2006年12月

2006年12月30日

新極真会への追及②

新極真会への追及は年を越す事になるだろう。
法的な部分は全て夢現舎の顧問弁護士に依頼している。ちなみにうちの顧問弁護士事務所は極めて実力のある事で知られている。代表のN先生は早稲田の大先輩だが、本来は夢現舎のような若輩会社が頼める相手ではない。しかしN先生は私を「面白い男が面白い仕事をしている」と言って顧問を引き受けて下さった。
今回の新極真会とのトラブルについても、「要は夢現舎と小島君は誇りの為に戦うんだね。だったら徹底的にやろう」と言って、10名もの弁護団を組んでくれた。代理人としてN先生に依頼した以上、法的な事に関してはまだ公開出来ない。ただ2007年1月10日までには何らかの回答が新極真会側から届くはずだ。しかし、「あの」新極真会の事だ。今回も逃げ続けるかもしれない。
ところで、この数日間、私のもとにキナ臭い噂やニュースが幾つも飛び込んできた。今まで松井派極真会館の陰に隠れ、緑健児代表というクリーンなイメージの恩恵でスキャンダルとは縁遠かった新極真会だが、黒澤浩樹率いる黒澤道場とのトラブルや私(夢現舎)との「ケンカ」を機に、大分化けの皮が剥がれてきたようだ。所詮、緑を看板にするだけの薄っぺらな戦略しかない組織である。小さなヒビが崩壊に繋がる可能性は決して低くない。
「何もかも信頼できない。責任を取る人間がどこにもいない。組織としての体を成していないんです」
黒澤浩樹が溜め息をつきながら語った。
それにしても何が真実で何が嘘なのか?憶測の可能性は何パーセントなのか?私には何も断言できない。しかし、少なくとも新極真会という組織が揺れに揺れているのは間違いないようだ。
「鈴木国博が新極真の看板を下ろすと○○ジムで関係者に言った」
「柳渡支部長が新極真を離脱する。三好支部長と小林支部長が説得したが無理だったようだ」
「新極真会の中で三瓶批判が極限に達している。三瓶師範が新極真会を離れるのは避けられない」
「三瓶にうまく操られて馬鹿を見た小井(泰三)と柳渡は退会届けを出した」
「総裁の遺族とのスキャンダルの件で三瓶の奥さんが騒ぎ出し、離婚するそうだ」
これらは私のもとに寄せられた20近いメールの一例である。特に、ここで紹介したものは実名によるメールであり、新極真会の中枢に近い人達の声である。
「来年、新極真会が現在の組織のままで世界大会を開ける事はまずないだろう。最悪、開催できない可能性もある」
これは新極真会の現役支部長の言葉だ。
(財)極真奨学会による大同団結に向けて東奔西走しているA師範は「新極真のある幹部から、極真奨学会に協力する条件で、小島を抑えられないか?」と頼まれたと私に明かした。私も(財)極真奨学会を応援する立場にいるが、「そんな条件、A先生には得かもしれないが、小島にも夢現舎にも何の得もない。新極真会が夢現舎への絶縁状を破棄しない限り、たとえA先生の話でも小島は受けません。塚本(佳子)も同じ意見だと思いますよ」と私は答えた。
(財)極真奨学会への協力を私に一任してくれた黒澤が再び言った。
「小島さん、あのトラブルの時に僕が逃げたと思ったかもしれませんが、そうじゃないんですよ。相手がまともならば僕は逃げも隠れもしないし、どこにでも出て行きます。僕は三瓶啓二とは違いますよ。ただ本当に腐った連中がウヨウヨしている腐った組織と触れる事自体が僕には堪えられなかったんです。こっちが汚れていくようで吐き気がしてくるんです。それが新極真会なんですよ」
そういえば松井章圭と会食した時、彼は一切他団体や他人への暴言も批判も口にしなかった。ただ、一言だけポツリと呆れたように言った。
「早稲田の夜間の人(三瓶)は、まだ陰でやってるんですかね。昔も今も変わらないものですね」
松井派極真会館にとって、もはや新極真会は「敵」としての存在価値すらなくなっているように私には思えた。

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2006年12月26日

日記・地獄の、そして忘れられない3日間(06/12/20-22)

何が何だか分からないうちに2006年も暮れようとしている。
今年上半期は全てが「大山倍達正伝」の一色だった。そして7月末に「正伝」が発売された後は、もうまるで蝉の脱け殻状態…。月日や曜日、時には時間の感覚さえ忘れるような恍惚の日々が続いた。
だが12月20日からの3日間だけはきっと永遠に忘れられない思い出になるだろう。

12月20日。矢沢永吉の日本武道館コンサート最終日。矢沢さんについては語り出したら止まらない。何故に矢沢さんが好きなのか?矢沢さんの音楽とは?そんな事、今の私には本1冊分の文章で埋め尽くすのさえ簡単だ。だから論じない。
10年前。正確に言えば12年前、大山総裁が亡くなる1994年まで、1年の終わりの象徴は極真会館の全日本選手権だった。11月3日前後が恒例だった大会は、1年の締め括りとするには少し早いかもしれない。だが全日本選手権が終わった後の2か月弱は、私にとって付録のようなものだった。
しかし大山総裁が逝き、極真会館の分裂騒動が勃発すると、私はその渦中にいながらも急激に1年間の節目を全日本選手権とする習慣が消えていった。
その代わりに1年間の終わりのシンボルとなったのが矢沢永吉の日本武道館コンサートだった。元々、私にとって矢沢さんは特別な存在だった…止めよう。止まらなくなる。とにかくこの10年間、私は矢沢さんのコンサートに足を運ぶ事で月日の流れを確認してきた。
特に今年は、「正伝」の後遺症か反作用か?暑い夏から冬眠状態にあった私にとって、明らかに月日を実感させてくれたのが20日の日本武道館コンサートだった。昨年、矢沢さんは何年ぶりかで日本武道館コンサートをやらなかった。代わりに「ライブハウスツアー」を敢行した。ライブハウスもいいが、やはりスーパースターには日本武道館が似合っている。
この日は5日間連続の日本武道館最終日だった。1万5千人を飲み込んだ武道館は立ち見まで超満員。午後6の開場から既に、観客は異様な興奮状態にあった。それにしても、この数年で観客の質も随分変わった。1970年代半ばのキャロルの頃からライブを観てきた私には半ば嬉しくもあり寂しさもある。
ガラの悪い不良が極端に減り、一方でまだ20代の女性が増えている…止めよう。語り出したら止まらなくなる。
午後7時きっかりにコンサートは始まった。武道館が大きな渦のように揺れた。58になる矢沢永吉が相変わらずマイクスタンドを蹴っ飛ばし、一切の音程の乱れもなく歌い続けた。
何年ぶりだろう?往年の名曲「ひき潮」を歌ったのは?チェコのナショナルシンフォニー楽団の演奏で歌った「東京」。1万5千人のファンが矢沢さんの歌に合わせて声を張り上げ、そして泣いた。
今年のツアーのキャッチは「New-Standard」。意外に地味で渋い曲が多かった。特に…止めよう。止まらなくなる。
午後9時半、矢沢さんはステージから消えた。まだ泣いてるヤツがいる。あそこにも、こっちにも。悪ぶった昔ヤンキーの男が、まだ高校生くらいの少女が、「永ちゃーん、ありがとう」と言いながら泣いていた。私はグラサンの中に指を突っ込んでサッと涙を拭った。
帰り道。私と息子は殆ど口を利かなかった。タクシーの中でも黙っていた。そうしていさえすれば、まだ私達の心の中の矢沢永吉コンサートは終わらないような気がしたからだ。そしてタクシーを降り、マンションの玄関の鍵を開けた時、私は今年初めて「月日」を実感した。

