単発コラム

2007年10月18日

雑話/「力なき正義は無能なり」〜原点・幼稚園時代

「力なき正義は無能なり」〜原点・幼稚園時代
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幼稚園時代のことを少し書いておきたいと思う。
話は1960年代の中頃に遡る。いま流行りの「昭和時代」ど真ん中である。
僕が物心が着いた頃…いま僕が思い出すことが出来るもっとも遠い時代、それは僕が幼稚園に入園した4、5歳の頃である。そんな1964年前後の話だ。
うっすらとした記憶のなかで、それでも鮮明に頭のなかで踊っているメロディーがある。それは〈梓みちよ〉の「こんにちは赤ちゃん」と〈舟木一夫〉の「高校三年生」だ。いつもどこかでこれらの歌が流れていたような気がする。たとえば近所のお肉屋さんへお使いにいったとき、隣の電気屋さんでテレビを見ていたとき(当時は各家庭にテレビがない時代だった。テレビとえば電気屋さんか「義兄弟」の梁川の家にいかなくてはならなかった)。必ずといっていいほど「こんちには赤ちゃん」と「高校三年生」が僕の耳に飛び込んできた。
ただ、僕はといえば幼かったからという理由もあるかもしれないが、これらの歌をちっともいいとは感じなかった。それよりも、父親がいつも家のステレオで聴いていた村田英雄の歌の方がずっと好きだった。
ちなみに家のステレオだが、ビクターの4足スタイルの当時としては超高級品だった。博徒で道楽者の父親は、普段はしみったれのクセに、自分が好きなものには銭を惜しまなかった。
父親はいまでも当時のことを言う。酒を飲む度、鬼の首でも取ったかのように繰り返す。
「夜、布団に入って俺が村田英雄の『白虎』を歌ってやると、一志はいつも涙を流して聴いていたもんだ…」
父親の前では「そんなこと覚えていない」と憮然としながら応えているが、正直言うと父親の話はウソではなかった。たしかに僕は村田英雄の大ファンだった。村田英雄の歌のなかでも、特に「白虎」は好きだったし、その哀愁を帯びたメロディーと愛国的な歌詞はいまでもはっきりと思い出すことが出来る。
何故、父親が歌う「白虎」を聴くと涙が流れてしまったのか? いまもって理解できないが、やはり「白虎」が持つ物悲しい雰囲気が恐かったのか、それともそのムードに感動したのか、もしくはそのどちらでもあったと思う。


さて、僕が通っていた幼稚園は「観音寺幼稚園」といって、名前どおり大きな石造りの観音様が庭に建っているお寺だった。本質的に人見知りが激しく内気な僕は、毎日毎日幼稚園に通うのが嫌で仕方なかった。いつも途中まで母親に連れていってもらった。幼稚園が近づくに連れて僕は母親の手を強く握り締めた。
「子供なのにあんなに力があるなんて私はびっくりしたよ。それほど幼稚園が嫌なんじゃ、かわいそうに思ったしね」
僕が大人になってからも母親はよく言ったものだ。しかし現金なもので、幼稚園に着いてしまえば僕は一転して人格が変わった。急に元気になって剽軽な子供に変身するのだ。ひとりっ子だった僕は(弟が生まれるのは僕が中2になったときだ)みんなと遊ぶのがこの上なく楽しかった。
幼稚園の思い出といえば、何といっても「竹登り」である。当時、幼稚園の裏庭には大きな竹林があって、そのツルツルした竹を誰が最も高く登れるかを競うのである。誰もが自分専用の竹を持っていて、それを「これが俺のシンショウだかんな」と宣言するのだ。そうすれば、その竹は宣言した者以外は登れなくなるという暗黙の了解があった。つまり、「自分のもの」という意味で「俺のシンショウ」といったわけで、「シンショウ」が「身上」の意味だというのは大人になってからわかったが、何故、幼稚園児が「身上」などという古い言葉を使っていたのかはいまだに不明である。
ところで、僕は中学に入る頃まで体育や運動が大得意だった。特にかけっこでは負けたことがないし、運動会のリレーではいつもスターだった。クラス対抗戦に出れば「○人抜きをした」といってはクラスメートに英雄扱いされたし、町内対抗戦に出場すれば翌日から近所の話題の的だった。
それは小学生の半ば、手の着けられない「ワル」に変貌し、教護施設や教育委員会をいったりきたりするようになってからも変わらなかった。いつもはクラスや近所の鼻つまみ者だった僕でも、運動会や市民体育大会になると、一転して大スター扱いをされた。
しかし…。
僕の場合、人一倍感受性が強かったのか、それとも当時から相当なひねくれ者だったのか、スター扱いされればされるほど僕は不機嫌だった。何故なら、称賛の言葉のなかには、明らかに僕の心を錐のように刺すムカつくものも少なくなかったからだ。
「カズシちゃんは小さいのによくやった」
「背が低くくても凄いよね」
なんていう言葉である。子供心にも、僕は「小さいから特別扱いされているのか…」「こいつら、デカいヤツらと競い合ったら勝てないと思っているのか?」といつも不満だった。
考えてみれば、その頃から自分が小さいということに対するコンプレックスを抱き始めていたのかもしれない。だから、僕は「小さいのに偉いね」などという周囲の言葉に対しては徹底的に反抗した。といっても子供の反抗はタカが知れていた。どんなに誉められても絶対に無視して返事をしないというのが僕の唯一の反抗手段だった。
大人たちは僕を可愛げがないと思っていたかもしれない。誉められてもブスッとしている僕に対し、あからさまに不快な表情を浮かべた大人もたくさんいた。僕はそんな大人の狡さというかあざとさが大嫌いだった。
やはり、僕はすでに幼稚園児の頃からひねくれた嫌なヤツだったのだ。
話を竹登りに戻す。運動神経がよかったのと、体重が軽かった(僕は中学に入るまでずっとクラスで1番か2番程度に小さくて痩せ細った子供だった)という理由で、僕は竹登りが大の得意だった。いつも誰よりも高く登れた。だから僕の「身上」はいちばん太くて高い竹だった。


幼稚園時代といえば、次に紹介する思い出も、否、これこそが生涯忘れることができない痛烈なものだった。
ひょっとしたら、現在の僕があるのもこの「事件」がきっかけかもしれない。まさに「小島一志」の原点がここにあるといっても過言ではない。それほど 僕にとって大きな出来事だった。
それは粘土工作の時間のときに起きた。
僕は一生懸命、粘土でヘリコプターを作っていた。僕の隣で作業をしているフサオちゃんは粘土工作が得意で、やはりヘリコプターを作っていた。僕は小さなライバル心をフサオちゃんに抱き、フサオちゃんより上手に作ってやると心に誓っていたのだ。そしてやっと完成間近というとき、工作に飽きてそこら辺を遊び回っていた3人の園児(年長)がワイワイはしゃぎながら僕の方に走ってきて、アッという間に僕のヘリコプターを踏みつけていった。
原型をとどめずぺちゃんこになった粘土には彼らの靴下の痕がくっきり残っていた。僕はじっと何も言わず粘土を見つめ続けていた。悔しくて腹が立ったけど何故か涙は出なかった。だからといって、その3人組に文句を言ったり、ましてや殴ったりすることもできなかった。
相手は3人だし、以前から「ワル坊主」で有名なガキ大将だった。ましてや僕は、いつも大人たちに「小さいのに偉いね」などといわれていたチビだ。幼稚園児にしてチビであることに大きなコンプレックスを抱いていた拗ねガキである。喧嘩しても勝てないのは明白だった。それ以前に不満を口に出すことさえできなかった。
そんな僕を3人のワル坊主たちは「や〜い、チビ! 悔しかったらかかっておいで」「この○○が! おまえなんか死んじまえ」と罵った。しかし僕は、ただ唇を噛み締めて、じっと耐えることしか出来なかった。
耐えられないほどの「怒り」と「屈辱」という感情を、僕はこのとき初めて知ったのである。そして思った。
「何故、正義が悪の前で勝てないのか?」
子供だから、それは漠然とした不条理感でしかなかったかもしれない。しかし、それだけを僕は何年も何年も自分自身に問い続けてきた。そして、ずっと腑甲斐ない自分に対する自己嫌悪に悩まされ続けてきた。
それは、いくら学校で荒れようが、カミソリを振り回そうが、器楽室の楽器をみんなブチ壊そうが、クラス中の窓ガラスを割ろうが(尾崎豊の歌に、そんな歌詞があるが、僕はすでに小学生で窓ガラス割りを実践していた)、そして真面目になって柔道を真剣に学ぼうが…その自己嫌悪と屈辱感から逃れることは出来なかった。


僕は、もうほとんど諦めていた。
「それが世の中の不条理というものさ…」
高校生になると、そんなニヒリズムに酔うようになった。ところが、あの幼稚園時代の「事件」から約15年後、僕は明確な回答を得ることになるのだ。
極真会館総本部の道場で、大山(倍達)総裁が口にした言葉には全ての答えがあった。
「力なき正義は無能なり…。力のともなわない正義なんて何の役にも立たないよ。逆に正義のない力はただの暴力だ。本物の武士はねえ、毎日毎日剣の技量を磨き続け、常に刃を研ぎ澄まし、それを粗末で貧しい鞘のなかに隠しておくものだよ。そして本当に自分にとって大切なものを守らなくちゃならないときにだけ刀を抜けばいい。しかし、いったん刀を抜いたならば、一撃で敵を討たなければならない。一刀両断で敵を殺すんだよ。それが真の武士の心意気というものだ」


(了)

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2007年10月15日

新極真会世界選手権に思う〜「大山倍達の遺言」の糧として《改訂版》

新極真会世界選手権に思う〜
「大山倍達の遺言」の糧として
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「会場が満員になったとか、そこには無料入場券がバラ撒かれたとか、日本選手の技術・戦法がどうだとか…。そういう事は別にして、私はこの大会を見てハッとさせられた気がするんです。日本選手も外国人選手も、みんな精一杯に頑張っていた。極真空手が好きで一生懸命に稽古に励んで純粋に戦っていた。そんな選手たちに対する真摯な気持ちを私はこの数年、忘れていたような気がするんです。私たちジャーナリストは、どうしても物事を組織論的な視点で見てしまう。原則論を起点にして、組織の問題を中心に考えてしまう。それが本来のジャーナリストの在り方であるのは正しいにしても、そんな組織論とは別な部分で純粋に空手に汗を流している人たちがいる。彼らに対する真心や敬意を失ってはいけない。極真空手を支えているのは、大会で実際に戦う選手たちであり、彼らの後ろにはたくさんの純真な道場生たちがいる。彼らの心を無視して、ただ組織論だけでこの極真会館の分裂劇を捉えてはいけないと、どの団体も、その問題や課題はあるけれど、そのなかで一生懸命に頑張る選手や道場生には極真会館の分裂劇の罪はないんです。みな綺麗な汗を流しているんだという事を、心に刻みながら、私たちは物を書いて批評したり問題提議をしていかなければならないんだと、新極真会の世界大会は教えてくれたような気がするんです」

