2007年08月

2007年08月30日

小島一志作品集/「息子に捧げる」(2001年1月・夢現舎HP)&Photo-Gallery

「息子に捧げる」


息子・大志の私立中学受験が迫っている。
この数年間、連日勉強漬けの生活を送ってきた。塾の日は毎日帰宅が午後11時を軽く回った。完全徹夜で練習問題に挑んだことは数知れない。成績が振るわず私に激しく叱咤されたこともある。怠けていて顔がスイカのようになるまで殴られたこともあった。
試験を控え、ひとり黙々と机に向かう大志の横顔を見ながら、私は何年か前のことを思い出していた--。


当時、大志の生活は極真空手を中心に動いていた。
幼稚園入園式の日に大志は極真会館に入門した。それからというもの、週4回の道場稽古(城西に移籍してから)。それ以外の日は私との練習に明け暮れた。ミットを何百本も蹴った。体中にプロテクターを付けてスパーリングを繰り返した。
大志はメキメキ上達した。城西支部主催の交流試合で3連覇を果たしたあと、師範の江口芳治は大志に全日本選手権の出場を促した。
こうして迎えた全日本少年選手権。私は試合場に登る大志の姿を見ながら、やるせないほどの無力感を覚えずにはいられなかった。今の私に出来ることといえば、ひとりで試合場に上がる大志をただ見守ることしかないのだ……。


ところで、私と大志の関係は傍目からも相当濃密に見えるようだ。そこに「過保護」に近い親子関係を見る人も少なくないようだった。だが、私は一度も序列的な親子関係としてふたりの結びつきを捉えたことはない。私の家族は大志しかいない。私にとって大志は常に「同志」だった。大志は「こども」ではなく、一個の「人間」であった。
先日、ある小説のなかにこんな一節があるのを発見した。
「自分を心から大切に思い、信頼し、頼ってくれる人をこそ、男は生命を懸けて守り愛しぬくのだ……」
これを読んだとき、私は千日の眠りから目覚めたような衝撃を受けた。とっさに塚本佳子を思い浮かべ、同時に大志の顔が浮かんだ。この言葉は何も男女のことだけでなく、どんな関係にも当てはまるのだと思った。


あの日の全日本少年選手権。
結局、大志は決勝戦で敗れた。試合後、彼は私にいった。
「僕は、本当にこれ以上出来ないってくらい精一杯やったよ。自分の力を全部出し切ったっていう実感がある。優勝は出来なかったけど、本気でやりぬいたっていう気持ちになれたから、俺は満足だ」
そして、少し照れたように続けた。
「ひとりで戦っているなんて思わなかった。どんな試合も僕はパパと一緒に戦ったんだ。だから精一杯自分の力を出せたんだと思う」
私は、あの練習漬けの日々が決して無駄ではなかったことを実感した。そして改めて、私は生命を懸けて大志を守らなければならないと思った。


ちなみに翌年に開催された日本少年選手権。
大志は前回のチャンピオンと準々決勝で当たった。大志の前蹴りが見事に決まり、相手はダウンしたまま試合場で泣き崩れた。相手選手の親は必死に「金的」反則をアピールした。
その執拗さに、審判団も圧され、「安全第一の少年大会だから」という理由で金的か否かを明確にしないまま、大志は反則負けを宣告され、相手は救急車で病院に運ばれた。数十分後、私は病院に同行した松井館長の秘書Mから携帯に電話をもらった。Mは嬉しそうに言った。
「小島さん、反則じゃない。金的じゃない。おへその真下に痣ができていました。明らかに一本勝ちです。医者の診断書ももらいますから、大志は勝ちです!」
嬉しかった。
だがすでに判定は下っていた。でも、次の試合は始まっていなかった。私はMの報告を審判に説明したが、当時の少年大会のルールでは「ノックダウン制」にもかかわらず、相手選手にきわめて深刻な怪我やダメージを与えた場合は「強打」としていずれにしても反則になってしまうそうだった。私たちは諦めた。
私は大志に「試合で負けても勝負で勝った。それも相手をノックアウトして借りを返した。それでいいじゃんか」と言った。大志も黙って頷いた。だがやはり悔しそうな表情は消えなかった。