12月21日。昨夜の疲れが全身を包んでいた。まるで深海魚になったような重苦しい呼吸をしながら、私は午後2時を過ぎてもベッドから出られなかった。
午後3時、私はようやく諦めてベッドを出て熱いシャワーを10分以上、頭から浴び続けた。重い足を引きずって私は出社した。時間は午後4時半をとっくに回っていた。疲れ切った私の顔を見て塚本佳子がニヤリと笑った。
午後5時、スタッフミーティングを始めた。何故か今日はタバコの本数が進む。1時間でミーティングを終えなければならない。この数か月間、会社では連日のようにトラブルが発生した。全てを塚本が処理してくれた。だが、一応私の言葉で一連のトラブルを総括しなければならない。
気がつくと時間は6時近くになっていた。突然私の携帯の着信音が鳴り響いた。電話の相手は松井章圭からだった。「車が混雑して5分か10分遅れます」私は何故か少し安心した。まだミーティングを終えるメドがつかなかった。私の口調は早くなった。隣の塚本がソワソワし始めるのが分かった。
午後6時5分。会社のチャイムが鳴った。ミーティングはまだ途中だったがスタッフ全員が立ち上がり、秘書の飯田がドアを開けた。スタッフ達が声を合わせるように大声で挨拶した。スタッフ達の間から松井が姿を現した。自然な足取りで私の方に歩いてきた。一瞬、松井は立ち止まり、塚本に向かって笑顔を見せながら頭を下げた。そして私と松井は両手で握手した。
互いに手を握りながら私達は見つめ合った。この瞬間、私達は昔の友人に戻った。
私は応接コーナーに松井を導くと「館長、2分だけ待って下さい」と言い、再びスタッフを会議用テーブルに座らせて「とにかく結果を出してくれ」という言葉でミーティングを閉めた。
松井との5年ぶりの再会である。私と塚本はいつものように並んでソファーに腰を降ろした。3人とも笑顔で向き合ったが、なかなか言葉が出ない。「どうですか、調子は?」仕方なく私はあまりに陳腐な言い方をした。松井も「相変わらずですよ。どうですか、小島さんは?」と陳腐に答えた。そして「大志君は?」と言った。大志は「今日は館長に会うから」と言って学校が休みだというのに制服姿(立教には本来、制服はないのだが)で会社にきていた。「押忍」と答えたまま固まっている大志を、松井は強引に隣に座らせて、ひとしきり大志の話題を口にした。「それじゃあ記念に2人の写真を撮ろうか?」と私が言う。秘書の飯田は緊張して上手くシャッターが押せない。「君、手が震えているよ」松井は笑った。
「話したい事が山ほどあるけど、まあいいか」
私が言うと、後は完全に私達は昔の関係に戻っていた。昔、昔の汚い事務所時代の話に花が咲いた。
「クーラーが半分壊れて、暑い暑いと言って2人でパンツ姿になって、それでも暑いと言って松井さんは『こういう時は2本指で 逆立ちをするのがイチバン』と言って2人で逆立ちして、そしたらパンツの脇からチンチンがはみ出して、塚本が赤くなって…。しょうもない事ばっかりやってたっけ」
私が言うと松井は「そんなバカな事してませんよ。ねっ塚本さん。しかし塚本さんは昔と全然変わりませんね」と話をはぐらかす。
あっという間に時間が過ぎた。松井は「そろそろ行きましょう」と言って、私達は松井の専用車、白いワンボックスカーに乗った。車の中でもバカ話は続いた。そして青山のチャンコ料理屋に入った。
久々の再会が嬉しくて私と松井は普段飲まないビールをジョッキで頼んだ。次から次と料理が並ぶ。大志と塚本はもっぱら食べるのに精を出し、私と松井は止めどもなく話し続けた。
今回の会食はあくまでも「私的」なものである。だから会話の内容は明かさない。ただ、これだけは書いておく。松井は最後まで決して他人を責めたり悪口めいた言葉を吐かなかった。勿論、私に対しても、私が自著やブログで松井を非難した事への繰り言は一切口にしなかった。
それでも私は言った。
「俺は物書きだから、書かなくちゃならない事は書いていきます。俺は今、盧山先生を支持し応援する立場にいます。でも松井さんの立場や松井さんの『正義』は理解しました。これからも松井派極真を批判するかもしれません。でも、その時は必ず松井さん側の主張も書きます。絶対に松井さん自身の人格攻撃や否定はしないと約束する」
松井は笑顔を崩さず、「何を書いても、それは小島さんの主張だし、仕事なんですからいいんですよ。2人が友達でいられれば、それだけでいいんです。僕はどんな取材も受けるし、ただ『公的』な立場では言えない事もあるかもしれませんが、決して小島さんや塚本さんを否定したり拒否はしません」と答えた。
またもや時間はあっという間に過ぎた。もう午前0時近かった。私達の話は尽きなかったが、最後にメールアドレスの交換をし、私達は店の前で別れた。最後に松井は言った。
「小島さん、僕達にはホットラインがあるんですから、また…。また、ね」
松井はそのままタクシーに乗り、私達は松井の秘書が運転する専用車で池袋に戻った。ハンドルを握る秘書の松本氏とも久々の再会だった。松本氏は「じっくり館長と話せましたか?」と言った。私が頷くと松本氏は少し嬉しそうに「よかったです」と呟いた。
私は改めて思った。松井章圭という男の「強さ」を。それは塚本も同様だった。
帰宅したら時間は午前2時近かった。体は疲れ切っていたが、私は朝まで眠れなかった。

12月22日。夢現舎の仕事納め。今回は種々の事情から社内イベントは中止にした。私は更に重い体を引きずって午後4時頃出社。ミーティングも簡単に済ませ、塚本との打ち合わせも簡単に済ませた。
午後7時、「大山倍達正伝」の担当者である新潮社の大久保氏が来社。みんなで会食に出た。夢現舎では毎年、忘年会の会食はちょっぴり豪華にやる。イタリアン、フレンチ、中華…。選択権は塚本にある。今年はイタリアンに決まっていたのだが、大久保氏を招待するという理由で会社に近いアジアン料理屋に変更した。ところが個室のはずがカーテンで仕切られているだけなので、やたらウルサい。店の選択は完全に失敗だった。やはり塚本に任せておけばよかったと後悔する。
しかし料理は豪華というか異常なボリュームだ。私はまた飲めないビールを飲んでしまった。とにかく「正伝」で世話になった大久保氏には感謝!
2次会は向かいのカラオケ店へ。大久保氏が突然、井上陽水の「傘がない」を歌い出した。塚本は十八番、美空ひばりの「お祭りマンボ」を絶唱。私はヤケッパチになって矢沢さんの「MARIA」「I Love You,OK」そして「黒く塗りつぶせ」を3曲連続でがなりたてる。
息子の大志はカラオケ店の常連らしく、私が知らないバンドの歌を唄い、スタッフの所(女性)は得意の「フレンズ」を、飯田は尾崎豊、松田はウルフルズのバカ歌を…。
午前1時半。私達は会社に戻り、夢現舎にきたお歳暮を全員均等に分け合っておひらきとなった。
帰宅したら午前3時を過ぎていた。一応の仕事納めは済んだが、まだまだ各人担当の仕事は終わらない。
今年も後少し。まず明日は「大山倍達正伝」の資料が山積みになっている仕事部屋の大掃除をしなけりゃ…なんて大志と話してベッドに入ったら、もう夜明けだった。

こうして「地獄の3日間」そして「楽しい3日間」が過ぎていった。

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2006年12月20日

連載・大山倍達プライベート迷言集(11)

今回は、自らのもとを離れていった弟子たちに対する大山倍達の愚痴や本音の言葉を紹介する。
これらの言葉はその殆どが千葉の定宿・一宮館か、後楽園のサウナでのものである。仕事から離れ、リラックスした気持ちから出た総裁の「本音」だと私は理解している。


黒崎健時
「彼はねえ、元々ヤクザだったんだよ。正確に言えば行動右翼だね。右翼のテロリストだったのよ。その右翼の会長と私が懇意にしていて、そこの修練場で私が空手を指導したのが会長との縁だったのよ。その会長がね、『どうにも手に余る男がいる。小指がない男だが、このままでは政治家であろうが大会社の社長だろうが日本刀で斬り殺しかねないから、どうか空手で更正させてくれと頼まれたのよ」
「黒崎の空手の腕はからっきしだが、困った事に向こうっ気は随一でね。何度倒されても向かってくる。忠(中村忠)とやっても相手にならないんだが、死ぬまで向かってくるんたね。その根性は見上げたものだった。だからね、私は黒崎を弟子とは思ってないんです。弟分というか兄弟のように見ていました」


中村忠
「忠を北米委員長にした時にドナルド・バックたちが反対をした。後に忠が極真を離れた後、やはりドナルドの忠告を聞いておけばよかったと後悔したものです。ドナルドに任せておけば今頃アメリカは極真王国になっていたよ、間違いなくね。でもね、最近考えます。この歳になってみるとね、忠を私の近くに置いておけばよかったとね。忠を破門にしたのは私の不徳のいたすところで、梶原(一騎)が忠を嫌っていてね。いつも忠の言動の悪口ばかり聞かされていたからね。生真面目な忠は清濁併せ呑むという事ができなくて、梶原や真樹日佐夫の傲慢さが許せなかったんだね。でも私も忠を北米委員長にした事を後悔していたから…。それでもね、忠を離したのは今となればとても残念だと思うよ」


佐藤勝昭
「勝昭はね、世界チャンピオンにはなったけど武道家じゃなかったのよ。彼は生来のスポーツマンなんだね。極真空手を背負っていく覚悟も意識も欠けていました。東(孝)と似て大酒飲みなんだが、飲むと豪快になるのにシラフだとからっきし根性がない。でも私は可愛がっていたんです。だから勝昭が兄貴の商売を手伝いたいから空手に専念出来ないと言ってきた時にも、私は快く認めてやった。自分の道場を出すという時も、ただの町道場ならばいいと思ったのよ。だから第2回世界大会の時も佐藤塾の原田君を出場させた。まあ勝昭はあれでよかったのかもしれないね、極真会館向きの男ではなかったという事たよ」