これは昨日の新極真会主催の世界選手権を観覧した塚本佳子の言葉である。
私も彼女の言葉によって近年忘れていた「大切な何か」を思い出された。そうなのだ。極真会館であれ極真館であれ、新極真会であれ、そこで汗を流して稽古に励む選手や道場生に対する「視点」を失ったならば、それは例え組織論として「正義」であったとしても、そこからは自然と醜い「傲慢さ」が滲み出てくる。それを以て本当の「正義」は存在せず、正しいジャーナリズムではない。
政治ジャーナリストが、仮に中東紛争やイラク戦争を論じるにしても、関係諸国に生きる国民や民衆の「平和」を最重視する意識が基本でなくてはならない。当事国のなかで実際に生活を営んでいる国民・民衆に対する「視点」なくして、「正義」を論じる原理主義的主張は極めて無責任であり、浅薄なものに過ぎない。
それと同様である。


「大山倍達の遺言」の企画は、これまで当事者でさえ知らなかった、または知ろうとしなかった、更には隠してきた組織分裂の過程に伴う「事実」をより客観的に探り当て、この14年間、「闇」に包まれていた「真実」を明らかにしたい、そして大山倍達が遺した「極真空手」の精神はいかなる形で受け継がれているのか? それを検証したいという気持ちから出発したものである。決して「暴露本」などを書くつもりもない。また特定の団体を擁護したり批判するのが目的ではない。
それ故に、私たちは「極真空手」を名乗る、また系統を引くあらゆる団体、道場関係者に取材をして、より客観的かつジャーナリスティックなルポルタージュを目指してきた。殆どの関係者は積極的また消極的にかかわらず取材に協力してくれた。


唯一、新極真会だけが徹底した取材拒否を貫いてきた。
それも一時は夢現舎との間の「好意的な関係改善」を了承しながら、突然何ら明確な理由もなく、一方的な取材拒否通告が紙切れ一枚の郵便で夢現舎に送られてきた。
繰り返すが、私も塚本も過去の新極真会(支部長協議会派)との確執を、自ら反省するところは反省し、彼ら新極真会側の立場を尊重する意志を明確にしていた。実際、事務局長の小井氏には小島自身が謝罪をしているし、今後は一切、論拠のない誹謗中傷じみた批判はしないと約束していた。小井氏は快く小島の誠意に対し、有り余る誠意で以て受け入れてくれた。しかし…。
思いもかけない取材拒否通告に対して、個人的には極めて遺憾であり、怒りの感情を抱いた事は否定しない。なによりも納得できなかったのは、何故一度は快く受け入れてくれた取材協力を一転して破棄したのか? そして、最も重要な事は、あの1995年の「分裂劇」について、新極真会(支部長協議会派)側にも当然存在するはずの彼らの「正義」や「主張」を聞けないという点にあった。
過去、私は支部長協議会派が行った松井章圭館長の解任劇を「クーデター」という言葉で表した。今回の「大山倍達の遺言」をめぐる多くの「極真空手」関係者への取材、特にのちに支部長協議会派を離脱した関係者たちの証言や資料の考察からも、「クーデター」という表現が間違いではなかったという結論に達しつつある。
だが、仮にそれが「クーデター」であったにせよ、イコール「悪」とは限らない。支部長協議会派に組した関係者には確実にそれぞれ、または統一見解として、彼らなりの「正義」が確実にあったに違いないのだ。その彼らの主張を私たちは反映する事ができない。
しかし、それは彼ら新極真会側にとっても決してプラスではないのではないか? 何故、彼らは自らの「正義」を語る事を拒否するのか? 私たちは当惑した。
今となれば、新極真会が取材拒否により一切の主張を封印した「背景」も分かってきた。新極真会の誰がキーパーソンであり、いかなる理由により口を閉ざしたのかも明らかになってきた。そこに新極真会内部の醜い権力闘争が進行しつつある事も判明してきた。
だからこそ、私はブログ上でも組織としての新極真会の問題を、または組織を混乱させている「元凶」に対して、ときには痛烈に批判し続けてきた。それが間違っていたとは思わない。


それでも、私は大切な事を見失ってきたようだ。
例え新極真会の内部にいかなる醜い権力闘争があろうとも、それとは別次元で、日々の稽古に汗を流す1万人以上の道場生がいるのだ。大会を目標に、決死の特訓に精進する選手たちがいるのである。
彼らに一体、何の罪があろう。確かに新極真会の組織は揺れている。だが、新極真会に誇りを持って汗を流す道場生を愚弄してはならない。それは何も新極真会に限らない。極真会館も極真館も連合会も同様だ。
極真会館や新極真会の規模に比べたら弱小でしかない清武会の大会で、渾身の気迫で戦う選手たちも、「極真空手を愛する」という想いにおいては何ら大きな団体に劣らない。
彼ら選手や道場生の想いを顧みる事なく、単なる組織論だけで一個の団体の問題点を糾弾していいのだろうか?
しかし、それがジャーナリズムというものだと割り切るのは簡単だ。むしろ、組織・団体がその内に有する問題や課題から目を背け、選手たちの健闘のみを讃える姿勢は、その世界での共存共栄を第1とする低俗な「業界人」の在り方に過ぎないともいえる。私たちは今更「業界人」に成り下がるつもりはない。
それにしても、我々はつくづく因果な商売をしているものだと思った…。私は塚本とともに、漠然とした罪悪感に悩んだ。だが、それでも私たちは物書きであるし、それを生業にして日々の糧を得ているのだ。勿論、ジャーナリストとしての義務感や正義感も誇りも溢れるほど持っている。
だからこそ、私たちは改めて自己確認をした。
私たちは「大山倍達の遺言」によって、1994年の大山倍達の死後に始まった極真会館の分裂騒動を克明に描いていく。だが、分裂の結果、生まれたいかなる組織・団体であれ、そこで汗を流す人々に対する敬意と尊重だけは忘れまいと。


一方で、全く逆な言い方になるが、私たちはこうも考える。
以下は、組織・団体に関係なく、そこで稽古し試合を目標にする人たちに共通する言葉である。
「組織の問題や分裂なんて関係ないし興味もない。ただ、自分たちはここで頑張るだけだ」
「あっちの団体は正統ではない。自分たちだけが極真空手なのだから…」
これらの姿勢も正しくはないのではないか?
選手や道場生だけでなく、少年部に自分の子供を通わせている保護者も例外ではない。この10年越しにいまだ収まる事のない「極真会館分裂劇」には、明確に客観的な「正邪」が存在する事もまた事実なのである。如何に醜く、裏切りや打算による「選手や道場生不在」の権力闘争が繰り広げられてきた事か…。
主観や感情ではなく、明らかに「そこに存在するべきではない組織」もあると言わざるを得ない。現在、「極真空手」を謳う団体・組織は10を下らない。ならば、道場生も選手も、少年部の保護者も、この「極真会館分裂劇」に対して無関心でいていいはずはないだろう。
前言と矛盾するようだが、やはりその団体・組織で「極真空手」を学ぶ人たちにも意識改革が必要なのではないだろうか。
ただ残念ながら、たとえその意識が彼らにあっても、過去の分裂の経緯を知るよすがも、また各団体・組織が内包する問題や課題をしる術もないという現実がある事は否めない。選手や道場生たちにとって唯一の「情報」は、その組織・団体のフロントや支部長たちによる限られた言葉でしかない。結果的に、団体ごとに洗脳めいた独善的な「正義もどき」が道場の空気を支配する事になる。
それ故に、分裂による混乱のなか、人間関係による不信感や軋轢によって「極真空手」を離れざるを得なかった多くの選手や道場生が存在した。彼らはみな分裂の犠牲者であり、だからこそ「極真会館分裂劇」は醜い権力闘争に過ぎないのである。にもかかわらず殆どの選手や道場生は分裂劇の「真相」を知る事が不可能だった。
そのためのにも「大山倍達の遺言」が多大なる意義を持つ事を私たちは自負している。あらゆる団体・組織に所属する、または現在「極真空手」を離れた人たちに、改めて「極真会館分裂劇」について考えてもらいたい。
「大山倍達の遺言」が、そのための規範または指針となり得る事を目指し、私も塚本も努めて私心なく、よりジャーナリスティックな視点で極真会館の10年を超える分裂劇の「真実」を描いていく決意である。
何よりも「極真空手」を愛し、一生懸命に汗を流す人々への敬意を忘れずに…。


心から言う。
昨日の新極真会主催世界選手権大会。2日間の過酷な強行軍にもかかわらず、見事に戦い抜いた日本選手たち、更に海外の選手たちに、お疲れさまでした。
あなたたちの尊く純粋な「汗」への畏敬の念を心に刻ませていただきます。


(了)

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2007年10月03日

雑話《改訂版》/ついに昼夜完全逆転! もう私はKO負けです…(07/10/3)

さっき起きた。否、起床した。
いま何時なのか? 時間の感覚が完全になくなった。時間的な浮遊感…これほど居心地悪く、神経を狂わせるものはない。焦りの極致といってもいい。
昨日からさっきまでの私の1日の「生活」を振り返ってみる。


昨夜は、深夜12時半、ベッドに腹這いになって仕事開始。
「我が父 芦原英幸」
今日から新しい章に入る。芦原英典のインタビューを読み直し、内容について追加取材と確認を求めるメールを送る。そしてMacに向かい、原稿を書き始める。とにかく夢中で書く。今日は何としても20枚は書かなくてはならない。普通の仕事ならば30枚は何でもない。場合によれば50枚書くこともある。
だが、「我が父 芦原英幸」だけは特別だ。そんなこんなで私は四苦八苦なのだ。
しかし、焦りながらも、何故か私は原稿を書くこと自体に辛さを感じない。苦労はする。表現に悩む。何度も文章を削除しては書き直す。
だが、どこかに書くことを楽しんでいる自分がいるのも事実である。やはり対象が「芦原英幸」だからかもしれない。
一段落すると、自分の部屋にこもってバージニアスリムの1ミリタールを口に加える。1本、2本、3本…つい3本まで連続に吸ってしまう。