受験を目前にして、私は大志にいった。
「勝っても奢るな。負けても卑屈になるな」
塚本佳子が自らのドキュメント作品のなかで書いていた。
「トーナメントにはたったひとりの勝者しかいない。たとえ2位であれ3位であれ、彼らはすべて敗者なのだ。ならば、私は思う。そのたったひとりの勝者は、例外なく敗者たちのなかからしか生まれないのだと。最初から勝者であり続けられる人間など皆無なのだ」
たかが空手、たかが受験。
そんなちっぽけな世界の勝ち負けなんて人生のなかでは些細な意味しかもたない。
大切なことは、それに向けてどれだけの血と涙と汗を流したか……、そしてそこから何を学び得たのかでしかないのだ。その場だけで終わってしまう勝利より、次に続く敗北の方がずっと意義がある。


──私は大志にいった言葉は、いつも自分自身にいい聞かせているものである。
ここ数年、私は息子・大志との付き合いを通して、闘うことの意味や、人を愛すことの素晴らしさを学んだような気がする。ある意味、息子の大志は私にとって「人生」の師でもあるのだ。


(2001年1月 夢現舎HP)



《Photo Gallery》
●小学1年(撮影/塚本佳子)
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●大学1年(2007年6月)
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●松井章圭館長から頂いたベンチコートを着て!(2007年8月)
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●番外
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samurai_mugen at 01:57|Permalinkclip!単発コラム 

2007年08月28日

小島一志作品集/芦原英幸について(2001年4月)

2001年4月 
「芦原英幸について」


私はこれまで機会あるごとに書いてきた。芦原英幸こそ、最高にして最強の空手家・武道家だったと――。
もっとも、何を以て最強とするのかということを突き詰めていくならば、それはナンセンス以外の何物でもない。ならば、次のように言い換えてみよう。
私が過去出会った数百人といっても過言ではない多くの武道家・格闘家たちのなかで、芦原英幸ほど「闘う」ことに対して真摯であり続け、生命を賭する格闘に身を曝してきた武道家を私は知らないということだ。その上で、芦原ほど人間的な魅力に富み、自分自身に対して正直であり続けた男もいないと私は断言する。
芦原に関するエピーソードは数知れない。もちろん、すべて私が自分の眼で見、自分の身体で体験したものばかりである。ここではスペースの都合上、あえてそれらのエピソードについては触れないでおく。だが、少なくとも「強さへの希求」そして「闘い」ということに対する姿勢と技術についていうならば、芦原は紛れもない天才であり達人だった。
その圧倒的な肉体的強さに対する自信があるからこそ、芦原は周囲の人間たちの前で常に無警戒かつ無頓着だった。その天真爛漫さゆえ、芦原は自分の長所も短所も、強さも弱さもすべて周囲に曝し続けた。他人に対して頭を下げることも厭わず、時には敵意ある視線に対して笑顔で答えることもした。
芦原の「強さ」を知らない人間は、そんな芦原の態度を見て過剰なほどに反応し、芦原を侮蔑した。たとえば三瓶啓二が好例だった。だが、仮に芦原が三瓶と闘うことがあったならば、三瓶は5秒と健常ではいられないに違いない。確実に三瓶は殺される。しかし、きっと彼らは内心で芦原の怖さを知っていたはずだ。
だから、彼らは常に芦原を遠巻きにし、小さな声でつぶやくように芦原を罵倒したのだ。決して芦原の耳に直接届くようには言わない。もっとも、たとえそんな罵詈雑言が芦原の耳に届いたとしても、芦原は意にも介しなかった。
「奴ら、みんな弱虫じゃけん。誰一人わしに喧嘩を売れる奴はおらんけん」
そういうと、いつも言って笑っていた。
ひとつだけ芦原の思い出話を書いておく。
ある日、私は芦原と一緒に車で大阪から神戸に向かった。道場生が運転する車は高速を飛ばしたが、下りる出口を間違えてしまった。慌てた道場生はバックのままもとの車線に戻ろうとした。車が何台も100キロを越えるスピードで走り抜けて行くなか、芦原の車は立往生してしまった。すると、芦原は血相を変えて「おい○△、わしはすっごい怖いけん。助けてくれ、頼むけん!」と大騒ぎし始めた。
自分の喜怒哀楽の感情を弟子や私のような他人の前で平気で見せられる芦原に、私はなぜか深い感慨を覚えたものである。自分を飾らず、正直に、そしてありのままに生きることは簡単ではない。
人は自分の弱さを隠そうとするものだ。自分の強さを無意識に誇示しようとするのも人間の性だろう。他人の悪意に対して攻撃的な眼を向けるのも防衛本能を有する動物の本能だ。
しかし、本当に強い人間は、どんな情況のなかでも泰然と自分の「弱さ」を解放することが出来るのかもしれない。私にとって芦原英幸は永遠のヒーローである。人間としての「強さ」の意味を教えてくれたのも芦原だった。さらに言うならば、私が現在、こうして夢現舎の代表として、編集者・ライターとして生きていられるのもすべて芦原のおかげである。
――息子の入試も終わった。大志にとっては長い4年間の闘いも、2月1日からの5日間で終わりを告げた。ただ、この5日間は私達親子にとってあまりにも辛く、苦しい時間だった。
それでも大志は最後の最後まで闘い抜き、自らの手で合格の切符を手に入れた。10倍を越える難関を大志は自分の力で突破したのである。人は大志の合格を奇跡だといった。しかし、たとえそれが奇跡だったとしても、その奇跡を呼び込んだのは紛れもない大志の力なのだ。
これでひとつ、親としての私の仕事も終わった。これからは、しばらく自分のために、物書きとしての「夢」のために生きてみようと思う。
そして、いつの日か――。
いつの日か、私は自分の思いの丈をすべて込めて芦原英幸についての本を書きたいと思っている。3年前、私は大志と一緒に芦原英幸の墓の前で手を合わせた。今度は、私が心から信頼できるパートナー・塚本佳子とともに芦原のもとに行きたいと思う。そして、芦原と2人で歩いた松山の街を、八幡浜の港を…、ゆっくりとあの日に戻って噛み締めてみたい。