芦原英幸
「芦原はね狡い男でね、組手でもまともな技は使わない。大山道場時代には反則なんてなかったが、しかし芦原は本来ならば反則となる技ばかり使って、それで先輩に向かっていく。徹底的にやっちゃうのよ、先輩までね。手加減を知らないんだね。後輩の組手を受けようともしない。実験とか言いながら滅茶苦茶な技でやっつけちゃうから、後輩は怖がって道場を止めちゃうのよ。一種のキチガイだよ、芦原がやる空手は。凶器です。そして人徳がない。我が儘でやり放題の男でした。それでも忠は随分芦原を庇っていたがね、道場以外でもケンカ沙汰の繰り返しで全く反省もしない。梶原に取り入っていつの間にか「空手バカ一代」の主人公になってしまった。私の命令を聞かない。ブラジルに行けと命じても四国に帰ってしまう。私の命令に逆らった男は芦原くらいだよ」
「でもね~、忠じゃないが、今となればね、芦原が極真にいたら怖いもの知らずではあったね。いつでも鉄砲玉になれる男は芦原と添野くらいだからね。添野も芦原に比べれば小粒だったからね。最近よく思います。芦原がいればなあとね。しかし今や芦原は極真最大の敵になってしまった。運命の皮肉だね」


大山茂、泰彦
「茂についてはね~。私はとても後悔しています。まさに不徳のいたすところとしか言いようがない。ただね、茂がアメリカに行くときに、ある人が仲に入ってくれたんです。その恩人の顔を潰す事をした。それが発端でした。茂はね、この手紙にも書いてるように謝ってきているのよ。ところがね、弟の泰彦が話をぶち壊したんだね。泰彦は自分が頭いいと自惚れているから、兄貴をそそのかして勝手に好き放題やりたかったんだと思います。この件は全て泰彦がガンだったのよ。茂も泰彦も彼らが子供の頃から知っているからね、可愛い弟子でした。たから残念なのよ」
※私は総裁から大山茂氏との間で交わされた数通の手紙を読むことを許可された。詳細は省くが総裁の話は大まかな点で正しいと言えるだろう。


添野義二
「添野はね、いい男なのよ。芦原の弟分でね、極真の為なら何でもする度胸があった。私は添野が可愛かったよ。ただね、添野は取り巻きが悪すぎた。また添野は一本気だから梶原の掌中にはまって身動きが取れなくなった。義理堅い男だから梶原を切れなかったんだね。それで梶原と一緒に突っ走っていった。また悪い取り巻きも添野をそそのかしてね…。私は添野を手放したくはなかったのよ。でも極真内にも添野を嫌う連中が多くてね。義理堅いが人望がなかった。それで悪い連中との付き合いにはまっていったんだね。私は今でも添野を極真に戻したいと思っているが、まあ無理だろうがね」


東孝
「東はね、第2回世界大会でアメリカのチャック・チズムにやられたのが余程悔しかったんだね。突きも蹴りも全く通じない。仕方ないから掴んで柔道の技で投げて投げて…。でもあれは反則だよ。外国人選手は『ノー、カラテ。イッツ、ジュードー』って凄いブーイングだったんだから。それが悔しくて東は投げを認めて新しい事をやろうと考えたんだね。挙げ句にお面を被って顔も叩くという。私はね、大昔散々防具は研究したんです。でもね、顔を叩く限りお面を被るとダメなのよ。痛くないからただのド突き合いになってしまう。醜くて空手ではなくなってしまうのよ。まして投げを入れたら大変たよ。お面はずれるし、突きよりも投げが主体になる。そんなものね、私は既に40年以上も前から試行錯誤したんだもの。そんな事を始めればね、いつしか人はそれを空手と言わなくなってしまうよ。空手からはみ出した別のものに必ずなる。まあね、チャックとの試合が悔しいならばやってみればいいよ。でも、いつか空手を名乗れなくなるからね。まあ、東が極真を離れたのはそんな綺麗事じゃないんだが…。武士の情けとして、私はそれ以上は言わないよ」

2006年12月17日

新極真会への追及①

12月6日に開かれた新極真会の臨時理事会において、柳渡聖人氏が提案した新極真会と夢現舎の「和解案」が否決された事は既報の通りである。
夢現舎としては顧問弁護士を代理人として法的な追及を一任した。その為、これに関しては、法的倫理上の理由から詳細については触れる事が出来ない。
少なくとも、11月24日付けでなされた新極真会からの小島及び夢現舎への取材拒否通告について、その曖昧な理由の真意(つまり小島の書く何が「憶説」であり、ならば何が「真実」なのか?または何故、事務局レベルでは夢現舎の今後の取材を受ける確約をしたにもかかわらず、いかなる過程を経て新極真会としての姿勢が一転したのか?など)を糺し、回答を求めている。
回答の期限は07年1月10日としている。もし、その間に新極真会側から何らかの返答があり、それが和解に繋がるものであるならば、夢現舎としては誠意をもって互いの妥協点を探るのは言うまでもない。
だが、何ら返答がなく、また夢現舎として受け入れ難い返答であるならば、新極真会側の「姿勢」を公開するとともに、更に法的追及を続けていく事で、代理人と合意をしている。


さて、柳渡氏が仲介役に入った新極真会理事会の会議が決裂した後、柳渡氏からは「ダメだった。俺なりに再検討を提案したが、話は聞き入れてもらえず現状通りで決定した。俺も組織人である以上、組織の決定に従っていく。これで最後だ」というメールが届いただけで、それ以降一切の連絡が途絶えた。小井泰三氏についても同様である。何度電話をしても繋がらない。新極真会事務局への電話も、当方の電話番号を「受信拒否設定」にしているのか、全く繋がらない状況が続いている。柳渡氏と小井氏の携帯に至っては、夢現舎スタッフの個人携帯から電話しても繋がらない。その異様な徹底振りに私達は当惑するしかない。
繰り返すが私達は決して柳渡氏や小井氏を責めようと思っている訳ではない。せめて11月24日の理事会と12月6日の臨時理事会の経緯を聞きたいだけなのだ。そこまで逃避に徹しなければならない柳渡氏と小井氏を追い込んでいる新極真会の「力」とはいったい何なのだろう?私達には到底理解の範囲を越えている。


この間、私の元には20名を超える新極真会関係者からメールが寄せられた。プライバシーの問題から全文引用は出来ないが、少なくとも私にメールをくださった方々は新極真会のメンバーでありながらも私達を応援すると書いて下さった。中には現在、新極真会の支部長の役職にいる人も4名いた。彼らは異口同音に新極真会の内部的問題を私に告発している。一例を挙げる。
「理事会以外に、私たち支部長はなんらかの委員会に所属しなければならないのですが、でも委員会で何かを決定する段階になると必ず根回しがあり、後輩が先輩支部長に自分の意見をいえる雰囲気など全然なく、委員会にしても理事会にしてもそこには民主的なものはありません。どこからか天の声がおりてきて物事が決まります。いったいどこから天の声が出てくるのかも私たち末端の支部長にはわかりません。だから委員会も理事会も形式にすぎなく、いつも突然の通知がきて従うしかないのが現状です」
「全日本大会をご覧になったならばお分かりと思いますが、理事でもない三瓶師範がどうして特別の白いブレザーを着て役員席にいたのか、私たち支部長も分からないのです。でもあれが新極真会の実体を表している。新極真会に民主主義はありません。昔と何も変わらない縦型社会です。締め付けはとても厳しいです。支部長は委員会の仕事もあり道場で指導に専念するのもままなりません」
「役員を決めたりするときにいつも選挙とか改選とかやるのですが、でも選挙の前から暗黙の通告があって自由な選挙などできません。緑代表は多分これからもずっと何度も改選選挙で当選し、代表を続けるでしょう。しかしそれに反発する先輩たちもいますが、そのリーダーがS師範です。最近、S師範は焦りがあるのか私たち下の支部長には納得できない言動が目に付くようになりました。派閥争いという言葉が適切かどうかはわかりませんが新極真会が一丸でないのは本当です。緑代表に権限がないのも本当だと思います。極真館が急成長してる今、こんな体制でやっていけるのか不安です」
ちなみに新極真会とのトラブル発生後、私に電話をくれ、色々なアドバイスをくれる昔の大先輩がいる。柳渡氏と同世代の方だが、現在も新極真会に所属している。勿論、彼の名前を公表する事は出来ないが、仮にA先輩とする。A先輩によれば、私に寄せられたメールの内容は殆ど正しいという。要は三瓶啓二氏の存在が新極真会の癌である事は間違いない。
A氏と同様な言葉は新極真会(支部長協議会派)から離れた何人もの元支部長が語っている。


私達も徐々にではあるが新極真会が抱える諸問題の正体が見えてきた。来年発売予定の私と塚本佳子の共著「大山倍達の遺言」の中で、これらの事は証言者と資料などを元に明らかにするつもりだ。
また一方、私が1998年に出版した「実戦格闘技論」は数年前に絶版になっていたが、この度、幾つかの出版社から「2007年最新改訂版」として全面リニューアルして再販する話が寄せられている。その中でも「大山倍達の遺言」とはまた違った角度と視点で新極真会の現状と、夢現舎との確執の経緯を記したいと思っている。ややゴシップ的になるが、決して暴露本ではない、問題提起として書いてみるつもりだ。以下は草案である。
①元ヤンキーでは済まない代表・緑健児の素顔
②塚本徳臣の麻薬事件に隠されたドーピング問題
③大山倍達の遺族と大スキャンダルを起こした三瓶啓二の真の目当ては智弥子未亡人だった
④鈴木国博の暴行障害事件の裏にある真実
⑤三好一夫が某暴力団に脅された訳
⑥大濱博幸は本業の教師 では学校の問題児


今日もまた、私達は新極真会事務局長・小井氏、柳渡氏、三瓶氏に幾度も電話をした。しかし相変わらず一切通じなかった…。

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2006年12月15日

連載・大山倍達プライベート迷言集(10)