ちなみに私は元々タバコを吸わない。仕事が多忙になってきた10年くらい前から、何かトラブルやアクシデントがあるとタバコをくわえるようになった。次第に量が増えた。出社して会議やミーティングになると、多いときで1箱も吸ってしまう。
非常に困っている。何よりも塚本はタバコの匂いさえ嫌がる。息子も同様だ。タバコを吸うとき、私はいつも居心地が悪い。
私は以前から、「武道家はタバコを吸わない」と学んできた。
だが、あるとき私はこの上ない疑問に直面した。それは大道塾に通っていた大昔の頃だった。大道塾では宴会といえば狂ったように酒を飲んだ。代表の東孝が大のウワバミときているから始末が悪い。
大きな丼に、ときには洗面器にビールを瓶から数本注ぎ、そこにサントリーオールド(ウィスキー)をぶちまける。まだまだ…。さらに日本酒だ焼酎だとドボドボ入れてかき混ぜる。「これが本当のチャンポンだっちゃ!」
なんて仙台弁で東は言うと、全員に強制的に回し飲みをさせるのだ。
健康にいいハズないだろうが!
第1、私は浪人生時代、バカ酒を飲んで鮮血を吐き、急性アルコール中毒で九死に一生を得た経験があるのだ。それ以来、体質が変わった私は酒が飲めなくなった。だから大道塾の宴会は、私にとって苦痛以外の何物でもなかった。もう20年以上も前のことだ。東も少しはまともになっただろうか?
三瓶啓二も酒癖が悪いことで知られている。だが私が知る限り、私は三瓶に酒を強制されたことはない。徹夜で話し込んだりするとき、むしろ三瓶は酒を飲むのを止め、ウーロン茶を口にしながら議論した。その点では三瓶はとても紳士だった。
しかし、いまでも男の世界では、「酒を飲めてなんぼ」という風習が根付いている。東孝は「酒が飲めない人間とは腹を割って話せない」とよく言った。この言葉は何も東の専売特許ではない。田舎にいけばいくほど、そんなことを口にする人は山ほどいる。
私は絶対に肯んじない。酒もほどほどならばいいだろう。「百薬の長」と呼ばれるくらいだ。しかし、バカ飲みできることのいったいどこが偉いのだ? 体を壊すだけじゃないか? 繰り返すが、私は急性アルコール中毒で死にぞこなった人間だ。だから、私は息子には何があっても絶対に酒を飲ませない。
話が変な方向にいった。少し軌道修正をする。
私が言いたいのは、たかが1ミリタールのタバコを日に10本吸う方が、酒を一升飲むよりずっとマシじゃないかということだ。…これも、ただのこじつけ、言い訳に過ぎないことはよく理解している。私は「体に合わない、体調を崩す」などと言いながら、1日10本のタバコを止められない根性なしである。情けない男なのだ。
ちなみに、何故か私が親しくしている空手関係者には「下戸」が多い。黒澤浩樹は一切、酒を飲まない。寿司を食べるときでさえ、オレンジジュースだ。勿論、私も付き合ってオレンジジュースを飲む(本当はウーロン茶の方がいいのだが…)。松井章圭も好んでは酒を口にしない。一緒に食事するときは常にウーロン茶を頼む。「大山倍達正伝」の協力者・友人の宮田玲欧も、家高康彦も酒を飲まない。家高に無理に飲ませると凶暴な酒乱に変貌する。夢現舎のスタッフも、飯田、「博士」など下戸揃いだ。
勿論、塚本は1滴も酒を受け付けない。私は酒豪とか大酒飲みの女性が大嫌いである。その点、塚本は100点満点だ。
最近は飲むようになったが、郷田勇三も元々は下戸である。唯一の例外は盧山初雄くらいだろう。盧山は「酒神」とさえ呼ばれているようだ。陽気な酒だから私は彼と酒席をともにするのが嫌ではない。
話がほんまにズレた。
閑話休題。


約2時間、原稿に集中すると、また自分の部屋でタバコを2-3本吸う。ついでにコミュニケーションBOXを覗く。
そうこうしていると窓の外がうっすらと青くなってくる。さすがに10月ともなれば夜が長い。ほんの1-2か月前までは、4時近くなると空が明るくなってきたものだ。
私はこうして1年中、夜明けを見ながら過ごしているのだ。実に孤独な毎日である。逆に、塚本は日の高い間しか仕事をしない。この点だけ、私と塚本は相容れない。
とにかく、いまは空が青ざめてくると、遠くで始発電車が動き始めるのが分かる。多分、午前5時頃だろう。


また、ちなみに…。私は夜の11時以降は時計を見ない。
朝か夜か知らないが起床するまでは決して時計を見ないことに決めている。だから私の家には壁時計が一切ない。携帯電話も(最近の携帯はお節介にも常にディスプレイの脇にデジタル時計が付いている)、時計の部分には小さくテープを貼って見えないようにしている。つまり夜11時頃に、別な「時計表示設定」を解除し、起床と同時に設定をオンにするのだ。
私が愛用するノート型のMacのディスプレイからも時計表示をオフにしている。
いつ頃からだろう? もう5、6年前になるかもしれない。時計を見る(時間を知る)のを拒むようになったのは…。
本を執筆するようになり、日常的に仕事に追われていた私は、いつしか時間ばかりを気にする習慣がついていた。フッと気がつくと、いつも時計を見ている私がいた。
春休み(夢現舎には春休みがある)、ハワイにいったとき、「せめて休暇のときくらいは時間に縛られるのをよそう!」と思って腕時計を外した。そして時間を無視するように努めた。
それが何と心地いいのか!
時間から解放される自由を私はこのとき初めて知った。それ以来、仕事のある平日でも、夜は決して時計を見ない(時間を知ろうとしない)ようになった。いまは病的なほど、「時計恐怖症」になってしまった。
実家に帰省して最初にやることが、家中の時計を後ろ向きにし、壁時計を止めることだ。


こうして窓の外が明るくなってくると、私の仕事も大詰めに入る。原稿を一段落させなくてはならない。また、原稿を終えてから推敲に入る。この推敲がやたらと時間を食う。
特に「我が父 芦原英幸」は芦原英典による「語り下ろし」という文体を取っている。語り下ろし、つまり話しているように書けばいいのだから、まさに「話した通り」に書けばいいと思う読者もいるだろう。
それは甘い。それでは単なる「テープ起こし」に過ぎない。話し言葉には極めて省略が多い。主語が抜けていたり、指示語がなかったり。それを完全な文章にして、さらにその言葉の「背景」を補完しなければならない。それが多過ぎると、文章がクドくなる。また、語尾が単調になってもいけない。
さらに、英典は広島弁+大阪弁を多用する。しかし芦原英幸は、ほぼ完全な広島弁を標準語に混ぜていた。それを如何にうまく再現するか…。
そうこうすると、外は完璧に明るくなっている。だいたい7時近いだろう。この時点で、もうブログのコラムを書くのは諦めた。クールダウンで文章を書く余裕もない。
早く仕事の区切りをつけなくては!
しかし私の場合、外見に似合わず意外に神経質だ。というより完璧主義者である。物事を中途半端にして止めることができない悲しい性分なのだ。
焦る! どうしようもなく焦る!
そして、やっと終わった…と思えば多分、午前8時は確実に過ぎている。慌ててエル(飼い犬)の散歩に出かける。破れて穴が開いたTシャツと短パンひとつ。鍵とともに、護身と御守り用の「芦原英幸の手裏剣」をポケットに忍ばせる。約30分、近くをウロウロ歩き回る。
朝の空気は綺麗だ! そんな気分は微塵もない。早く帰りたい。家に戻ってエルに朝食を食べさせて(猫のクーは息子の担当だ)寝なければならない。
シャワーを浴び、歯を磨き、頭に円形脱毛症の薬を塗っていると息子が起き出してきた。今日は2時限から授業があるという。息子は勝手に支度をすると、「帰りに米倉ジムで練習してくる。6時の部に出るから帰りは9時頃かな」なんて無愛想に言い捨てて、クーにご飯をやって家を出ていく。
もう10時は軽〜く過ぎたハズ。
私は焦ってベッドに入る。主治医に処方してもらった睡眠導入剤とアスピリンを飲んで、iPodのイヤホンを耳に差し込み、吉田拓郎を聴きながら目を閉じる。だが、何故か眠れない。睡眠導入剤など、もう何年も飲み続けているから効くハズもない。単にプラシーボ効果を期待して飲むだけだ。
「眠れない」のではなく「眠くない」のだ。拓郎の歌が耳障りになってきた。たまには気分を変えようと、今度は岡村孝子を聴きながら目をつむる。イライライラ…。逆に目が冴えて眠れない。
諦めて、ベッドを離れると、また自分の部屋に籠もってタバコをくわえてしまう。つくづく自分は根性がない。会社はもう始まっている。スタッフはどうしているのだろう? 今日はまだトラブルはないか? 考え出すと止まらない。携帯で、再びコミュニケーションBOXをチェックする。だが、いくらなんでもコメント書く気が起きない。
主治医から念を押されている言葉を思い出した。
「睡眠導入剤をいくら飲んでも、タバコを吸ってしまったら効かないからね」
マズい! それにしても腹が減った。このままでは眠れない。冷蔵庫から魚肉ソーセージと三角チーズを取り出してむしゃぶりつく。
もう1度、睡眠導入剤を飲む。そして再びベッドに潜り込む。もう11時は過ぎた。
塚本は…。
悪い予感を感じた。今日は版元の担当編集長から電話がきそうだ! 私の直感は当たる。ヤバい! 理由は何か? 単なる締切の催促か…。私は塚本に「もし●●さんから電話がきたら、俺の代わりに出てやんわりと対応してくれ」と頼む。塚本が対応してくれれば安心だ。
そして少しだけホッとして再び目を閉じる。寝る姿勢が決まらない。ダメだ! 今日はiPodを聴く気分になれんわ! イヤホンの代わりに耳栓をつけて、やっと眠りにつく。


何度かトイレに起きたが記憶がない。泥のように寝る。今度はひたすら寝る。
ハッと目が覚めた。息子が私の膝をさすっている。
「オヤジ、起きろよ!」
「えっ? 今何時だ?」
「もう9時だよ。何だよ、ずっと寝てたのかよ。トレーニングはどうしたんだ? 空手の自主トレはやったのか? 今日はトレーニングの日じゃなかったのか?」


こうして、私はやらなければならないトレーニングも怠り、会社に連絡もせず、夜の9時まで寝ていたのだ。
そう、いまは午後9時である。
塚本は…。
とにかく会社に電話しよう。秘書の飯田の声が無性に聞きたくなった。それにしても腹が減った。遠くで天ぷらの匂いがする。


PS.
一刻も早く、生活のリズムを戻さなくてはならない。そうしないと他の会社の仕事もトレーニングも、何もかもできなくなってしまうではないか!
再び焦っている自分がいる…。



敬称略
(了)

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2007年09月30日

改訂新版/もう10月! トラブル続出で原稿、全然進まんけん…(07/10/1)

※冥府魔道に迷う外道ですけん7111ba0c.jpg



●「我が父 芦原英幸」は間に合わん…。


ひょえ〜!
どないしよ? あっと思ったらもう10月やないかい!
原稿、進んどるつもりやったが、計算したらまだ半分以下やないか。「我が父 芦原英幸」…。10月が締め切りなんや。今、300枚近く書いとるけん、「まあまあのペースやな」なんて思うちょったら、予定では700枚! 無理にに削ったとしても600枚は必要なんよ。ムムム…、いや最低でも550枚は書かんと!
いやいや問題は原稿の枚数やない。内容や、大切なんは内容ですけん。一応、構成的には半分は終わった。あと半分や…。けど、これからがクライマックスなんよ。今までのようにタラタラ書けん。読者がいちばん楽しみにしちょる芦原英幸の最も凄いとこに入っていかんといけん。これからが真剣勝負や!
絶対に間に合わん。もう無理やんけ!
けど、無理が通るかなあ…。版元の担当編集長、一見優しいけん実は怖〜い人なんよ。筋金入りの編集者じゃけん。なんてったって天下の新潮社じゃけえ。ここからなんよ、芦原英幸の天才振りを描いていくのは! 並大抵の空手家じゃないけん。ぶっ飛ぶようなエピソードの連続攻撃や。ちゃんと「名作」書かんとなあ、天国の芦原先生に面目立たんけえ。生涯の恩人に報いんといけんのや。それに2代目として頑張っちょる英典館長の苦労を水の泡にもできん。
やるっきゃないんよ。やるっきゃない!