(2001年4月 夢現舎HP)

samurai_mugen at 22:27|Permalinkclip!小島&塚本作品集 

小島一志作品集/「地に堕ちた空手の権威」(2000年12月)

2000年12月
「地に堕ちた空手の権威」


先日、某ラジオ局の取材を受けた。現在の格闘技界の状況についてインタビューしたいということだったのだが、その際、担当のプロデューサーが言ったひとことが、いまでも頭の中にこびりついている。
「いまや空手が最強だなんて誰も信じちゃいませんよ。空手よりキック、キックより総合格闘技の方が強いことは常識でしょう」
そういえば、私が住むマンションにも自称格闘技マニアの奥さんがいる。この前ロビーで顔を会わせた時、彼女は私にこう言った。
「極真空手って強くないんですね。大山倍達が死んじゃったから急に弱くなったんですか?世界王者のフィリォはKOされるし、ペタスやグラウベは咬ませ犬同然だし。黒澤浩樹もあんなに弱かったなんて…。もう嫌になっちゃって、息子を辞めさせて正道会館でもやらせようかってダンナと話してるんですよ」
ちなみに彼女の息子(小4)は近所に出来た極真空手の道場に通っている。
「空手は弱い……か」
私は最近よく考える。たしかに「最強論争」ほど下らないものはない。空手とキックボクシングを比べることなどナンセンス以外のなにものでもない。いま、空手が競技として存在する以上、ルールも技術も「実戦」そのものでないことは当然だ。
しかしである。現在のように空手が広く普及したのは、大山倍達始め多くの先人たちが頑なままでに「最強たる空手」を唱えてきたからこそではないか。たとえそれが胡散臭いスローガンであったとしても、「空手こそが最強」という熱い誇りこそが空手家たちに「最強たらんとする猛稽古」を科し、「空手界の繁栄」を作ったことは紛れもない事実なのだ。
にもかかわらず、いま空手界は「最強」という言葉を自ら放棄しようとしている。
それは、真摯に強さを求めるのが故のもがきでもなければ諦念でもない。一時の繁栄と目先の商売のために、空手家たちは自らの誇りさえも捨て去ろうとしているのである。
最近の日本政治の混迷──超低空飛行を続け、恥の上塗りを重ねつつも、その恥さえも見ようとしない断末魔の森喜朗政権。「数合わせの連立内閣」「橋本派主導の密室政治」「バラマキだけの日和見政策」…。
良識ある国民ならば、誰もが近い未来、日本はダメになると危惧しているだろう。
同様に、良識ある「武道人」ならば、誰もが空手界の未来を絶望視しているのではないだろうか。ショービジネスに踊っているのは、カネに目が眩んで周りが見えない当事者と浅薄なファンだけである。空手界を操っている「黒幕」たちは、いまこの時でさえ冷徹な計算をしつつ、シニカルな笑みを浮かべているのだ。