これも大山総裁がつい私に漏らした「本音」の実戦論である。
とにかく生前の大山総裁は常に聖人君子のごとく綺麗事を口にした。日本武道界の頂点をきわめ、単一流派としては世界最大の空手組織の長に君臨する立場であれば、そう簡単に自分の本音を口に出来ないのは当然といえば当然である。ましてや劇画「空手バカ一代」によって脚色された禁欲的かつ高潔な「求道者」としてのイメージが全国的に染み付いてしまった事を誰よりも知る大山総裁は、より人前やメディアに対しては吉川英治が描いた「宮本武蔵」を彷彿とさせる「武人」を演じなければならなかった。
しかし素顔の大山倍達は決して「昭和の宮本武蔵」ではなかった。勿論、世界に類を見ない傑出した「空手家」であり「武道家」「格闘家」であった事は論を待たない。しかし、血の通った人間である以上、物語に登場する仙人のような完璧な禁欲者などいるはずがない。
素顔の大山倍達は、時にはどこにでもいる「俗人」であり「快楽主義者」でもあった。そして誰よりも「個人主義者」「現実主義者」であった。「大山倍達正伝」でも書いたように、素顔の大山総裁は時に宮本武蔵を完全に否定した。

「きみね~、あんなに美人の女性に慕われて、指一本も触れない男なんているはずないじゃないのよ。それに実際の武蔵はね、いつも卑怯な手を使って相手を倒してきたのよ。いたいけない子供を平気で斬り殺したりね。考えてみたら佐々木小次郎との勝負も狡かったよ。約束の時間に現われず、小次郎をじらしにじらしておいてやってくるなんて、卑怯じゃないのよ。それが戦略だとしても、戦争じゃないのよ。武士と武士の果たし合いじゃないか。ならば正々堂々と戦うのが男の姿なのよ。…でもね、私も今じゃ『昭和の武蔵』と呼ばれるようになって、今更宮本武蔵はインチキ野郎だとは言えないじゃないの」

私はこの言葉を聞いた時、思わず吹き出しそうになると同時に、何故かホッと安心感を覚えたものである。
また、これは以前も書いた事である。普段は「空手に先手なしと言われるが、極真空手は先手ありです」と哲学的な言い方をしていた大山総裁だが、ある日私の前に座っていた彼は突然身を乗り出すようにして声を荒げた。そして右の拳を突き出した。

「きみね~、よく偉そうな先生がね、どんなに意見が対立しようが『話せば分かり合える』なんてバカな事を言っているがね。そんな言葉は修羅場をくぐった事のない偽善者が口にするものなのよ。世の中にはね、話しても分からないヤツなんてゴマンとといるんだよ。そんなヤツにはね、話しても無駄、議論も無駄なのよ。話しても分からないヤツはね、ぶん殴ってしまえばいいのよ。死ぬほどぶん殴ってやればね、最後は黙ってても『分かりました。御免なさい』と言うよ」

齢70の総裁の言葉は雷のような迫力があった。ただ、私にとって大山総裁のこの言葉はまるで口癖のようなものだった。でも、ある日、殆ど異口同音の言葉を発した後、少しばかり冷静になって次のように付け足した。

「私はヤクザやチンピラじゃないからね、義の立たない事で人を殴ったりはしないよ。あくまでもね、こっちが正しいという信念のある時の話だよ。明白に相手に非がある、相手が間違っているという時にはね、思い切りぶちのめしてやるのが一番なのよ」

私は、「総裁がよく座右の銘だと言っている『力なき正義は無能なり』という言葉はこういう意味なのか?」と妙に納得したものである。
これときわめて似た言葉を私は大山総裁から聞いている。

「本当の武士はね、毎日毎日死ぬような苦しい剣の稽古をしてね、自らの剣を常に研ぎ澄まし、そして粗末な鞘に納めておくものたよ。小さな諍いや揉め事に巻き込まれても決して剣を抜かず頭を下げて戦いを避けるのよ。そして本当に自分の大切なものを守らなくてはならないという時、その時こそ一瞬で剣を抜き、一刀両断に敵を斬るのよ。それが真の武士の姿です」

だが、以上の言葉はメディアや人前での建て前に過ぎない。大山総裁は某雑誌の取材に対しこう語った後、編集者が帰ったのを見計らって私に小声で言った。

「小島、みんなバカだよね、そんな話を真に受けて。あんな生き方をしていたら命なんて幾らあっても足りないよ。本当に敵を斬り殺すのは最後の最後でいいけどね、その前に常にチラッとね、磨いた刀を相手に見せておくのが本当なのよ。能ある鷹は爪を隠すというけどね、あれも嘘っぱちたよ。本当に爪を隠してたら敵に舐められて雀や鳩にも集団で襲われてやられちゃうよ。そうじゃないんです。本当に能ある鷹はね、敵になりそうな相手が現れたら黙ってね、チラッと鋭い爪を見せておくもんです。本当のサムライもね、何かトラブルになりそうな時には笑顔を見せながら、小柄を切ってね、いつでも剣を抜く仕草を見せておくものたよ。そうして相手を怯ませておく事で最悪を避ける事が出来るのよ。相手をとことんやっつけないで済むのよ。小島、分かった?」

今となれば、本当に生死の境を彷徨いながら修羅場を生き抜いてきた大山倍達だからこその「本音」の実戦論だったのだと私は痛切に、そして現実的に理解する事が出来る。

2006年12月11日

松井章圭との邂逅 (06/12/10)改稿版

昨日(12/10)、松井章圭と電話でゆっくり話した。
何年ぶりだろう?少なくとも5年近くは経っているはずだ。ちょっとした要件で数分間話した事は何度もある。だが、たとえ電話とはいえ、じっくりと腰を据えて2時間近くも話したのは本当に久しぶりだった。

松井とは「大山倍達正伝」の発売直後から会いたいと思っていた。何故なら私は「正伝」の中で松井を大々的に批判しているからだ。その訳を私は松井に説明したかったし、同時に松井自身の見解を私は聞きたかった。
私は大山総裁の亡き後から一貫して松井を支持してきた。たとえ大山総裁の遺言書が法廷で否定されようとも、私は「正伝」で書いたように、大山総裁と最後にお会いした時の、「小島が松井の友人ならば、どうか松井の『苦い薬役』になってやってくれ」と私に何度も繰り返したあの大山総裁の言葉こそが、私への遺言だと信じていたからである。

大山総裁が逝った日、まだ殆どの関係者が遺言書の存在を知らされていなかった。しかし私はある支部長から内密に聞かされた。
「総裁は遺言書を遺していて、そこに後継者は松井章圭と書かれているようです。松井君が2代目館長になったら小島さんはどうします?」
私は一瞬の躊躇いもなく「当然、松井さんを応援します」と答えた。私と松井は空手の関係で言えば比較にならない程の差がある。しかし私達は松井の自叙伝「我が燃焼の瞬間」の制作を通して友情で結ばれた。
私は松井と付き合えば付き合う程、自分に似ている松井の「素顔」を発見した。身勝手で自尊心が強く、他人を信じず常に一匹狼で、そのくせ表面的には温和で善人ぶっている。だが、本当は性根が悪く偽善者を嫌いつつ偽悪者に憧れている。私は自分を善人と思った事は一度もない。私は天性の「悪人」だ。しかし、そんな自分に何の嫌悪も後悔もない。むしろ「悪人」である自分に誇りさえ抱いている…。
決して私は松井を貶めているのではない。私自身がそういう人間であり、松井もそうだと言いたいだけである。私に似ている松井に、だからこそ私は誰よりも親密感を抱いていったのかもしれない。松井は決して、少なくとも個人的には決して綺麗事を口にしない。私に対して文句や意見がある時はストレートに自分の言葉をぶつけてくる。私はそんな松井が好きだったし、私も松井に対して常に直言居士であり続けた。
しかし、松井が極真会館館長として公務に多忙になると、昔のように「本音」だけでは付き合えなくなった。私もちっぽけではあるがメディア業界の会社代表になり、少しずつ組織の体裁が整ってくると、「個人」としての小島と「夢現舎代表」「物書き」としての小島を演じ分けなければならなくなった。
極真会館館長としての松井の言動に対して批判しながらも、いつしか私は自分がどの立場で口にしているのか分からなくなっていった。1998年、自著「実戦格闘技論」の中で私は極真会館館長としての松井の方向性に異議を唱えた。K-1などの「格闘ショー」に極真会館所属の選手を出場させ、急激にエンターテインメント路線に舵を切り出した松井の極真会館運営方法に私は反対だった。何故なら、それは大山総裁の遺志に反する行為だと思ったからである。
「実戦格闘技論」を出版した後、私は松井と会った。松井は一言も私の記事に反論も文句も愚痴も言わなかった。ただ「小島さん、『公』の自分と『私』の自分を演じ分けるのはお互い難しくなってきましたね」とだけ言った。私は答えた。
「もう『公』の部分では互いに共有出来るものはなくなってしまったんですよね。昔のように2人とも貧乏で守るものもなく、裸で付き合えた頃が懐かしいですね」
すると、松井は「小島さん違いますよ。いつだって昔のように裸で付き合う事は出来ますよ。だって僕も小島さんも素顔は昔と何にも変わらないじゃないですか。仕事の部分で僕達が敵味方になっても、個人的には2人の関係はこれからも絶対に変わりませんよ」と真剣な顔で私に言った。
だが2000年を境に私と松井の関係は確実に疎遠になっていった。極真会館館長としての松井が進む方向は明らかに私が望むものと乖離していったからである。
そして2002年、長年「最高顧問」として館長・松井を支えてきた盧山初雄が松井の元を離れ、前後して、大山総裁から松井の「後見人」を託されてきた梅田嘉明が極真会館を去った。これを契機に、私は完全に松井と距離を置くようになった。同時に、私にとっては師匠でもある盧山の極真館に接近していった。
勿論、私は打算で盧山に近づいたわけではない。私はこの業界に入ってから1度も「打算」で人と付き合った事はない。これだけは私は胸を張って断言することが出来る。そして松井はそんな私を十分に認めてくれている。私が盧山を支持するのは盧山に大義名分があるからだ。大山総裁の遺志を重んじ、ショービジネスではないアマチュアとしての「武道空手」を追求する盧山の主義・主張こそが「正義」であると、私自身が信じたからである。
かといって、私は「松井派の小島」の立場を捨てるつもりはなかった。松井の方向性に対して疑問や拒否感はあるものの、一旦は「松井を立てる」と決心した以上、たとえ盧山と付き合おうが極真館を支持しようが、それは決して二者択一ではないと思ったからである。
しかし現実はそう簡単ではなかった。梅田や盧山の主張を肯定する事は、そのまま松井への批判になる。こうして私は「大山倍達正伝」において現在の松井を極真会館館長として完全に否定した。

