいたいと情に訴える作戦をひねり出した。そして、これがベストだと了解しあった。
松井が大山総裁に報告に行くという日、私は「俺も一緒に行きましょうか?」と言った。しかし松井は「大丈夫です。僕がひとりで直談判してきます」とキリリと答えた。私は総本部隣の公園のベンチで松井の帰りを待った。1時間近く経った。私は内心穏やかではなかった。万が一、大山総裁が首を縦に振らなかったらどうしようか? こんな事で松井が極真を辞めるなんて事態にはなって欲しくなかった。
1時間半が過ぎた頃、やっと松井が会館から出てきた。松井は私がいるのを知りながらブスッとした顔を崩さなかった。私は胸が張り裂けそうになった。松井は黙って私の隣に腰を降ろすと、一言だけ「OK!」と言いながら私のシャツを掴んだ。「ほんま?」私は何故か関西弁で答えたのを覚えている。そして2人は熱い握手を交した。
1991年晩秋、松井の自叙伝「我が燃焼の瞬間」が発売になった。池田書店としては異例の速さで重版がかかった。松井は相変わらず「この本は納得してない」と言いながらも嬉しそうだった。
私と松井は、この本を通して深い友情で結ばれた。松井は私に言った。
「小島さん、これからも一緒に大きくなっていきましょうね。小島さんが大きくなったら僕を引き上げて下さい。その代わり僕が大きくなったら必ず小島さんを引き上げますから」
松井の本が出てから数ヵ月後、松井は浅草に自分の道場を出した。私は精一杯の花束を贈った。そして私の夢現舎も、あの汚いボロアパートから、狭いながらも新築のオフィスに移った。松井は私が贈ったものよりも立派な花束を贈ってくれた…。
(つづく)

samurai_mugen at 01:46|Permalinkclip!連載・松井章圭との日々 

2006年11月06日

2006年日本拳法 国際選抜個人選手権/速報&講評

2006日本拳法国際選抜個人選手権大会

11月5日、2006日本拳法国際選抜個人選手権大会が慶応義塾大学日吉校舎記念館で開催された。この大会は主催する日本拳法連盟に加盟している東日本地区の大学や自衛隊所属、各道場の選手を中心にフランスやイタリアなど、海外の選手も含めた合計64名が参加する、日本拳法の大会としては最大規模のトーナメントである。
また、当大会とあわせて東日本大学新人戦と東日本高等学校個人選手権も開催された。
午前10時、開会式を終えた選手たちはそれぞれ思い思いに試合前の準備をしていた。ひとりで技の確認をするもの、先生の叱咤激励で気合いを入れるもの、仲間と話しながらリラックスするもの…。形は違えど、みな試合に向けて気持ちを高めている。その表情は、会場の外でにぎやかに学園祭を楽しんでいる同じ年代の学生たちとあまりにも対照的で、武道・格闘技の世界の厳しさを如実に感じさせられた。

そもそも日本拳法は柔道の実力者だった澤山勝氏が糸東流空手やボクシングなどの技術を取り入れて創作した総合格闘技である。澤山氏から関東での普及を任命された森良之介氏が東京を本拠地に更に技術研究を加えて現在の日本拳法を完成させた。
小島一志&塚本佳子による「大山倍達正伝」でも詳細が書かれているように、1950年半ば、森氏と大山総裁は日本拳法空手道の山田辰男氏とともに研鑽に励んだと言われている。特に組手試合の方法について3人は自ら拳を交えながら連日研究した。その結果、山田氏の日本拳法空手道はキックボクシング方式に、大山総裁の極真空手は現在のルールに、そして森氏の日本拳法は防具方式というように、それぞれの道を歩む事になる。その意味では日本拳法と極真空手は「兄弟」的な関係にある。
現在、日本拳法では防具(面と胴、股当て)とボクシングに似たグローブを着用し、突き、蹴りといった打撃技だけでなく、投げや関節技(上半身に限る)などの組技を認めたルールを採用している。いわば最も長い歴史を有する総合格闘技といっていいだろう。
ちなみに頭部を保護する面は剣道の面を参考に作られており、その為頭部は後頭部までしっかり覆われており、面金は頭頂部まで延びていた。胴は、胴当てを含めた2段重ねで中にスポンジ状の緩衝材が貼ってある。
試合ルールはポイント制の3本勝負(2本先取した方が勝ち)で行なわれ、防具装着部(面と胴)へ効果的な技を的中させた場合に1本が認められる。その他、1本と認められる場合を以下に挙げておく。
①連打で相手を圧倒した場合。
②組んだ状態で相手の体を制し、空突き、空蹴り(寸止め)を決めた場合。
③逆技(関節技)を決め、審判が認めるか、「相手が参った」の表示をした場合。
④相手の体を自分の肩の高さ以上に持ち上げた場合。
⑤相手が故意に場外に逃げ出した場合。