●会社のトラブルとの戦い…ワシは弁慶かっての!


けどな〜、最近いろんなトラブル多くてな。会社の問題じゃけえ、次から次へと四方八方からトラブルが矢のように飛んでくるんやけえ。平泉の戦いで何百もの矢を受けて仁王立ちになっちょる弁慶の心境や。
でも…あと少しなんや。あと少し踏ん張って会社のスタッフも頑張ってくれよれば、そんで神様が微笑んで、否、同情してくれよれば…というか、小島と塚本、スタッフの頑張りを認めてくれよれば、乗り越えられるんよ。
あと少し! あと少しの踏ん張りなんよ。
そういや昨日、ヤバいというか、ちょっと嬉しいニュースが入ってきた。1年前まで付き合ってきたU出版っちゅう出版社が倒産したんやと。
この2年間、夢現舎は酷い目に遭ってきたんよ。
2年前、商いでは当時最大のクライアントやったH出版が突然、倒産しよった。なんちゅっても、ウチはH出版から3冊も雑誌出してたけん。銭回収できんかったら何千万の損失や。ウチの若いの連れて、また場合によっては世話になっちょる回収専門の「業者」に頼んでダンプで乗り付けて、いち早くH出版の備品やなんもかんも全部力づくで取ってこようかと考えたんや。
けど、顧問弁護士に相談したら「そんなことしても二束三文にしかならん!」と説教されよった。ウチの顧問弁護士も相当な顔じゃけん。早稲田OBの弁護士会の「親分」(自称)じゃけん、トラブルはお手のもの。修羅場を潜ってきた親分じゃけえ。ワシは泣く泣く諦めた。せめての払いせに、債権者説明会の会場で、社長の首根っこをヒッ捕まえて数発の膝蹴りと頭突きをウチの秘書兼ボディガードが入れる「妄想」を抱いたくらいで我慢したんじゃ。
けど夢現舎から委託していた外注さんへの支払いを「勘弁」で済ます訳にはいかん。だってH出版と「契約」しとったのは夢現舎やからな。外注さんは夢現舎と契約しとった訳で、筋としてはH出版の倒産なんてなんも関係ないことや。けど、支払いは苦しいんじゃ。
でもさすがは塚本や。夢現舎の全財産、全資産を支配しとる塚本が「筋は曲げられないから支払う」という。ワシは塚本には文句を言えんから…カカア天下っちゅうもんや…黙って応じた。
じゃけん、筋は通したもんの夢現舎の欠損金は大穴やんけ。それで、ウチは芦原英幸の言葉を守ってやることが「風林火山」ですけん。即、営業を開始した。もう特攻精神や! そしたら今度はAという版元と新雑誌の創刊の合意に至ることができた。
あとは契約して、否、出版界の習慣じゃけん、契約前にこっちは制作に乗り出した。順調に進んでいた昨年夏、突然、「向こうから制作費を下げてくれ」ときた。それも担当スタッフにはまるで恫喝の口振りやったという。「まだ契約してないから、嫌というなら話はなかったことにする! とにかく100万円下げろ」やと。
こうなったら塚本やない。小島が出るしかないやろが。社長を出せと電話した。恫喝には恫喝や! しかし百戦錬磨の向こうの社長は動じない。
「金払うのはこっちだべ。文句あるならこっちゃこい!」
「銭の話はそっちからしたんじゃけん、くるのはそっちやろが」
「いかねえ、いけるはずねえべ。空手家揃いのところにゃ怖くていけるけえ。こっちで話し合うべさ。しっかりアンタラ用の人間も準備しておくからよ」
まるでヤクザじゃけん。「アンタラ用の人間の準備?」何の準備や?
こんときはワシの弟(代表補佐)が若い担当を連れて2人で乗り込んでいった。弟も空手とラグビーで鍛えた根性もんや。剣道3段の担当はしっかりと木刀を仕込んでいきよった。まさかのために、ある世話になってる「先生」には話をつけておいた。
結局、「血気盛んな工員たちを相手に木刀振り回すことなく」、相手側の常務に「土下座させることもなく」、極めて「紳士的は話し合い」によって「約束は履行する」という印鑑と血判入りの念書を書かせてきたけん。しかし当の社長は威勢がいいだけで遁走!
埒が開かず、まずは顧問弁護士に相談して裁判になった…と思ったら、なんとまたAが倒産ときよった! 裁判は途中で宙に浮いた。けど、弁護士の力でなんとか時間はかかったけん外注分の支払いの20%は回収できた。
なんて運が悪いのや!
夢現舎はなんかに祟られとるんか? 三平ケージの生き霊が災いしとんのか?
小島は塚本と相談した。
「なんかヤバくないか? また何かありそうな予感がする」
顧問会計士に相談した。「ヤバいといえばヤバそうなところも2、3あるが、先は読めない」という。けど、私と塚本の不安は消えんかった。小島の直感が約80%の確率で当たることはみんな知っとることや。塚本の直感も超鋭い。第1、ワシは塚本には絶対ウソをつけん。簡単に見破られるからや。その小島と塚本が特に、ヤバいと感じたのがU出版やった。
昨年秋まではU出版も夢現舎にとっては大口のクライアントやった。そこではいい雑誌を作っとるという誇りもあった。せやけど、小島と塚本がヤバい! と思った。じゃけん、ワシらは断腸の思いでU出版との取引を切った。
それで、益々夢現舎の財務は悪化した。結局、昨年度の決算は前代未聞の赤字と売上減に陥った…。少し悔やんだ。U出版と付き合っていれば赤字はギリギリ免れたはずじゃけん。
けど、ワシらの直感は当たった。
あのままUと仕事をしとったら、夢現舎はどうなっていたか分からん。せっかく、あと少しやっちゅうのに! あとは9月に創刊した2冊の雑誌の成功を祈るだけや。もうトラブルは御免や。
頼むから、原稿執筆に集中させてくれんさいや。 続きを読む

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2007年09月12日

雑話/「沖縄発…」(07/9/11)〜《改訂画像追加版》

沖縄発

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先週の土曜日か日曜日に沖縄にやってきた。
仕事、仕事、仕事、仕事に追いまくられ、その上会社ではトラブル続きの毎日。原稿の催促もそろそろ版元から始まった。そんな中、私も大志もスーツケースには2台のPCを詰め込み、仕事の必需品だけで軽く1/3の荷物を占めるという状態で、飛行機が怖いなどと感じてる暇もなく沖縄に着いてしまった。

もっとも、私が初めて沖縄の地を踏んだのはかれこれ20年以上も前になる。年に2回、私は「沖縄空手」の取材で走り回った。海にもいかない。宿泊は古いビジネスホテルだからプールにも入れない。ひたすら毎日、空手の道場を訪ね歩いた。沖縄において「空手」は格闘技というより「伝統文化」としての意味合いが強い。私は「沖縄空手」が好きになった。
最近でこそ、本土から逆輸入の形で、やれ「寸止め」だ「極真」だと新参空手が盛んになってきたが、20年前、那覇市内を100m歩けば必ずといっていいほど空手道場があった。犬も歩けば空手道場に当たる…まさに、こんな感じだった。
私はその時期、徹底して「沖縄空手」を学び研究した。勿論、編集者としてである。沖縄最古の空手流派(本来は流派とはいわないのだが)、上地流を初めて公に紹介したのは私である。那覇手独特の鍛錬法を「月刊空手道」で扱ったのも私だ。
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あれから約10年後、夢現舎の経営がやっと落ち着いた頃、今度は「仕事抜き」で再び沖縄にくるようになった。宿泊するホテルも少しずつ高級になっていった。滞在日数は3泊から、いまでは10-15泊となった。
「沖縄空手」のことは考えない。仕事で知り合った空手関係者とも会わない。徹底して仕事と切り離して沖縄を楽しむことに決めた。
最初のうちは離島にいったり、沖縄本島の中北部に足を伸ばしたり…。座間味だ、渡嘉敷だ、粟国だ、思い切って石垣島だ、宮古島だ、久米島だ! 毎回、お祭り騒ぎ。観光客丸出しの日々を送った。
だが、最近5-6年、私たちの沖縄行きは「旅行」から「滞在」に変化した。ここに塚本がいないのが寂しいが、いつか3人で沖縄「滞在」を楽しむ日もくるだろう。
沖縄「滞在」はきわめて日常的である。非日常的な旅行とは、その点が異なる。生活がパターン化している。それはこの数年間殆ど変わらない。
羽田発の飛行機は午後3時前後。ANAのプレミアムスーパーシートに決めている。飛行機嫌いの私は、あの狭苦しいエコノミーに座れば確実に発狂するに違いない。贅沢ではない。我が身を守るために私はスーパーシートを選ぶのだ。この数年は最前列から2番目の席が定席となっている。
ホテルは前半は宜野湾のラグナガーデンホテルANAと決めている。宜野湾は那覇に下るにも、いま流行りの北谷や美浜にいくのにも便利である。また、このホテルの屋外プールは東洋No1の広さを誇っている。部屋も綺麗で広い。大浴場もある。レストランは和洋中と揃い、ルームサービスもリーズナブルだ。
なんといっても私たちは常連客なので、何かと融通も利く。私たちにとってはどこよりも安心できるホテルである。
後半は那覇市内の高台にあるナハテラスが最近の定宿だ。ここは那覇では最高級を誇る。いままでもこのホテルで何人もの芸能人と遇った。プールは狭いが水質は最高である。プールの向こう側まで軽く見える。この素晴らしい透明度が、このホテルのグレードの象徴といってもいいだろう。専属のバトラーがついて、至れり尽くせりのサービスだ。黙っていても氷の入った水やコーヒーを出してくれる。
うるさい幼児を連れた家族連れは殆どいない。何よりも「大人」のためのホテルなのだ。このナハテラスこそ、塚本と2人だけで過ごすためのホテルだと内心決めている。大志には少々勿体ない。
レストランは最高級のイタリアンと和食。以前は食べるのに何故か緊張感でガチガチになってしまったものである。最近でこそ、短パンに「極真会」「極真館」のロゴ入りTシャツをまとって平気で入り、何度もおかわりを頼むようになった。
ひとつ勉強を!
玄関から入ってチェックインやチェックアウト用のフロントがあるホテルは、たとえ高級とはいわれても「超」高級ではない。「超」高級のホテルにはフロントがないのだ。
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2007年08月30日