(2000年12月 夢現舎HP)

samurai_mugen at 22:05|Permalinkclip!大山倍達の遺言・真実の追究 

小島一志作品集/「格闘技ジャーナリズムの確立を期す!」(2000年8月)

2000年8月 
「格闘技ジャーナリズムの確立を期す」


私が何故、近年の格闘技界に大きな危機感を抱いているのか? その理由は拙書のなかで何度も繰り返し書いている。本来、格闘技は実践者のために存在してきた。格闘技もスポーツも、それを必要とし、それを実践することで楽しんだり学んだりするヒトたちのためにこそあるのではないか。それこそがスポーツや格闘技の第一の存在理由である。
観て楽しむことを否定するつもりはない。観客やファンを魅了する演出や努力が格闘技に求められていることも否定しない。だが、それは決して格闘技の至上命題ではない(それはたとえプロであっても例外ではないと私は思う)。
にもかかわらず、近年、格闘技界は急激にエンターテインメント化が進みつつある。「観て楽しければいい」といった考えは、結果的にビジネス至上主義に行き着く。その一方で、何か大切なものが忘れ去られようとしているのではないか?
私は20年間、格闘技メディアの世界に生きてきた。以前から格闘技界は魑魅魍魎、伏魔殿である。他を否定し、自己のみを可とする風潮は遥か昔から格闘技界の常識である。しかし近年、格闘技メディアは格闘技界との運命共同体と化し、一蓮托生の幇間に成り下がった感がある。それは癒着そのものであり、そこにはジャーナリズムなど存在しない。そういうただれきった空気に私は嫌気がさしているのだ。
決してエンターテインメント路線に迎合することなく、格闘技の本質を常に問い続ける姿勢。格闘技界の未来を思うがゆえに、ときには厳しい批評を書くこともある――そんな本物のジャーナリズムを私は望むのだ。そして、格闘技ジャーナリズムの確立を期す新しい媒体――格闘技専門誌発刊の実現を、いま私はスタッフたちと模索中である。


(2000年8月 夢現舎HPについて)

samurai_mugen at 21:49|Permalinkclip!小島&塚本作品集 

小島一志作品集/「格闘技界を考える」(2000年7月)

2000年7月
「格闘技界を考える」


私はこの20年、編集者兼作家として格闘技の世界に関わってきた。『月刊空手道』編集長を経て独立。(株)夢現舎を設立後、多くの格闘技関係の媒体を制作してきた。私自身の作家としての活動は、今から10年前『最強格闘技論』を著したのがスタートとなる。以来、合計15冊の単行本を書いてきた。
この間、いわゆる格闘技雑誌がカバーする格闘技界――空手、キックボクシングなどの新興格闘技――は相変わらず伏魔殿の世界である。競技であるはずの空手やキックボクシングが、プロレスと同列の「マットショー」になってしまっていいはずがないのは自明である。
にもかかわらず、選手や練習生を無視したプロパガンダとショーイズムの追求はもはや末期的様相を呈しているといっても過言ではない。昨年、私は『実戦格闘技論』の中で同様の論を展開したが、最近の格闘技界はさらに情況が悪化しているような気がする。その中でも特に私が憂慮しているのは極真空手の変質だ。
大山倍達の死去以来、トラブル続きの極真会館だが、現在でもいっこうに組織分裂は止む気配がない。今では「極真」を名乗る団体が一体どれほどあるのかさえ検討もつかないほどである。
各団体が生存競争と権力闘争に捉われるあまり、「極真空手」そのものが大山が健在だった頃の姿ではなくなりつつある。そして大山が提唱した「最強の極真空手」という言葉も死語になり果ててしまった。
それは、情報の多様化によるファン意識の変化だけが原因ではない。大山倍達が長年かけて作り上げてきた「極真伝説」「極真魂」を、かつての大山の弟子たちがどれだけ遵守しようと努めてきたのか? 目先の権力闘争に捉われるあまり、自らの手で大山が遺した財産を崩してきたゆえの結果だと私は思う。私は何もストイックなアマチュアリズムを主張しているのではない。たとえアマチュアであっても、観客やファンを無視する姿勢は生存そのものを放棄することとイコールである。しかし、それには限度があるだろう。空手を「武道」というならば、決してショーイズムに染まってはいけない。
私は最近、可能ならば格闘技とはまったく関係のない、異次元の世界で生きてみたいと思っている。正直いって格闘技界の情報や噂話もうんざりである。この世界で仕事をしてきて20年、初めて心底から格闘技界が嫌いになった…。