松井と会う機会はなかなか訪れなかった。私と松井の間には「ホットライン」がある。簡単に言えば互いの携帯番号を教え合い、いつでも直接連絡が取れるような状況にある。だが、さすがの私も自分から直接松井の携帯に電話する勇気はなかった。結局、2人の連絡は常に互いの秘書を通してということになる。松井が都合のいい時は私が多忙で、私が時間がとれる時は松井が出張だったり…。そんなすれ違いが何度もあった。そして約2週間前、私の秘書が松井の秘書を通じ、再び会いたいという私の意志を伝えた。松井は12月10日頃までアメリカに出張だと私は聞いた。そこで改めて連絡をすると伝えた。
そして昨日、午後6時頃突然松井から私の携帯に連絡が入った。最初に松井は言った。「僕もずっと前から小島さんとゆっくり話がしたかったんです。でも…、なかなかきっかけが作れなくて」いつになくはみかむような松井の口調が印象的だった。

松井は5年前、否10年前と全く変わっていなかった。完全に『公』ではなく『私』としての話し方だった。私も自然と「館長」と呼ばず「さん」付けになった。そして私が最も懸念していた「大山倍達正伝」の文章に対する反論も揶揄も、松井は最後まで一切口にしなかった。私は「この数年、俺は松井さんのやり方に批判的だし、散々色んなところで悪口書いてきたから…。でも俺はそれとは別に松井さんにはずっと友情を持ってきたから、松井さんと喧嘩したくなかったんだ。『公』では敵になっても『私』ではずっと友達でいたいと思ってきた」と言った。松井は穏やかに笑いながら答えた。
「小島さん、僕が過去、小島さんの書く文章にクレーム付けたことありますか?どんな批判もそれはない方がおかしな訳で、小島さんがジャーナリストとしての立場で書くことを僕は一度だってとやかく言ったことはないはずですよ」
確かにその通りだ。昔、「黒沢浩樹・超人伝説」の中で、第17回全日本選手権決勝の黒澤と松井の試合は確実に黒澤に分があったと書いた時、松井は「超人伝説」を読みながらも何も言わなかった。八巻建二や緑健児が「小島に貶された」と怒った時も、松井は「チャンピオンになることは誉められるだけでなく、その倍の批判に晒されることになる。賛否両論の意見を自分で背負い込めないならばチャンピオンなんて返上するべきだ」と諭してくれた。
むしろ松井は「正伝」を快く賞賛してくれた。
「この本は僕に対する内容なんて関係なく、大山総裁を愛し、極真空手を学んできたあらゆる人にとって最高に勇気づけてくれる一冊です。会派なんて関係なく極真関係者すべてにとって一生の宝となる本だと思います」
私は松井の言葉に胸が一杯になった。繰り返すが、現在の私は松井が極真会館館長として進む方向性に批判的であり、更には松井派極真会館を否定的に見ている。だが…、それは一切変わらないのだが、無性に松井を応援したくなっている自分の激情を止めることは出来なかった。もう、理念も筋も理屈もいらない。ただ友情だけで松井を認め、昔のように松井派極真会館を応援したい…私は心底、そんな思いに囚われた。
同時に、私は松井章圭という人間の「強さ」を改めて痛感させられた。松井の「強さ」については昔から何度も公言してきたことではあるが、私は過去、芦原英幸は例外として松井ほど「性根の座っている男」を知らない。まして私と同年輩で、松井の「強さ」に太刀打ち出来る人間は皆無だと断言する。
私は冗談混じりに言った。
「松井さんは極悪人だから強いんですよ。悪は絶対に善より強いんです。俺の周りには極悪人が三人いるんですよ。松井さんと塚本(佳子)と小島、俺なんですって。いつも塚本と話しているんです」
松井は笑いながら「まあ塚本さんは別でしょうがね」と応じた。
松井は「とにかく近いうちに会って食事でもしましょうよ」と言った。私は少しひねくれた口調で答えた。
「本部と夢現舎は歩いて3分しか離れてないんですよ。5年前、今のオフィスに移った時、松井さんは『1度、遊びに行きます』と約束したんですからね。本当に1度はきてくださいよ」
すると松井は意外に素直に言った。
「それでは僕がまずは夢現舎を表敬訪問させて戴きながら小島さんを迎えに行きます。お茶でもご馳走になって、それから外に出て食事に行きましょう」
私達は再会を約束して笑いながら電話を切った。ここ数週間、仕事のトラブルでモヤモヤしていた気分が一気に晴れていくのを私は感じた。

人間関係は主義や主張だけでは成り立たない。そこにはどうにもならない「人情」が介在する。それこそが血の通った人間同士の付き合いなのかもしれない。そんなことを今回の松井との電話で痛感すると同時に、未だ消えない昔のままの友情が私と松井の間に生きていることが無性に嬉しかった。
仮に松井章圭という人間が「悪」であったとしても、松井ほど強く覚悟のある人間はいない。そして松井ほど不思議な魅力を持つ人間も稀なことだけは否定出来ないだろう。少なくとも松井が稀代の「人物」であることは間違いない。

samurai_mugen at 18:36|Permalinkclip!単発コラム 

2006年12月09日

告知・新極真会とのトラブルについて(06/12/9) 改訂版

小島一志様
平素より当会をご支援いただき、誠にありがとうございます。
さて10月半ばから貴殿がインターネット上に当会に関する記事を掲載されていましたが、そのほとんどが憶説と判断でき、当会が認識する事実とは異なる内容でした。全国の道場生への影響を考慮し、当理事会において今後貴殿および夢現舎様からの取材、応対を断り、一切の関係を絶つことを決定致しましたのでご報告申し上げます。