小島一志作品集/「息子に捧げる」(2001年1月・夢現舎HP)&Photo-Gallery

「息子に捧げる」


息子・大志の私立中学受験が迫っている。
この数年間、連日勉強漬けの生活を送ってきた。塾の日は毎日帰宅が午後11時を軽く回った。完全徹夜で練習問題に挑んだことは数知れない。成績が振るわず私に激しく叱咤されたこともある。怠けていて顔がスイカのようになるまで殴られたこともあった。
試験を控え、ひとり黙々と机に向かう大志の横顔を見ながら、私は何年か前のことを思い出していた--。


当時、大志の生活は極真空手を中心に動いていた。
幼稚園入園式の日に大志は極真会館に入門した。それからというもの、週4回の道場稽古(城西に移籍してから)。それ以外の日は私との練習に明け暮れた。ミットを何百本も蹴った。体中にプロテクターを付けてスパーリングを繰り返した。
大志はメキメキ上達した。城西支部主催の交流試合で3連覇を果たしたあと、師範の江口芳治は大志に全日本選手権の出場を促した。
こうして迎えた全日本少年選手権。私は試合場に登る大志の姿を見ながら、やるせないほどの無力感を覚えずにはいられなかった。今の私に出来ることといえば、ひとりで試合場に上がる大志をただ見守ることしかないのだ……。


ところで、私と大志の関係は傍目からも相当濃密に見えるようだ。そこに「過保護」に近い親子関係を見る人も少なくないようだった。だが、私は一度も序列的な親子関係としてふたりの結びつきを捉えたことはない。私の家族は大志しかいない。私にとって大志は常に「同志」だった。大志は「こども」ではなく、一個の「人間」であった。
先日、ある小説のなかにこんな一節があるのを発見した。
「自分を心から大切に思い、信頼し、頼ってくれる人をこそ、男は生命を懸けて守り愛しぬくのだ……」
これを読んだとき、私は千日の眠りから目覚めたような衝撃を受けた。とっさに塚本佳子を思い浮かべ、同時に大志の顔が浮かんだ。この言葉は何も男女のことだけでなく、どんな関係にも当てはまるのだと思った。


あの日の全日本少年選手権。
結局、大志は決勝戦で敗れた。試合後、彼は私にいった。
「僕は、本当にこれ以上出来ないってくらい精一杯やったよ。自分の力を全部出し切ったっていう実感がある。優勝は出来なかったけど、本気でやりぬいたっていう気持ちになれたから、俺は満足だ」
そして、少し照れたように続けた。
「ひとりで戦っているなんて思わなかった。どんな試合も僕はパパと一緒に戦ったんだ。だから精一杯自分の力を出せたんだと思う」
私は、あの練習漬けの日々が決して無駄ではなかったことを実感した。そして改めて、私は生命を懸けて大志を守らなければならないと思った。


ちなみに翌年に開催された日本少年選手権。
大志は前回のチャンピオンと準々決勝で当たった。大志の前蹴りが見事に決まり、相手はダウンしたまま試合場で泣き崩れた。相手選手の親は必死に「金的」反則をアピールした。
その執拗さに、審判団も圧され、「安全第一の少年大会だから」という理由で金的か否かを明確にしないまま、大志は反則負けを宣告され、相手は救急車で病院に運ばれた。数十分後、私は病院に同行した松井館長の秘書Mから携帯に電話をもらった。Mは嬉しそうに言った。
「小島さん、反則じゃない。金的じゃない。おへその真下に痣ができていました。明らかに一本勝ちです。医者の診断書ももらいますから、大志は勝ちです!」
嬉しかった。
だがすでに判定は下っていた。でも、次の試合は始まっていなかった。私はMの報告を審判に説明したが、当時の少年大会のルールでは「ノックダウン制」にもかかわらず、相手選手にきわめて深刻な怪我やダメージを与えた場合は「強打」としていずれにしても反則になってしまうそうだった。私たちは諦めた。
私は大志に「試合で負けても勝負で勝った。それも相手をノックアウトして借りを返した。それでいいじゃんか」と言った。大志も黙って頷いた。だがやはり悔しそうな表情は消えなかった。


受験を目前にして、私は大志にいった。
「勝っても奢るな。負けても卑屈になるな」
塚本佳子が自らのドキュメント作品のなかで書いていた。
「トーナメントにはたったひとりの勝者しかいない。たとえ2位であれ3位であれ、彼らはすべて敗者なのだ。ならば、私は思う。そのたったひとりの勝者は、例外なく敗者たちのなかからしか生まれないのだと。最初から勝者であり続けられる人間など皆無なのだ」
たかが空手、たかが受験。
そんなちっぽけな世界の勝ち負けなんて人生のなかでは些細な意味しかもたない。
大切なことは、それに向けてどれだけの血と涙と汗を流したか……、そしてそこから何を学び得たのかでしかないのだ。その場だけで終わってしまう勝利より、次に続く敗北の方がずっと意義がある。


──私は大志にいった言葉は、いつも自分自身にいい聞かせているものである。
ここ数年、私は息子・大志との付き合いを通して、闘うことの意味や、人を愛すことの素晴らしさを学んだような気がする。ある意味、息子の大志は私にとって「人生」の師でもあるのだ。


(2001年1月 夢現舎HP)



《Photo Gallery》
●小学1年(撮影/塚本佳子)
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●大学1年(2007年6月)
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●松井章圭館長から頂いたベンチコートを着て!(2007年8月)
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●番外
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2007年08月26日

雑話/愛犬「エル」は甲斐犬の13歳!(07/8/26)〜完全版

●愛犬「エル」は13歳

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うちにはエルという犬がいる。
甲斐犬といって天然記念物に指定されている貴重な犬種だ。自慢するわけじゃないが、犬に詳しい人ならばご存知の通り、甲斐犬は実に頭がよく忠実で、しかし気性の荒さも並ではないことで知られている。
伝説によれば、武田信玄が「スパイ犬」「忍者犬」に使ったと言われる。太平洋戦争前、ABCD包囲陣によって国際的に孤立した日本には軍用犬であるシェパードやドーベルマンが入ってこなくなった。そこで日本陸軍は甲斐犬を軍用犬として育てた。すると、なんとシェパードよりずっと優秀で驚いたという逸話もある。
ただ甲斐犬の弱点は繁殖力が弱いところだった。そのため、戦後は再びシェパードが警察犬として採用されることになった。
甲斐犬は日本犬のなかでは比較的小型である。柴犬よりは大きいが、「中型犬」の部類でも小さい方だ。全身が黒い。しかし成長するに従って、黒のなかに虎のような白もしくは茶色の模様が浮き出てくる。一見、雑種のようだが、よく見ると格好いい。

私が犬を飼おうと思ったのは、いまのマンションに引っ越してからである。うちは6階建ての最上階にあり、四方に広いルーフバルコニーがある。非常階段を登れば屋上だ。お隣さんもないし、迷惑をかけることもない。だから番犬にしたいと思ったのだ。

私の実家では、私が生まれて以来、現在まで犬と猫を切らしたことがない。父親が大の犬好きだったこともあり、私は犬や猫に囲まれて育った。
私が中学から高校時代、実家にはメルという秋田犬がいた。真っ白な体でかなりデカい犬だった。ただ父親が犬に甘いため、実家の犬は伝統的に躾がなされていなかった。だから、よく吠えるしバカな犬ばかりだった。そのなかで、秋田犬のメルだけは特別利口だった。やはり犬も雑種より血統書つきの方が頭がいいのかと感心したものだ。
ところで、飼い犬は人間に順列をつけるという。実家の場合、当然ボスは父親である。次が私で、その次が母親。幼い弟は勿論ビリである。だが、躾ができない父親に代わって私はメルを厳しく教育した。ときにはレンガで殴ったりもした。勿論、父親のいないところでだ。父親は自分が博徒のくせに、犬だけは「猫可愛がり」した。私がメルを叩くものならば、私が父に日本刀で追われるハメになる。だから、ひょっとするとメルにとって本当のボスは父親ではなく私だったかもしれない。実際、メルは父親の命令には従わなかったが、私には従順だった。
私は受験勉強に疲れると必ずのようにメルを連れて自転車で散歩にいった。ある日、私は農道を自転車で走っていた。向こうから明らかにチンピラがバイクをくねらせながらゆっくりと近づいてきた。こんな狭い道を! ケンカかイチャモンでもつける気配がありありだった。
私は諦めた。いちいち利根川や梁川の名前を出していても仕方がない。するとチンピラは本当に私の前でバイクを止め、私に「銭を貸せ」と凄んできた。私が知らない顔だった。
私が何よりも注意したのは、相手が刃物を持っているかどうかだった。もし刃物を持っていたら為す術がない。
当時の私は柔道部に所属していたから組み付かれる分には何とかなる。殴られても殺されはしない。だが刃物を出されたらヤバイ…。ところが運の悪いことに、相手は懐からナイフを取り出した。最悪の事態である。
私は身の回りを確認した。だが農道のど真ん中だ。盾になるものなど自転車くらいしかない。私は覚悟をした。その瞬間である。それまでジッとしていたメルがチンピラに飛びかかった。そしてガブガブと相手を咬み続けるではないか! 相手は全身血だらけになり動けなくなった。
私が「メル! もう止め!」と言っても暫く咬み続けていた。メルが攻撃を止めると、直ぐに私は相手のナイフを奪った。そして、警察に電話するか、梁川の「兄」に連絡するか悩んだ末、面倒にならない方ということで、私はわざわざ公衆電話のあるところまでいって梁川に電話した。
そのチンピラが、その後どうなったかは知らない。ただ、私は初めてメルが頼もしくなった。同時に「番犬」は役に立つと思った。
ちなみに、メルには「咬み癖」があった。父親の躾がなっていないせいで、その後、何人もの私の友人がお尻を咬まれた。

