2007年10月20日

投稿/『カリーおじさん』に愛を込めて…。〜一撃会範士・THE ROCK-MAN

「カリーおじさん」に愛を込めて…

我が人生に悔いはなし。カリー界の巨星墜つ!



有限会社タージマハールの創業者。「カリーおじさん」こと山田泰(代表取締役)が去る2007年1月29日午前10:06分に心不全のため永眠した。享年59歳。


故・山田泰は23歳で上京。インド料理店デリー高岡末広町支店に入店。その後、軽井沢店に移る。インド料理のノウハウを会得し、デリー高岡ステーションデパート・デリーあわら店を経て、1988年、富山市栃谷でカリーとインド料理のお店「タージマハール」(現・有限会社タージマハール)を施す。
80年代前半から、デリーにおいて天才的な才能をいかんなく発揮した山田は、インド固有の特色を維持しながら独自にアレンジを加え、メニューのみならず、その本格的な味は多くのファンを集めた。また、どこか古きよき昭和の香り漂う雰囲気の店内・外観は特に中高年層に好まれた。
身長160センチ、体重75キロ、3頭身で小太りな体型、パーマ頭(70年代後半〜80年代後半頃と晩年はオールバック)に髭の「だるまさん」のような愛嬌のある風貌は中学、高校生などの若年層にも「カレーおじさん」の愛称で親しまれた。
デリーあわら時代の80年代前半は、ブラックカシミールカリーをシリーズ化して大人気を博した。「タージマハール」では、このブラックカシミールカリーの味の精練と向上に力を注いだ。さらにレッドカシミールカリー、グーンカシミールカリーで富山県内の「辛いものブーム」に火をつけたのも山田である。
また、シーフードカリー、ナン、スパイスソースのかかったタンドーリチキンなど、20数年前の人々には全く馴染みのない料理を人気商品へと押し上げ、「毎日行列の出来るカリー屋さん」として、県内のグルメブームに一石を投じた。


タージマハールでは、従来の「カリー屋さん」から「インド料理レストラン」への脱皮に成功。独断専行型で郷土主義者の山田は、カリーをデリー時代のカレーよりもさらに改良し、インドのカリーでも、洋食カリーでもないタージ特有でかつ、米どころの富山県民の味覚に合うようなカリーメニューを模索した。試行錯誤の末、ついに現在の定番メニューである「定食」を完成させた。
「定食」とはカリーをお味噌汁に見立て、ご飯とメイン料理、サラダがついたメニューの事を言う。カリーはご飯にかけるものだが、お味噌汁のようにスープとして味わう事も出来るメニューに仕立て上げ、これが幅広い層にうけた。「定食」の中でもタンドーリチキン定食(タンてい)や、から揚げ定食(カラてい)は、現在もおなじみのメニューとして一般層に好まれている。
常連の中では著名人も多く、カリーフリークを自称するミュージシャンの黒沢薫氏(ゴスペラーズ)は自身の富山公演において「タージのカレーは世界一」と賞賛し、同じくカリー好きで知られる作家・小島一志氏(「大山倍達正伝」著者)は「東京のカレー店はくまなく回ったが富山のタージマハールが一番うまい!」と絶賛している。
全国の有名チェーン店などにも多大な影響を与え、また経営者としても「オレ流」を貫き、その卓越した独特の手法は飲食業界のみならずジャンルを超えて支持された。


近年は、主な事業を長男に託し、泰がこよなく愛した国、スリランカの貧困層の子供たちのために学校を建てるという壮大な構想を立ち上げ、スリランカ政府に表彰されるという文化的な一面ものぞかせていた。
「カリーで世界平和や!」生前そう語っていた事もあった。
山田家は家系的に気性が激しく短命のため、縁者が極端に少なかった。そんな家系で幼少時代に重度の気管支炎ぜんそくに冒され、死線を何度もさまよった経験からか、孤独を嫌い無駄な論争を嫌った。厨房では店員に決して怒鳴りつける事はなかった。
カリーに燃えカリーに生きた山田は、プライベートでの趣味はこれと言ってなかったが、晩年は新しく増設した店内のカラオケルームで、石原祐次郎の「我が人生に悔いはなし」を熱唱していた。
徹底した合理主義かつ楽天家であり、強烈な郷土主義ぶりは「富山発」というタージマハールのキャッチフレーズに表れている。そして風貌には似つかわしくはないが、店内では埃一つ残す事をゆるさない潔癖症でもあった。床にガムテープを張り店内の隅々まで埃やチリ、髪の毛などを一本残らず取り去るのが日課だった。
毎日ガムテープを片手に店内を歩き回るその姿は、その昔劣悪な環境の中、幼少時代におかされた喘息の再発予防だったのかもしれない。親族が少なく孤独を嫌った山田は、近しい人間には血縁関係がなくとも「親族」として扱う事を好んだ。
店員として働くスリランカ人を「家族」として見立て、今年の2月にスリランカの学校設立のための土地を確保するためスリランカへ視察に出かける予定だったが…。
1月29日午前10:06分、家族が見守る中、必死の蘇生の甲斐もなく心不全により、帰らぬ人となった。急死だった。「カリーおじさん」らしく店内にある自室での最後だった。


謹んで故人のご冥福をお祈り致します。そして故人の遺志を受け継ぐ決意とともに。
合掌。



一撃会・範士 THE ROCK-MAN



※小島より
この原稿は、元々は「THE ROCK-MAN」氏が私への決別の思いを込めて送ってきたものである。
某月某日、一撃倶楽部の解散を一方的に決定する私に対し、結社の絆を重んじる彼は必死に反対した。結局、彼の熱意をはじめ仲間たちの結束力の前に、私は「一撃倶楽部」を「一撃会」に名称変更することで、再会を決意することになる。
「THE ROCK-MAN」は、この原稿によって、自らの熱い思いを私に託そうとした。また彼の覚悟の言葉だと私は理解した。
この原稿をブログに掲載することについて、私は「THE ROCK-MAN」氏に許可を得ていない。親族・仕事関係のしがらみから、掲載についてOKをできないだけでなく、彼自身の主義としても、せめて山田氏の喪が明けるまでは公開したくないという思いもあるようだった。
しかし、私はあえて独断的にこの原稿の掲載に踏み切った。私は逆に、「THE ROCK-MAN」の山田氏への敬慕を一刻も早く公開することこそが、山田氏への弔いになると判断したからである。
この原稿の掲載について、全ての責任は私・小島一志にあることを、ここに明らかにしておく。

samurai_mugen at 02:53 │clip!投稿 

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