平成18年11月24日
NPO法人全世界空手道連盟新極真会
代表理事緑健児
理事会一同


去る11月27日、以上の通告文が新極真会側から小島ならびに夢現舎宛てに届きました。内容は、11月25日、新極真会がお知らせとしてホームページ上で公開したものとほぼ同じ文面です。11月28日付けの小島のブログ内コラム「緊急告知!新極真会理事会の通告を受けて」でも書いたように、これは極めて突然で一方的な新極真会からの断絶宣言でした。
過去、小島ならびに夢現舎が支部長協議会派(現・新極真会)と対立する立場にいたがゆえに、長く断絶関係にあったのは互いが認識していた事実です。
しかし、小島ならびに夢現舎・副代表の塚本佳子が、来年秋発売予定の共著「大山倍達の遺言」(仮題)を執筆するにあたり、より中立・公平な立場から過去10余年に及ぶ「極真会館分裂騒動」の真実を描きたいと思うがゆえに、新極真会とは過去の経緯・確執を乗り越えて関係改善を図ろうとして努力してきました。
多少の行き違いはあったにせよ、最終的に小島は岐阜支部長の柳渡聖人氏と総本部事務局長の小井泰三氏との間で話し合いを重ねた結果、「新極真会との確執と和解の経緯」でも述べているように、すでに新極真会事務局との和解が成立していました。
小井氏は、「今後事務局として小島ならびに夢現舎からの取材は全て受ける、代表の緑健児氏へのインタビューなどについても必ず責任をもって橋渡しをする」と小島に確約までしています。実際に、小島が大山総裁のお墓参りをしたいとお願いした際にも、小井氏からは夢現舎まで詳細な地図をFAXで送信してもらいました。更に秘書である飯田には、小井氏から電話で丁重にお墓までの詳しい道順の説明まで受けています。また小島自身もその際、小井氏と雑談まで交わしています。これは、新極真会の理事会が夢現舎への断絶宣言を決定するわずか2日前、11月22日の事です。
しかし理事会の決定後、小井氏は雲隠れ状態になってしまいました。私は決して小井氏の人格を疑うものではありません。小井氏が信頼に足る高潔な人物である事は事実です。しかし一方で、一度、黒澤道場と新極真会のトラブルについて矢面に立たされた時、新極真会への「辞表」の提出まで決心していた小井氏が、今回は辞表を出すどころか居留守に徹するという姿勢に対して少なからずの疑問も持たざるを得ません。
黒澤道場とのとのトラブルについては、柳渡氏と小井氏が新極真会上層部の指示を受け、小島を懐柔して問題の沈静化を図り、一段落ついた後、小島を切る…そんな陰謀を企てていたと邪推されても反論の余地はないでしょう。
黒澤道場と新極真会のトラブルがやっと沈静化したと思われた頃、突然、前掲した通告文に書かれているように、小島のブログの内容を「憶説」という曖昧な理由で一方的に断絶宣言をしてきたのです。小島及び夢現舎としては到底納得できるものではありません。過去、小島はジャーナリストの立場から雑誌媒体や著書で各団体の批判などもしてきましたが、今回の新極真会のような一方的な対応は過去にない異例の状況です。
いずれにせよ、事情の説明を受けるべく小島は、小井氏ならびに柳渡氏へ何度も電話しましたが一切連絡が取れなくなってしまいました。ようやく柳渡氏が小島からの電話を受けたのは11月27日の事です。
小島は電話で柳渡氏に対し4時間に渡って今回の事実関係を質しました。 柳渡氏の返答は終始一貫して「組織の決定だからそれに従うしかない」と言うのみでした。さらには「小島と話したという事実も表には出せない。あくまでも個人での立場で話した事にしてくれ。新極真会のメンバーとしての立場では話せない」と言い、このような通告にいたった経緯について最後まで柳渡氏が口を開く事はありませんでした。そこには普段の陽気な柳渡氏の姿はなく、ただ何かに脅えるような言動が続きました。
小島はそんな過去、見たことのない柳渡氏の態度に、容易ならざる事態が新極真会内で進行していることを実感しました。理事会を構成する理事は三好一男氏や小林功氏など柳渡氏の古い盟友達です。小島は「三好先輩達に直接電話して事情を聞くことも出来ないのですか?」と柳渡氏に迫りました。しかし、柳渡氏はそれさえも不可能だという姿勢を崩しませんでした。ただひたすら「小島、すまない。小井だけは責めないでやってくれ」と繰り返すのみでした。
ところで1988年、小島と大道塾代表・東孝氏の間で起こったトラブルによって両者の関係が悪化した際、東氏は大道塾の機関紙「大道無門」及び電話、手紙などで大道塾関係者全員に、「今後一切の小島との交友を禁じる」という通告を出した事があります。しかし、それでも長田賢一氏をはじめ多くの大道塾の関係者は小島に連絡をし、ねぎらいや励ましの言葉を掛けて下さいました。
それに対して、今回の新極真会の対応について柳渡氏と小井氏の態度はあまりに異様としか言いようはありません。小井氏からは未だ一切の連絡がないのも、柳渡氏の異常な萎縮も彼らが置かれている状況の厳しさの表れと言っていいでしょう。新極真会という組織が如何に厳しい「恐怖政治」を支部長や関係者に強いているか。その証明としか思えないほどです。
松井派極真会館も、松井氏の「独裁」が問題にされますが、松井派の場合は常に館長である松井氏の「顔」が見えるだけ、まだ組織の構造が分かりやすいと言えます。しかし新極真会の場合は「恐怖政治」の実体が皆目見えないところに深刻な問題があると思います。民主主義による「合議制」を謳いながら、その合議制の内容が完全に部外秘扱いというのは呆れ返るほどの矛盾です。
大道塾の例を出すまでもなく、組織または理事会の決定だからといえ、事務局長の小井氏が小島に一切電話もできないという状況に追い込まれているのは、きわめて異常な事です。
それでも11月30日、柳渡氏から小島に以下のようなメールが届きました。
「12月6日に緊急理事会が開かれ私(柳渡)も出席した上で再度話し合うことになった。一度理事会で決まったものを白紙撤回にすることは困難だが、せめて保留、再考という形を取ることで実質的な撤回を図り、互いの関係改善を図ることが新極真会にとってプラスであるということを支部長生命をかけて説得する」
3日前の電話では、個人の立場を崩さなかった柳渡氏がこのメールでは、相当の覚悟を胸に秘めているのを感じ取る事が出来ました。小島は柳渡氏の決意に敬意を評し、全てを柳渡氏に託しました。
こうして12月6日、以上の件を小島に一任された柳渡氏は緊急理事会に出席しました。しかし、柳渡氏の精一杯の説得も虚しく理事会の構成メンバー7人の理事たちは、一切耳を貸そうとせず簡単に柳渡氏の提案は却下されてしまいました。柳渡氏自身が支部長協議会派(現・新極真会)設立時の幹部であり、前記したように理事の中でも三好一男氏、小林功氏は柳渡氏の総本部での修行時代からの「兄弟分」であり、その他、藤原康晴氏、木元正資氏らも柳渡氏の後輩として極めて親しい関係にあった事を考えると、この柳渡氏の面目を潰す一方的な結果が下されたことは不思議でなりません。
そこに第三者の介在があった事は容易に想像が出来ます。私と懇意のある数名の新極真会関係者は「三瓶師範こそが影の権力者」と語り、三瓶氏の介入を示唆しています。実際、三好氏、小林氏、藤原氏、外舘氏、更には柳渡氏も古くからの「三瓶グループ」のメンバーです。三瓶氏の意向のもとでは柳渡氏の提案など容易に否決することが可能でしょうか?
いずれにせよ、柳渡氏の努力も虚しく先の決定事項はそのまま変更しないという結論に終わりました。その後、柳渡氏は小島にメールで次のような文章を送ってきました。
「ダメだった。俺も組織人として従っていく。これが最後だ」


以上のような経緯があったため、小島は12月6日の理事会の結果を見守るため、新極真会へのアクションを保留にしていたのです。勿論、最悪の事態を予測して顧問弁護士を通して法的な手段に出る準備をすでに整えていました。
しかし、このような通告がなされた以上、こちらとしては新極真会側があえてメディアに対して宣戦布告をしたと捉えるしかありません。何故ならば、NPO法人である公共団体が、前述したような極めて曖昧で、確証も伴わない理由のみで取材拒否を通告するというのは社会常識的にあり得る行為でなく、「出版・言論・表現の自由」という憲法でも保障されたメディアの権利の侵害に相当するのは明らかだからです。
今後は、代理人に顧問弁護士を立て徹底的に新極真会への回答を求めていく決意です。
第一に、今回の決定に至った理由として挙げている、「小島の文章の何が推測で書いていて、何が新極真会側の認識する真実であるか」を実例を挙げて明確にしてもらいたいと思います。
第二に、NPO法人という公共団体が、このような非常に曖昧な理由でもって取材拒否をするというのは、憲法の侵害である事。メディアである我々には、憲法で保障された「出版・言論・表現の自由」に基づいて、取材をする権利があります。
仮に百歩譲って、小島が書いた文章に「事実誤認」があり「推測で書いた」という内容が事実であったとしても、何故それを小島側に直接質す事なく、突然の絶縁、取材拒否に至ったのか、その理由と見解を聞かせてほしいと思います。
さらに言えば、通告の出されるつい2日前まで、小島と事務局の間ではすでに和解が成立し良好な関係が保たれていた事も前述しています。つまり、新極真会が公共団体であるならば、理事会においてはどのようなやり取りがなされ、このような決定が下されるに至ったのか?経緯と具体的な見解を示してもらわねばなりません。たとえ事務局の上部機関である理事会の決定だとしても、どのような経緯で事務局の決定を潰し、また覆したのかという理由と、その理事会のやり取りを綴った議事録の公開を求めます。それに答えられないとしたら、まさに新極真会の理事会は「密室における談合」であったと断定せざるをえません。
我々は今後早急に顧問弁護士を代理人を立て、以上の経緯について糺す内容証明を送り、新極真会からの明確な説明と誠意ある返答を求めます。新極真会の対応によっては法廷闘争も辞さない覚悟です。
さらには、新極真会とのこれからのやり取りを、逐一当ブログで報告していくと同時に、小島・塚本が来秋発表予定の共著「大山倍達の遺言」(仮題)の中で、改めてこの経緯と新極真会の全く外部には見えない異様ともいえるこの体制について、徹底的に取材して明らかにしていく所存です。
また、かねてから「噂」が囁かれている三瓶啓二が大山総裁の遺族に対して行った人道的に許せないハレンチ事件のあらましを関係者の証言と資料によって明らかにする決意です。さらに代表・緑健児の隠された実像など、過去に語られた事のない新事実にも迫る所存であります。
いずれにせよ、今回の新極真会の対応は、この組織の意思決定システムの曖昧さ、組織の混乱、派閥闘争などさまざまな問題が全て凝縮されている証拠ではないでしょうか?
改めて言うならば、このような新極真会がいかに異常な組織であるか、これが果たして武道・教育を謳っている団体なのかを、読者の皆さまにはどうか考えていただきたいと思います。
一方で、小島及び夢現舎はあくまでも新極真会との友好関係の構築を目指してきておりました。今回の当方の措置も対抗手段に過ぎず、現在でも新極真会との和解と関係改善が私達の最終的な目的である事を公約する次第です。