私は最初、ブルテリアを飼いたいと思っていた。ブルテリアはブルドックとテリアの混合で、体は小さいが番犬に最適と聞いていた。それに、ヌボーっとした風貌が可愛いと思ったのだ。だが、なかなか理想的なブルテリアはいなかった。
そうこうしているうちに、ペットショップで、どこかのオジサン数人が「何といっても犬は日本犬だよ。なかでも甲斐犬はいちばん!」と話しているのを聞いた。私は思わず、オジサンたちに甲斐犬について質問した。すると、甲斐犬を扱っているというペットショップを紹介してくれた。
数日後、私はそのベットショップを訪ねた。だが、いまは売れる犬がいないという。それでも主人は言った。
「甲斐犬を飼ったらもう他の犬は飼えないよ。忠実さはNo1さ。ケンカは強いし番犬には最適だよ。ただ気性が物凄く荒いから、飼い馴らすのは大変だ」
私はすっかりブルテリアを忘れ、甲斐犬が欲しいと思うようになった。しかし、なかなか手に入らないという。しかも甲斐犬は繁殖力が弱いので純血種は少なく、つまらぬペットショップだと混合種を掴まされるとも聞いた。
そんなときである。縁とは不思議なものだ。
夢現舎の塚本佳子の実家に甲斐犬がいるというのだ。驚いた私は塚本に聞いた。すると、中野の甲斐犬愛護協会に頼めば買うことができるという。ただ、そのためには紹介者がいないとダメらしいのだ。私は迷わず塚本のお父さんに、紹介者になってもらえないかと頼み込んだ。

1994年秋。
こうして我が家にやってきたのがエルである。
ちなみに、愛護協会では紹介者の犬と血統の近い犬を売るという。つまりエルは塚本の家の甲斐犬と兄弟か血統的に近いということになる。
「エル」という名前は勿論、実家の秋田犬・メルからもらった。しかしエルには本名がある。天然記念物に指定され、血統を重んじる甲斐犬愛護協会では、きわめて厳密な血統書を作成している。エルは血統書の上では「勝龍」となっている。つまり、「カツリュー」というのがエルの正式な名前である。
愛護協会の方は直径約1センチで30センチくらいの長さの竹棒を持ちながら言った。
「この犬は絶対に甘やかしてはいけません。このような棒で鼻っ柱を叩いて躾るんですよ。鼻が傷だらけになっても大丈夫です。そうしないと、とんでもない荒犬になってしまう」

生まれて3か月のエルはやたら鼻だけが長い、惚けたような顔をしていた。
しかし犬の成長は早い。半年もするとデカくなり、生意気になってくる。オシッコを漏らしたり、呼んでも来なかったり、止まれと言っても止まらなかったり…、私は徹底的にエルを叩いた。竹の棒など使わない。蹴り飛ばしたり鼻っ柱に正拳を入れたり、ときには頭を掴んで床にゴリゴリ押し付けたり…。ただ急所だけは蹴らなかった。犬の急所はお腹だ。そして背中。愛護協会の方が言ったように主に鼻っ柱、たまに顔面を叩いた。
自転車でエルの散歩にいく。約4キロの行程を殆どエルが私を引っ張って走った。私は滅多にベダルを漕ぐことはなかった。とにかく体に似合わずバワフルな犬だった。最初の数年はバルコニーに置いた犬小屋で育てた。
2歳の頃、エルは大病を患った。病名は覚えていない。ただ、定期検診を受けにいった動物病院で移った「院内感染」だったらしい。高熱が出て、一時は死線を彷徨った。しかし奇跡的にエルは回復した。
それから犬小屋を室内のリビングに移した。ただ、首輪にロープだけはつけていた。勝手に部屋のなかを歩き回られてイタズラされたらかなわないと思ったからだ。
しかし、そのうちロープの取り外しが面倒になった。いつしかエルは「室内犬」になってしまった。性格も私が望む以上におとなしくなってしまった。まるでチワワのような「愛玩犬」である。でも、躾の成果か、決して無駄吠えはしなくなった。ご飯も「よし!」と言うまで何分でも何十分でも我慢する。「あっちにいけ!」と指差せば必ず、そっちの方に歩く。挙げ句に、散歩の途中で「ここでウンコをしろ!」と命じれば、クンクン辺りの匂いを嗅ぎながらウンコをする。
ただ、その代わり他の犬に出会ったり不審な人間に遭遇すると甲斐犬の本性があらわになる。他の犬には直ぐにケンカを仕掛ける。そのくせ、女性が大好きだ。若い女性に「あら、可愛い」なんて言われると、尻尾を車のワイパーのように振って喜ぶ。しかし老婆が寄ってきても知らんぷりを決め込む。
ちなみに「尻尾を車のワイパーのように〜」という表現は、息子が小学校のとき、エルについて書いた作文の一節だ。

エルは今年で13歳になる。
人間でいえばかなりの老齢だ。だが、あまり肉体的衰えは見えない。ただ無性に我が儘になってきた。いつも私が息子の近くにいないと我慢ができない。だから私が出社し、息子が学校にいくときは落ち着かない。
最も辛いのは私たちが沖縄やハワイにいくときだ。馴染みの動物病院に預けていくのだが、いつまでも悲しそうに鳴き続ける。私は息子に「エルには年に2回の人間ドックならぬドッグドックだ」と言って罪悪感から逃れる。実際、その間、エルは体の隅々まで診断を受ける。
だが、エルを病院に預けるときの悲しさというか罪悪感はいつになっても拭えない。
昨年は我慢できずに沖縄でペットと一緒可という高級ホテルを見つけて沖縄にまで連れて行った。だが、空港でエルを預けるとき、エルは狂ったように鳴き続けた。特に帰りの飛行機では大騒ぎで大変だった。私は、飛行機に乗せるならば、まだ馴染みの病院で美人な看護婦さんに可愛がられたのがいいだろうと思った。

今年もまた沖縄旅行が近づいている。飛行機の怖さよりもエルを病院に預けることの方がずっとヘビーだ。


(了)

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2007年08月25日

雑話/カミングアウト宣言、「私は円形脱毛症である!」(07/8/25)

突然だが、私はハゲではない。
齢40+@にして、しかし私はハゲではない。フサフサとまでは言わないが、前頭部にも頭頂部にも愛しい毛髪が靡いている。私の家系にはハゲが多いが、何故か私はハゲではない。学生時代から、私は「きっと40前にはハゲちゃうんだろうな…」と諦めにも似た思いを抱いていた。
ところで、私は別にハゲたから悪いとか、みっともないとか、そんな偏見はないつもりだ。とは言いながら、学生時代の友人に会ったりすると、もうハゲているヤツが半数近い。なかには学生時代、所謂「イケメン」という(当時はそんな言葉はなかったが)、非常に女性にモテまくっていたヤツが、今や完全にハゲてしまい、昔の面影さえ失ったヤツもいる。
そんなとき、正直「ああ、ハゲなくてよかった」と痛感する。こんなことを書くと、私の友人・知人にはハゲがきわめて多いので、気分を悪くされてしまうかもしれない。だから先に謝っておく。
ハゲに偏見のあるようなこと書いてごめんなさい…。
悪友の家高はハゲていない。ハゲるどころか若い頃以上に髪がフサフサしている。顔はヤツれ、老いは隠せないくせに髪だけフサフサというのもいかがなものか?
しかし、たまに家高と話すことがある。ともにバツイチ同士、肝胆相照らすものがあるのかもしれない。家高はしみじみと言った。
「しかしよう、小島。俺たちはハゲなくてよかったなあ。ハゲたらもうお仕舞いだぜ。俺たちに何の取り柄があると思うよ。ハゲていてもなんか含蓄がありそうだったりさ、それなりの風格があるヤツもいるかもしれねえけど、俺たちがハゲたら何にも残んねえぞ。もう結婚もできねえよ。おまえ、ハゲてたらどうやって塚本さんにプロポーズするよ。相手にされねえぞ。ただでさえ内心塚本さんに嫌われているのに、どうするよ? 100%無理だぞ。今後の生活設計もみんな無駄だわな。おまえも夢現舎も終わりだぞ。俺も思うよ。ハゲたらもう再婚諦めるよ。もう男を捨てるよ」
なんか、家高の塚本に関する物言いに引っ掛かるものを感じたが、家高も昔は塚本のファンだっただけに、私は何にも言わなかった。
繰り返す。
ハゲの人、ごめんなさい。
しかしである…。
私はここで恥を晒さなければならない。
私は…実はハゲではないが、円形脱毛症なのである。それはそれは酷い円形脱毛症の患者なのです。
私にとって円形脱毛症なんて全く縁のないものだった。そういえば、福昌堂にいた頃、同期のIが円形脱毛症だといって悩んでいた。しかし私は「そんなもん、髪の毛で隠せるじゃんか。ハゲてるところを黒のマジックペンで塗っておけば大丈夫!」なんて、とんでもなく無責任なことをいっていた。
私の母親も以前、円形脱毛症で悩んでいたことがある。
「ひとつできたかなと思ったら、アッという間に6個もできちゃったのよ。お父さんはカッコ悪いっていうから帽子被ったりウィッグ(カツラみたいなもの)つけたりして大変よ」
なんて言っていた。私はフーンと相槌打ちながらもまるで他人事だった。
それが4、5年前のことである。私はベッドで息子と一緒にTVを観ていた。小島家の習慣だが、TVを観るときは必ず枕を敷いて横になる。ときには肘を立てて掌を枕にしながら横向に寝て観る。近視の私は32インチのTVの約1メートル前に寝転んで観る。息子の大志は私の背中辺りに、同じような姿勢で観る。
あるとき、突然息子が言った。
「オヤジよう、後頭部に10円ハゲがあるぞ!」
「何!」私は飛び起きた。
「そんなにデカイのか、そのハゲ?」
私の狼狽に気を使ったのか、息子は急に声のトーンを落として、「いや、髪の毛を降ろせば分かんないよ」と言った。だが、私は落ち着かなくなった。まさか! まさかハゲじゃないか? それとも…あの円形脱毛症か? 意外に自分の体のことには小心者の私である。病院なんて大嫌い! 人間ドックを勧めるヤツも多いが私は嫌だ。そのくせ、少しでも体に異変があると、私は居ても立ってもいられなくなる臆病者なのである。
その夜は、ずっと息子に指摘されたハゲの部分を触ってばかりいた。たしかにツルツルしている。「毛がない!」私は焦った。戸棚の奥に仕舞い込んでいた、誰かにもらった育毛剤をビショビショになるまで振り掛けた。
「やばい!」
まんじりともせず朝を迎えた私は早速、母親に電話をした。母親が症状を訊く。そのことごとくが当たっている。今度は母親が他人事のように言った。
「あああ、そりゃ円形脱毛症だわね。間違いない! 早く病院にいったほうがいいわよ。円形脱毛症はね、いったんかかったら治るのに半年はかかるのよ。早く病院にいきなさい」
私は焦りながらタウンページを開いた。母親が皮膚科がいいというので近所の皮膚科を探した。だが、最も家に近い皮膚科はその日は休みだった。仕方がなく私は1駅隣の駅前の皮膚科にいくことにした。そして直ぐに準備して家を飛び出した。
だが、その皮膚科の医師はハゲのジジイでとてつもなく頼りなかった。まず採血した。「何故、血を取るんですか?」と訊いてもなまくらな返事しかしない。そして「Zライト」みたいなもので明かりを10分間、患部を当てて、「まあ、何かストレスでもあるんでしょう。心当たりはありませんか?」なんて訊く。ストレスなんて、そんなもん無数にあるわ! このアホ! そう言いたかったが、私は我慢して「思いつくことはあるといえばあるし、ないといえばないです」と答えた。
そして帰りに深緑色の塗り薬だけをもらって帰った。そこには「塩化カルプロニウム」と書かれていた。そんな医師じゃダメだと思った私は翌日、近所の皮膚科に出直した。女医で優しいドクターだったが、言うことは昨日のハゲジジイと変わりなかった。
「ストレスが原因とは言われてますが、何をもってストレスとするかは諸説ありますから…。でも、この2、3か月前、何かショックなことでもありましたか?」
私は「あるといえばあるし、ないといえばないですね」と答えた。そして、またZライトみたいのを患部に照射され、今度は3種類の薬をもらって帰ってきた。薬が増えただけで、私はあのハゲジジイのところよりこっちのがいいと思った。ひとつはハゲにもらったのと同じ塩化カルプロニウム、あとは乳白色のベタベタした塗り薬。そして「頭の血行をよくする」という小さな錠剤だ。