「そんきょ」の姿勢から試合が開始される点も日本拳法の特徴だ。ここから日本拳法が剣道の影響も受けて体系立てられた事が理解できる。

午前10時30分、試合が始まると選手たちは防具を身につけているとは思えないほどスピーディーに、力強い攻防を繰り返した。日本拳法の試合様相は、打撃から素早く組技に持ち込み、相手を制してから突きや蹴りを決めるパターンが多い。そのた
め、構えた状態からの打撃は組む為の突破口としている選手が多かった。
上級者相手に安易に突きを出しながら懐に入ろうとすると、逆にカウンターの突きをとられるケースが多かった。
しかし、トーナメントが進み選手同士の実力が拮抗するにつれ、構えた状態で牽制し合うシーンが次第に多く見られるようになった。また、突きに比べて蹴りを多用する選手が少ないのも日本拳法の特徴だ。蹴りといえば、せいぜい胴への前蹴り程度である。これは、防具の為に上段を狙う蹴りが放ち難いという事が原因だと思える。結果的に蹴りは中段が中心となり敵に読まれ易くなる。その上、顔面殴打がある為、回し蹴り的な曲線的な技が出難くなる。結局、中段前蹴りが殆どになる(日本拳法では下段蹴りが認められていない)。
蹴り技の単調さが日本拳法の短所と言ってもいいだろう。その分、ストレート系の突きは鋭くスピーディーな点が長所である。ポイント制であり、相手を倒すことよりもあくまでポイントを取る事を重視している為、打撃は1発のスピードを重要視するようになったと考えられる。また前述のように、打撃技は突破口に過ぎず、組技からの攻撃を重視する戦法の為、組技の技術に長けた選手に有利である点は否定できない。
最後に、日本拳法の試合を観戦して最も印象に残ったことがひとつ。それは試合前の挨拶の際、選手が正面に向かって礼をすると、正面に座っている十数名の役員たちが全員立ち上がり、一緒に礼をしていた事だ。試合の度にこれは繰り返された。「礼に始まり礼で終わる」武道の神髄を目の当たりにした気がして非常に清々しい気分にさせられた。

参加選手
●国際選抜個人選手権(個人戦・2分3本勝負)/64名
●東日本大学新人戦(5人制団体戦・3分3本勝負)/14校
●東日本高等学校個人選手権(個人戦・3分3本勝負)/20名

試合の結果
●国際選抜(個人)
優勝 高野浩平(中央大学)
2位 境俊輔(陸自練馬)
3位 秋葉洋一(陸自練馬)
3位 矢野純一(報国拳友会)

●大学新人戦(団体)
優勝 明治大学
3位 中央大学
3位 国士舘大学
4位 早稲田大学

●高等学校(個人)
優勝 古川亮太(慶応義塾高)
2位 小笠原巧(国士舘高)
3位 石原大資(修徳高)
3位 清水将(修徳高)

レポート協力/夢現舎・松田努

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