小島一志(構成/飯田賢一・夢現舎)

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連載・芦原英幸取材録(8)

1986年春、私が初めて芦原会館総本部を訪れた時の事である。
取材初日は総本部の稽古を見学し、夜遅くまで食事をしたりコーヒーを飲みながら芦原の話を聞いた。芦原は東京でもよく私を小料理屋や小さなクラブに連れて行ってくれたが、意外にお酒を飲まなかった。松山でもそうだった。飲み屋には行くのだがあまり酒を飲まない。私も大学浪人時代、ある事があってから殆どアルコールを受け付けない体質になっていた。空手家には東孝氏や佐藤勝昭氏、佐藤俊和氏のような「ウワバミ」並みの酒好きが多いが、下戸の私には酒をあまりたしまない芦原はとても付き合いやすかった。巷間の噂では芦原は大酒飲みと言われている。確かに本気で飲めば滅法強いのかもしれない。だが少なくとも私と一緒の時の芦原はあまり酒を口にしなかった。
一方、芦原は飛び抜けたおしゃべりだった。私もかなりの話好きだが、芦原のおしゃべりは延々と続いた。だから芦原の話に付き合うのは容易ではなかった。
話題が次から次へと新幹線のように移っていく。ただボーっとして頷いていると、突然のように「小島、どう思う?」と素早い突きのような質問が飛んでくる。「自分もそう思います」などといった曖昧な返答を芦原は殊の外嫌った。具体的に、たとえ芦原の言葉に反対の意見であっても答えないと雷が落ちる。
しかし、私は芦原の話を聞くのが決して厭ではなかった。確かに芦原の話は高速で話題も四方八方に飛ぶ。だが決して「話っ放し」ではない。必ず最後には話に結論を持ってくる。私はそんな芦原を見て「頭の回転が早い人なんだな」と感動したものである。
勿論、芦原も人間だから時には他流、特に極真会館の批判を口にする事もあった。大山総裁への「悪口」を言う時もあった。だが何故か芦原の言葉には嫌みやネットリした湿り気がなかった。自分に対する圧倒的な自信がそうさせていたのかもしれない。というより、それが芦原が持つ天性の明るさなのだと思った。
ある時、芦原は突然、梶原一騎氏の批判を話し出した。極真会館を離れる事になった遠因が梶原氏にあるという事は以前も聞かされていた。
要は芦原が「空手バカ一代」のモデルにされたのも決して芦原が梶原氏にゴマを摺り媚びへつらっていったからではなく、梶原氏の方から描かせて欲しいと頼まれた事。その後、梶原氏が黒崎健時氏と組んでキックボクシングやプロレスに接近していく際、ショービジネスを好まない芦原は反対し、それ以来、梶原氏との関係が疎遠になっていった事。だから第2回世界大会でのウィリー・ウィリアムスの八百長試合や、ウィリーとアントニオ猪木の「アングル・ショー」には無関係であった事。
だが梶原氏は大山総裁との確執を深めていく過程で、あたかも芦原が「梶原シンパ」の代表のように公言し、気がついたら大山総裁の敵側の立場に見られてしまった。「芦原は梶原の太鼓持ち」「梶原と大山館長の仲を裂いたのが芦原」そんな噂がまことしやかに流された。私自身も早稲田大学の極真空手同好会にいた1980年前後、「芦原英幸は梶原一騎の番頭」だと信じていた。確か芦原が極真会館から除名になった時、その理由の1つとして大山総裁と絶縁状態にあった梶原氏との交際を続けた事が挙げられていたはずだ。
芦原は「とんでもないウソじゃけん」と私に声を荒げた。確かに「空手バカ一代」に取り上げられて「英雄」扱いをされ有頂天になった時もある。それを大山総裁が快く思わなかった事も知っている。だが「いつまでも他人におだてられて、マスコミに騒がれて浮かれている程ワシはバカじゃないけん。マスコミはとことん挙げて一気に潰しにかかるもんよ。ワシはそれを身をもって知ったんよ」と芦原は私に言った。
「小島もマスコミの世界にいる人間じゃけん。よく覚えておくといい。マスコミは勝手に人を持ち上げて商売し、次は谷底に突き落としてまた商売をする。だからワシはマスコミを信じないんよ。小島との付き合いもワシと小島の関係なんよ」
この芦原の言葉は、今でもメディアの世界に生きる私の大切な処世訓となっている。
話を梶原氏に戻す。芦原は以上のような話しをしながら「ワシは死んでも梶原を許さんけん」と顔を朱くしながら吼えた。それでも芦原の言葉や態度には陰湿さが全くなかった。人に対して怒り、声を張り上げて罵りながらも、こんなに陰湿さがない人間を私は過去、見た事がなかった。
東京でも私は幾度となく芦原が滞在するホテルを訪ね、芦原の話を聞いた。だが松山で見た芦原は開放感に溢れていた。私は松山で、芦原英幸の真の「素顔」を見たような気がした。

取材翌日、芦原はまだ午前8時にもならないうちに私が泊まるビジネスホテルに迎えにきた。昨夜は午前3時過ぎまで芦原と一緒にいた私は、まるで体内のエネルギーを絞り取られたかのようにベッドで深い眠りについていた。芦原も殆ど睡眠を取っていないはずだ。私の部屋をノックし、「小島!今から八幡浜にいくけん。早く起きろ!」と芦原は叫んだ。今考えてみると、私の限られた松山滞在中、芦原は精一杯に色々な所に私を案内してやろうという親切心だったのだと思う。
私はダルい体を引きずり、眠い目を擦りながら外出の準備をした。芦原は私を車の中に放り込むと猛スピードで総本部に直行し、車を降りると走るようにJR松山駅に向かった。
8時30分(記憶では)発の特急列車に私達は飛び乗った。当時の予讃線は電化されておらず、ディーゼル列車だった。固い椅子と背もたれが今でも記憶に残っている。席に落ち着くと急激に睡魔が襲ってきた。しかし私は寝る事を許されなかった。芦原はこれからいく八幡浜の事や初めて道場を開いた宇和島の話などを相変わらずの早口で話し始めたからである。この時の芦原はとても楽しそうだった。まるで小旅行にでもいくかのように、いつもより数段話に弾みがあった。
「小島、ワシが初めて道場らしい道場を持ったのが八幡のなんよ。それまでは流れ者の生活よ。工場の隅を借りたり、夕方は使わない魚河岸の市場を借りたり…。まず水道で魚の滓を流してブラシで綺麗に掃除するんよ。それだけで1時間は掛かる。それから稽古するんじゃけん。床は幾らブラシで擦っても魚の脂が染み込んでいるけえ、ツルっと滑るんよ。あっちでツルっ、こっちでツルって稽古にならんのよ。そんな流浪者が道場生の協力でやっと一人前の道場が持てた。八幡浜こそがいわば芦原空手発祥の地なんよ…」
列車は右に伊予灘を望み、左に山地を見ながらゆっくり走った。特急列車とは思えない程ゆっくりと走った。優に2時間は走った。話し疲れた芦原が「そういや昨夜は殆ど寝ちょらんけん。少し寝るか?」と言った頃、「次は八幡浜、八幡浜」という車内アナウンスが流れた。
八幡浜はまさに漁師町といった風情の小さな町である。こじんまりとした駅を出るとロータリーがあり、それを渡るとアーケードのある商店街に入る。芦原は「道場はこの商店街を抜けるとすぐじゃけん。5分も歩けば着くやろ」と私に言った。
しかし、それはとんでもなかった。私達がアーケードを抜ける為には更に約2時間を要する事になるのである…。
(つづく)

samurai_mugen at 03:41|Permalinkclip!連載・芦原英幸取材録 

2006年12月05日

全空連主催全日本空手道選手権・講評/伝統空手と全空連空手(改訂版)

(財)全日本空手道連盟主催第34回全日本空手道選手権大会(06/12/3)
大会結果&講評

「大会結果」
●男子組手個人戦
優勝/井渕智(学生連盟)
準優勝/松久功(実業団)
3位/二瓶卓郎(東京)
3位/平山真也(兵庫)

●女子組手個人戦
優勝/藤原菜希(学生連盟)
準優勝/本間絵美子(滋賀)
3位/荒賀知子(京都)
3位/新井彩可(群馬)

●男子型個人戦
優勝/片田貴士(関東地区)
準優勝/古川哲也(北信越地区)
3位/与儀実勝(九州地区)
3位/神宮隼人(近畿地区)

●女子型個人戦
優勝/豊見城あずさ(九州地区)
準優勝/諸岡奈央(関東地区)
3位/稲垣宏美(近畿地区)
3位/若林春日(中国地区)