円形脱毛症になった私は、生まれて初めて「ストレス」というものについて考えた。
円形脱毛症になる1、2か月前、家でちょっとした不幸があった。否、私にとってはちょっとしたどころではない。実に悲しいことだった。また夢現舎は新事務所に移ってから出費が嵩み、慢性的な不景気だった。仕事はあるのに銭ばかり出て行く。私は塚本とともに2、3日間、深夜まで帳簿を引っ張り出して原因を探った。結局、仕事量を増やすしかないという結論に達した。
また、当時は物書きとして今後の方向性や在り方について煮詰まってもいた。
「このまま空手や格闘技関係のものばかり書いていて、果たしてどうなるのか?」
その他にも数年越しのプライベートのトラブルを抱えてもいた。
何もかもがストレスではないか! だが私は「ストレス」を実感したことはなかった。たしかに不眠症気味ではあった。今もそうだが…。毎日なんやかんやと問題があり、精神安定剤もたまに服用するようになっていた。
アメリカのハードボイルド小説に、「最近のアメリカ人エグゼクティブはメンタルクリニックのドクターを主治医にし、アスピリンの代わりに精神安定剤を飲むのが流行している」と書いてあった。私はさっそく近所のメンタルクリニックにいき、それ以来、そこのドクターを主治医にしていた。だが、そのドクターでも円形脱毛症は皮膚科にいかなくちゃダメだと言った。
数か月後、私の円形脱毛症は回復の兆しを見せた。ツルツルしていた部分からブツブツと毛が生え始めたのだ。「やったー!」ところが喜んだのも束の間、今度は別なところがハゲてきた。円形脱毛症は転移するのだろうか? 私は真剣に悩んだ。何度も女医さんの皮膚科にも通った。
そして3年くらい前、円形脱毛症は完治した。私は心に誓った。
「また円形脱毛症になるのはゴメンだ。毎日カロヤンを絶やさないぞ!」
何故、カロヤンか? あまたある育毛剤のなかでカロヤンだけが塩化カルプロニウムを配合していたからだ。
しばらく平和な時を過ごした。
ところがである。
「大山倍達正伝」の制作に乗り出し、いざ執筆という段になった頃…また始まったではないか!
円形脱毛症がまた襲ってきた!
もう、そんなことに構っていられなくなった。カロヤンだけは欠かさなかったが、私は気にしないことに決めた。気にしない方が早く治ると女医さんもいった。正確にいえば、気にしないというより円形脱毛症に悩むことに疲れたのだ。いつか治るだろう、なんて思いながら私は「大山倍達正伝」の執筆中、殆ど髪の毛を気にしなかった。
そして昨年夏、「大山倍達正伝」は完成した。…だが、なんと円形脱毛症は3か所に増えていた。もう私はうんざりした。私はできればスポーツ刈りにしたいと思い続けてきた。だが、こんな状態ではスポーツ刈りなんて夢の夢だ。もう、このまま脱毛症が広がって本物のハゲになるに違いない。
もう塚本には嫌われる。
男はお仕舞いだ…。
そんな失意の日々を私は1年近く送ってきた。そこに天使ならぬモーゼが現れた。秘密結社・一撃会のSである。Sは格闘家であると同時に、腕のいい皮膚科の医師でもある。私はそれを忘れていた。私が円形脱毛症だということを知ったSは、必ず完治させてあげよう! と太鼓判を押してくれた。私はSを信じることにした。
コミュニケーションBOXを端に発した武闘派結社が「一撃会」だ。普段は一般のコミュニケーションBOXの会員たちに紛れ、一緒に行動している。しかし、イザ!というときに結束するのが一撃会だ。日本全国に散らばる心強い雄志たち…。
だが、一撃会の幹部に円形脱毛症を治してもらうとは思わなかった。やはり持つものは「仲間」である。いまはS先生(私は学校の教師と空手武道の師範以外には絶対「先生」と呼ばない主義だが、Sには「先生」と言ってしまおう)を信じるだけだ。そして、ともにバツイチ同士、幸せな第2の人生に夢を託そうではないか!
S先生、頼んだけん。


(了)

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2007年08月23日

雑話/昔の上司との再会〜20年越しの謝罪(07/8/23)

20年ぶりの再会だった。
先日、「月刊空手道」時代の上司・編集長である東口敏郎氏に会ってきた。東口氏が福昌堂を退社して自らの出版社BABジャパンを設立したのは、1986年秋のことだった。
東口氏の退社によって、部下だった私たち(山田英司や生島裕など)は次世代の「月刊空手道」や「フルコンタクトKARATE」「武術」の新編集長として制作に関わることになった。
この際、ひとつの「誤解」が生まれた。
私は周囲の勧めを断って、創刊したばかりの「フルコンタクトKARATE」ではなく、「月刊空手道」の編集長を希望し、実際その職に収まった(恩人である芦原英幸のアドバイスによるものだった)。
だが、そんな私に福昌堂社長の中村文保は散々と東口氏の悪口を繰り返した。曰わく、
「東口君は小島君を辞めさせないと必ず独裁体制を敷くから会社が危なくなる。そう私に念を押して辞めていった」
「もし『月刊空手道』を小島君に任せたら、極真空手一色にされ、挙げ句に極真会館に乗っ取られてしまうと東口君は心配していた」
「小島君は編集費を横領していたから、小島君にはお金を任せてはいけないと東口君が言っていた」
いま考えれば、東口氏の性格からして、そんなことを言うはずがない。私が福昌堂を離れるときには格闘技・武道団体や格闘技専門出版社に「小島と関係したら福昌堂と縁を切る」といった内容の回状を送付したのが中村文保だ。小心者にしてプライドが高く、そして吝嗇で疑心暗鬼の塊のような人物の言葉を易々と信じた私も愚かだった。あのときの言葉は明らかに東口氏を牽制するのが目的だったに違いない。
ちなみに、そんな中村だから会社は後に倒産し、先祖代々の土地も屋敷もカタに取られ、齢70を超えてアパート暮らしをしながら細々と出版業で返しきれない負債を返しているのだから悲惨なものだ。勿論、私自身も他山の石にしなければならないが…。
いずれにせよ、まだ若くて威勢のよさだけを売り物にしていた私は簡単に中村氏の策略に引っ掛かってしまった。


東口氏が退社して数か月後、たまたま日本武道館で開催された何かの大会で私は東口氏と顔を合わせた。東口氏は以前のように屈託のない笑顔を見せながら私に手を振りながら近づいてきた。だが、中村氏からうまく「洗脳」されていた私はすでに感情的になっていた。
部下を引き連れ、よくは覚えてないが最低でも罵声の1つや2つ浴びせたに違いない。ひょっとしたら襟首を掴んだか膝蹴りでも入れたかもしれない。
それ以降、東口氏と顔を合わせる機会がなかったわけではないが、私の頑なさがずっと東口氏を拒み続けてきた。
しかし…。私は最近思うようになった。
中村氏が私に言った、東口氏の私に対する悪口雑言。果たして本当だったのか? いま頃になって疑問に思うのだから、私も相当愚かである。
数年前、昔の私と東口氏をよく知る人物に会った。お茶を飲みながら当時の話に花が咲いた。そのとき彼は私に言った。
「東口君はね、小島君は福昌堂のスタッフのなかでは最もキレる人間だと随分買っていたよ」
あれ? と思った。
ただ、そのときは仕事の話が主だったため、そのまま東口氏の言葉を忘れていた。


それから約3年が過ぎた。
いま、私と塚本佳子は1994年の大山倍達死去後に勃発した「極真会館分裂騒動」の真実を徹底的に追求したルポルタージュ「大山倍達の遺言」を制作している。
何故、極真会館は分裂しなければならなかったのか?
何故、後継者である松井章圭は圧倒的多数の支部長によって拒絶されなくてはならなかったのか?
大山倍達の通夜から始まる、否、大山総裁の聖路加病院入院から予兆の見えた極真会館分裂騒動を200人を越す証人と資料によって明らかにしていく…。
すでに殆どの取材を終えた私たちは、これらの「声」とデータ、資料をもとに1994年4月26日から今日までの「極真空手界」の推移を綿密に検証してきた。
そこで分かったことは、あまりにも下劣で、バカバカしいほどの「デマ」や「噂」があらゆる原動力だったということである。勿論、「デマ」や「噂」は自然発生的に起きるものではない。必ずその「発信者」が存在する。
それが紛れもない三瓶啓二だった。これについては10人を優に超える証言者がいる。
さらに、「デマ」や「噂」の「発信者」である三瓶に踊らされて「御輿」に乗った者たちも少なくなかった。それが増田章や緑健児など複数の支部長や選手であった。