「大会講評」
今回で34回目となるこの大会では、男女の組手、型の4部門うち2つの部門で新チャンピオンが誕生したように、着実に選手の世代交代が進んでいる印象を受けた。
しかし一方で、ルールによる技術の停滞と格闘技としての根本的な矛盾を感じられずにはいられなかった。言うまでもなく、全空連が採用する組手試合のルールは「寸止め制」である。寸止め制の試合では、相手に「技を当てない」ことが原則であるため、極真空手を始めとした「直接打撃制」を採用している空手の試合とは、様相がまったく異なってくる。
いかに相手より早く、タイミングよく打ち込むかが勝利への最大要件となってくるため、そこには相手を倒すためのパワーやコンビネーションの概念はない。そのため、攻撃はほとんどが単発であり、技も直突きもしくは前蹴りに限定される。むしろ重要視すべきは、一発の攻撃の威力よりも、その後いかに審判にアピールするかという「動作」や「気合い」にあるようにさえ見えてくる。
さらに、相手に攻撃を当てられる心配がないため、受けの技術は試合ではほとんど見られない。これは攻防一体が絶対条件の「直接打撃制」による格闘技では考えられないことである。
以上の点から、寸止め制の試合では、おおむね単発の攻撃が交錯してはいったん試合がストップし、また同じように単発の攻撃がくり返されるといった試合様相がほとんどといってよい。そこには、選手個々の個性などはみじんも感じられない。「選手個々の個性」といったが、これが仮に松濤館や剛柔流のように、単一の流派が開いた大会であるならば、「流派の個性」のもとで、選手たちの個性が均一化されても仕方のない面はある。空手の理念や系譜が流派によって違うのは当たり前だし、各流派が目指す理想に対して外部がとやかくいうべきことではないからである。ただしそれが、各流派の連合体である全空連の大会となると、話は違ってくる。
「寸止め制」は、もともと松濤館で行なわれていた練習法から生まれたもので、それを後に全空連が採用したという経緯がある。しかしそれは、離れた間合いからの直線的な動きに特色がある松濤館でこそ通用するルールではあっても、剛柔流のように近い間合いからの曲線的な動きに特色がある流派にとっては、自分たち本来の技が禁止されてしまったに等しい。
寸止め制によっていかに空手本来の姿が失われ、その結果技術が停滞、もしくは死んでしまった流派がいかに多いのかを考えると、格闘技としてだけでなく、空手の伝統性も失われてしまっているように思えてならない。
大会では型の試合も行なわれ、そこでは各流派で継承されている型が一応は披露されていた。しかし、本来格闘技である空手の伝統的な技を、組手ではなく型でしか見られなくなってしまったことを、各流派を学んでいる人たちはどのように感じているのだろうか?
格闘技、伝統武術として見た場合の全空連空手への疑問は尽きない。
(松田努/mugensha)


全空連の全日本選手権を観戦して、改めて伝統派(寸止め)空手のもつさまざまな疑問と矛盾点が浮かび上がってきた。
まず、この競技は本当に格闘技と呼べるものなのかという素朴な疑問である。空手の攻撃の主体となる突きと蹴りを、技が相手に当たる寸前で止めるということ自体、実際に技を当てる極真空手やキックボクシングを見慣れた私にはもともと理解しがたいことであった。
寸止めルールは、技を当ててはケガなどの危険がともなうということで、考慮されたものだが、そこには格闘技のもつ攻撃力の凄まじさ、闘争心などはまったく見られない。
結局、相手よりも速く技を入れることのみにテクニックが集約されており、技に入るタイミングとスピードのみが重視されているのである。
組手ルールは、1本(3ポイント)、技あり(2ポイント)、有効(1ポイント)と攻撃を当てた部位と技によって3種類のポイント制にわかれていた。競技として見た場合、ポイントの多寡で勝敗が決まるので、微妙な判定がある極真空手などに比べ勝敗がわかりやすい。さらに、極真空手の試合で見られるような延長、再延長戦が行なわれずスムーズに進行していた点は評価すべきことである。
しかし、果たしてこれが格闘技の試合か?と言われれば首をひねざるを得ない。総体的には、組手は遠い間合いからすばやく相手の懐へ飛び込み、顔面への直突きを決めるという単発的な攻防が続いた。技が直突きと前蹴りにほぼ限定されてしまい、直線的な攻撃に頼った試合様相が殆どである。ルール上では禁じられてはいないはずの回し蹴りや後ろ回し蹴りを出す選手もなきに等しかった。
そして、そこに松濤館流、剛 柔流、和道流、糸東流といった各流派の伝統的な個性を見ることができなかった。現在は、各流派の統一大会を全空連のもとに開くため技術体系が一本化されてしまっている。つまり、寸止めルールを取ることによって空手本来の技が著しく制限されてしまっているのだ。各流派の個性を独自の「型」にしか見出せないというのは、あまりにもさびしいことである。空手の流派にはそれぞれ系譜があり、各流派には独自の技術が存在してきた。例えば、剛柔流であれば、接近してからの曲線的な技に特色があるとされていたが、今大会の組手試合でその動きを見ることはできなかった。
全空連の空手を競技として捉えれば、これもひとつの形ではあるのかもしれない。オリンピック参加を目指す「スポーツ空手」として続けていく姿勢に対して疑問を挟み込むつもりはない。
しかし、格闘術としての空手を考えた場合、あまりにも非力で説得力のない攻撃しか見せられないこの競技を、極真空手やキックボクシングなどの格闘技と同様に捉えることは私にはできない。
(飯田賢一/mugensha)


「伝統空手と全空連空手」

「寸止め制」が格闘技としての体裁を有してていない事は過去、何度も主張してきた通りである。
それでも全空連にも1つだけ大きな進化を見せている物がある。それは防具だ。かつては空気を入れて膨らませる風船形式のメンホーと呼ばれる防具を使用していた。だが幾つかの改良が施され、現在のようなより安全性に優れた防具が開発された。衝撃を軽減する目的で作られたスーパーセーフを着用してノックダウン・ルールによる試合を20年も続けている大道塾に比較して(大道塾代表・東孝は大道塾発足当時から新防具の開発を公言していた)、全空連が採用する防具は時代を追いながら確実に進化を遂げてきた。
ただ、私が納得出来ないのは、それほどまでに完成度の高い防具を採用しながら、何故「寸止め制」にこだわり続けるのか?という事である。極真会館が「直接打撃制」による大会を開催して既に35年が経過した。また硬式空手などの「防具着用によるコンタクト・ポイント制」の大会も確実に勢力を伸ばしている。この間、極真会館でさえ若干のルール変更が繰り返されてきた。
「寸止め制」は1957年、日本空手協会と大学連盟が採用してから約50年が過ぎた。この間、極真会館を中心としたフルコンタクト空手の台頭により確実に空手界の様相は変化してきた。
しかし、如何に新防具を開発しようが、「スポーツ空手」としてオリンピック参加を提唱しようが、そして金澤弘和(日本空手協会第1回全国王者・国際松濤館館長)ら進歩派・改革派が如何に「打撃制」の採用を呼び掛けようが、全空連は頑ななまでに「寸止め制」を堅持し続けた。たとえライトコンタクトでさえ一切認めようとはしなかったのだ。
そこに全空連という組織の閉鎖性と時代錯誤的意識の全てが凝縮していると言えるだろう。
「技術は競技ルールに従って進化する」という原則から見れば、全空連が唱え続ける現行の「寸止め制」に従う限り松濤館や剛柔流といった各流派の特色が消滅するのは必然である。もはや全空連に加盟する流派には組手技術に関する限り固有の稽古法も鍛錬法も殆ど存在し得なくなってしまった。
このような事態を予想し怖れたからこそ、剛柔流の山口剛玄は全空連から離脱したのである(現在は復帰)。全空連結成の立役者であり「元老」にまで祭り上げられたにもかかわらず、全空連脱退を決意した山口剛玄には「伝統」を守る大義があった。それは和道流創始者・大塚博紀も同様である。
このように考えてみると、全空連傘下の各流派はもはや「伝統空手」という範疇には入らない事が分かるだろう。
そもそも「伝統空手」という呼称は、1980年代半ば、極真会館系の空手を「フルコンタクト空手」と名付け、「月刊空手道」で使用した際に、その対抗勢力であった全空連傘下流派を指す言葉として私が命名した(「伝統空手」という名前を誌面で最初に取り上げたのは山田英司であるが)。
もはや「伝統空手」は全空連に汲みしない少数の本土の古流流派と沖縄で独自に活動する流派にしか当てはまらない。今後、私は全空連傘下の流派や、「寸止め制」を採用する流派を「全空連空手」「スポーツ空手」または蔑視の意味も込めて昔ながらに「寸止め空手」と呼ぼうと思う。
かつて全空連傘下の流派は「組手試合こそ技術的に均一化されたが、型だけには各流派の個性が生きている」と胸を張っていた。だが、現在の全空連では、型試合からも流派色は消えつつある。全空連は競技化を推進する目的で「全空連指定型」制度を導入した。指定型には、松濤館や剛柔流、和道流など有力流派の型が採用されてはいる。
しかし競技である以上、例えば松濤館の型の演武を和道流の師範が採点するのが当たり前になる。必然的に、その型が内包する武術性や伝統性よりも形式的な「美観」が優先される。つまり型試合は「フィギュアスケート」や「新体操」などと同様のスポーツ競技として扱われいるのである。
このように、今や全空連空手を格闘技や伝統云々で論じる時代は終わったと私は認識している。もはや全空連空手には流派は存在しない!
これが私の見解である。そして私は確信を持って言うが、全空連首脳部は組織の設立当初から流派色の抹消を目論んでいたに違いない。つまり現在の姿は全空連が求めた「空手」の集大成といっても過言ではないだろう。

(小島一志)

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