現在はNet社会とも言われるほど、情報が洪水のように溢れている。例えばNet掲示板。なかには良識的なものもあるだろう。しかし、多くの掲示板で書かれている情報は殆ど何の裏付けも確証もない「感情」に支配された「噂」や「デマ」だけである。
私はNetを見ない。
だが、最近友人の家高康彦に知らされた。
「小島はヤクザ、暴力団員なんだって? というか夢現舎は『企業舎弟』ということになっているぞ。小島は在日ヤクザであり、そんな人間が作家でいるのはおかしいなんて…情けなくなったよ。あまりにバカバカしくて」
一方、やはり私の長い知人である久留米芦原会館の山田雅彦は言った。
「僕は小島さんのファンだけど、情報過疎地に住んでいるからNetの情報も貴重で…。僕の知る小島さんとNetで噂される小島さんの姿のギャップを総合的に判断してから小島という人間を評価したいんです。でも、そんな掲示板なんて小島さんは無視していればいいんです。精神衛生上よくないから」
アホか! 私は山田の言葉が如何に矛盾をはらんでいるか、その矛盾に気づかない山田が情けなくなった。と同時に無性に腹が立った。「こんなヤツが芦原空手の黒帯を締めているのか!」
私は山田に言った。君が直に接して話す小島が本物にきまっとろうが! 根も葉もない「デマ」や「噂」と自分の眼を比較すること自体がおかしいと。
山田雅彦のようなNetオタクは空手・格闘技実践者にも意外に多い。特に自称実践者ではあるが、汗のかき方も知らない名前だけの黒帯に多い。

ちなみに、私ははっきりと断言しておく。
私はヤクザでも右翼でも企業舎弟でもない。故・梶原一騎氏や真樹日左夫氏のように自分を「擬似ヤクザ」として「コワモテ」を演じるつもりもなければ、それを売り物にするつもりもない。
ただ格闘技・空手界はある意味で「切った張った」の世界でもある。出版界にもなかには胡散臭い会社も少なくない。そういう世界で生きていく以上、「舐められる」ことは「潰される」ことを意味する。
だから私は精一杯、突っ張っているだけだ。組織云々の問題ではない。私は次のような芦原英幸の言葉を心に刻んで生きている。
「嫌われてもいいから舐められちゃいけん」
「軽んじられるくらいならば、脅してでもシメてでも怖れられる方がましじゃけん」
だから、それなりの場所に出るときはそれなりの格好で出て行く。これも生前の芦原先生がしてきたことだ。
こういう生き方をとって、私を「ヤクザ」と呼ぶならいっこうに構わない。だが私は暴力団員でも右翼の構成員でもない。堅気で真っ当な商売や生き方をしているという自負がある。
たしかに私の体には朝鮮半島の血が流れているようだ。確証はない。私の母方の4代程度前の時代だ。私の家庭環境は極めて複雑であり、いまとなれば詳細を調べるのが不可能ではないにせよ困難な状況にある。
また、私の父親は正真正銘の博徒だった。そして私は一時期、在日博徒の梁川組に預けられ育てられた。
小学生の頃から不良というより「少年犯罪者」のような悪事を働いてきた。教護施設にも入れられた。しかし、中学2年から足を洗った私は、猛勉強して県立栃木高校に入り、早稲田大学に進んだ。
いまでも、昔世話になった梁川組の兄貴分とは付き合いがある…。食えないときに私に食わさせてくれたのが梁川だ。なんで相手がヤクザだからといって縁が切れよう。それこそ「筋」が通らぬ話ではないか。松井章圭が恩人である許永中氏を慕って何が悪い。人の道は綺麗事ではすまない「筋」と「義理」があるのだ。

これが小島一志というチンケな人間の全てだ。


情報化社会はときには悪にもなる。「情報」とひとことに言ってもそれは玉石混交だ。
私に対する偏見。極真会館の分裂騒動…。何もかもが「デマ」と「噂」による集団パニックの結果に過ぎない。
そういうことにウンサリし、疲れ果てた私はフッと東口敏郎氏のことを思い出した。私も、何の確証もない、多分中村の悪意による東口氏への誹謗を信じ込んだバカな1人かもしれない。
ならば、一刻も早く東口氏に謝罪しなければならない。
こうして私は東口氏に電話を入れ、口頭で謝罪した。あの…日本武道館での非礼な振る舞いと、最近まで抱き続けてきた東口氏に対する偏見についてである。
そして先日、私は塚本佳子を伴って東口氏が経営するBABジャパンを訪れた。
東口氏は喜んでくれた。
そして、いつしか2人は20年前の関係に戻っていた。私は東口氏を「編集長」と呼び、東口氏は私を「小島君」と呼んでくれた。劣等生だった私には話が尽きないほどの恥ずかしいエピソードがある。そんな話を塚本は黙って微笑みながら聞いていた。
思えば生意気盛りの頃だった。東口氏と些細なことでぶつかりもした。だが、私は東口氏から編集のイロハを学び、文章の基本を習ったのだ。また、時代を遡れば福昌堂との関係も東口氏と出会ったことが縁であり、社員になることを拒む私を熱心に誘ってくれたのも彼だった。
いまの私は、東口氏との知己がなかったら確実に存在していないのだ。

この日の東京は記録的な暑さだった。
私も塚本も体調が思わしくなかった。特に塚本は夏バテと「大山倍達の遺言」執筆へのプレッシャーからか、いつもの元気で溌剌した彼女ではなかった。
しかし、私の気持ちは清々しかった。そして、それは体調の悪い塚本にとっても一種の清涼剤だったに違いない。


(了)

samurai_mugen at 05:26|Permalinkclip!

2007年08月17日

極真会館館長・松井章圭との会談 (最新完全版 8/17改定・写真入り)

極真会館館長・松井章圭との会談


※松井館長と。
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8月14日。
私と塚本佳子は極真会館館長・松井章圭氏と会った。
超多忙な毎日を送る松井氏の顔を見るのは久し振りだった。すでにメル友関係だし、たまに電話でも話すが、そのたび「今度食事しましょう」と言いながら延期、延期になっていた。
ちょうど、お盆の時期で休暇中だったからか松井氏の表情は柔らかかった。午後6時過ぎに恵比寿の一撃プラザ9階VIPルームを訪れた。見事な部屋に驚きを隠せなかった。会うや否や、冗談やら雑談が飛び交った。
プライベートのことなので内容は省略する。
塚本のボディガードとして同行させた息子の大志には、なんと松井氏愛用のベンチコートをプレゼントされた。黒の地に、胸には「極真会」のロゴが入り、肩には「一撃」の刺繍が施されていた。そしてインナーには、わざわざマジックペンで松井氏がサインをしてくれた。
大志にとっては一生の宝物だろう。これから極真会館に復帰する者として、感激以上に緊張感と責任感を背負ったような多少困惑の表情を浮かべながらも喜んでいた。

あっという間に10時になった。
「場所を移しましょうか」
という松井氏の提案で、私たちは麻布十番の韓国家庭料理屋に入った。次から次と馴染みのない韓国料理が運ばれてくる。ケジャン、プルコギ、ナムル、パジョン(チヂミ)、チャンジャ、サムゲタン、ユッケ、チェプチ…。更にレバ刺、タコ炒め、キムチ盛合わせ、ドングリ炒め。お酒を嗜まない私たちはウーロン茶で乾杯した。何杯もウーロン茶のお代わりをした。
韓国に友人がおり、韓国事情に詳しい塚本は半分以上の料理を知っていた。そして立教大学で韓国語を専攻する大志、韓国語を学んで3年になる塚本は、松井氏と韓国語で盛り上がる。
最近知ったのだが、私の家系も母方の何世代か前は朝鮮半島から移住してきたようだ。私が何世になるのか分からない。4世か5世なのか…。不確かな話だが、少なくとも私の体にも朝鮮半島の血が流れているのかもしれない。だが、当然私には韓国語はチンプンカンプンだ。
意外に韓国語が苦手な松井氏。まだ4か月しか学んでない大志。やはり塚本が傍目で聞いていてもいちばん上手い。「大山倍達正伝」の制作をきっかけに韓国語を学び始めた塚本だが、今後「力道山と大山倍達」「東声会・町井久之正伝」を書いていくためにも塚本の努力は無駄にはならないだろう。
食べきれない料理は育ち盛りの大志が殆ど平らげた。

話はいつしか15年前に遡る。
1989年、夢現舎は幾つかの放浪生活の後、崩れそうな古いアパートの一室から始まった。
1990年だったか、ちょうど家高康彦が夢現舎を離れた直後、新入りスタッフ第1号として塚本佳子がバイトで入ってきた。当時の塚本はまだ幼い「中学生」のようだった。18歳とはいえ、あどけない田舎のツクシン坊のような「少女」そのものだった。ただ、どうしようもないほど笑顔が可愛い娘だった。
私は松井氏の自伝「我が燃焼の瞬間」の制作に四苦八苦していた。当時、私も松井氏もともに明日をも知れない貧乏暮らしだった。いつも2人揃うとピーピー言っていた
「小島さん、何かいい儲け話はないですかね?」が松井氏の口癖だった。私は必ず「あるんだったら何も苦労はしませんよ」とたしなめては笑った。
いまとなれば本当に懐かしい限りである。

「小島さん、しかしあの最初の事務所は酷かったですね。3畳か5畳くらいの広さで歩くとミシミシしたなあ」
思い出話に花が咲いた。
真夏、クーラーがいかれた狭い室内だった。私と松井氏は、猿股ひとつで逆立ちをした。
「暑いときはですね。いったん頭に血を集めてからサーッと血が全身に引いていくと涼しくなるんですよ」
妙な理屈だなとは思ったが、なにせ世界チャンピオンの言葉である。私も松井氏に従った。だが、途中で疲れた私は直ぐに諦めた。しかし流石は世界チャンピオン。5分程度ずっと各3本指で逆立ちをしていてた。
と、そのときである。松井氏の猿股のわきからポロリ…金的袋がこぼれた。当時、私も松井氏も塚本は「幼い女の子」に過ぎず「女性」ではなかった。だから塚本がいても平気で猥談を言ったりしてはしゃいだ。
暑い真夏でも松井氏はラーメン&ライスを好んだ。体中から汗を浸らせて、ラーメン丼にご飯をぶち込み、かき混ぜて食べる。
「これが韓国流なんですよ!」
真似したら美味かった。気がついたら塚本も真似をしていた。
ある時、これも真夏だった。松井氏は夢現舎にくるなり、「小島さん、吉野家の牛丼が食べたいですね、ねえ〜」と催促した。仕方なく塚本が駅前まで牛丼弁当を買いにいくことになった。塚本が出て行く背中から、松井氏は「塚本さん、僕は大盛お願いしますよ」と声をかけた。
結局、塚本は私の分だけ並盛り、ちゃっかり自分のは大盛を買ってきた。 続きを読む

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