(2000年7月/夢現舎HP・コラム)

samurai_mugen at 21:28|Permalinkclip!小島&塚本作品集 

2007年08月26日

雑話/愛犬「エル」は甲斐犬の13歳!(07/8/26)〜完全版

●愛犬「エル」は13歳

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うちにはエルという犬がいる。
甲斐犬といって天然記念物に指定されている貴重な犬種だ。自慢するわけじゃないが、犬に詳しい人ならばご存知の通り、甲斐犬は実に頭がよく忠実で、しかし気性の荒さも並ではないことで知られている。
伝説によれば、武田信玄が「スパイ犬」「忍者犬」に使ったと言われる。太平洋戦争前、ABCD包囲陣によって国際的に孤立した日本には軍用犬であるシェパードやドーベルマンが入ってこなくなった。そこで日本陸軍は甲斐犬を軍用犬として育てた。すると、なんとシェパードよりずっと優秀で驚いたという逸話もある。
ただ甲斐犬の弱点は繁殖力が弱いところだった。そのため、戦後は再びシェパードが警察犬として採用されることになった。
甲斐犬は日本犬のなかでは比較的小型である。柴犬よりは大きいが、「中型犬」の部類でも小さい方だ。全身が黒い。しかし成長するに従って、黒のなかに虎のような白もしくは茶色の模様が浮き出てくる。一見、雑種のようだが、よく見ると格好いい。

私が犬を飼おうと思ったのは、いまのマンションに引っ越してからである。うちは6階建ての最上階にあり、四方に広いルーフバルコニーがある。非常階段を登れば屋上だ。お隣さんもないし、迷惑をかけることもない。だから番犬にしたいと思ったのだ。

私の実家では、私が生まれて以来、現在まで犬と猫を切らしたことがない。父親が大の犬好きだったこともあり、私は犬や猫に囲まれて育った。
私が中学から高校時代、実家にはメルという秋田犬がいた。真っ白な体でかなりデカい犬だった。ただ父親が犬に甘いため、実家の犬は伝統的に躾がなされていなかった。だから、よく吠えるしバカな犬ばかりだった。そのなかで、秋田犬のメルだけは特別利口だった。やはり犬も雑種より血統書つきの方が頭がいいのかと感心したものだ。
ところで、飼い犬は人間に順列をつけるという。実家の場合、当然ボスは父親である。次が私で、その次が母親。幼い弟は勿論ビリである。だが、躾ができない父親に代わって私はメルを厳しく教育した。ときにはレンガで殴ったりもした。勿論、父親のいないところでだ。父親は自分が博徒のくせに、犬だけは「猫可愛がり」した。私がメルを叩くものならば、私が父に日本刀で追われるハメになる。だから、ひょっとするとメルにとって本当のボスは父親ではなく私だったかもしれない。実際、メルは父親の命令には従わなかったが、私には従順だった。
私は受験勉強に疲れると必ずのようにメルを連れて自転車で散歩にいった。ある日、私は農道を自転車で走っていた。向こうから明らかにチンピラがバイクをくねらせながらゆっくりと近づいてきた。こんな狭い道を! ケンカかイチャモンでもつける気配がありありだった。
私は諦めた。いちいち利根川や梁川の名前を出していても仕方がない。するとチンピラは本当に私の前でバイクを止め、私に「銭を貸せ」と凄んできた。私が知らない顔だった。
私が何よりも注意したのは、相手が刃物を持っているかどうかだった。もし刃物を持っていたら為す術がない。
当時の私は柔道部に所属していたから組み付かれる分には何とかなる。殴られても殺されはしない。だが刃物を出されたらヤバイ…。ところが運の悪いことに、相手は懐からナイフを取り出した。最悪の事態である。
私は身の回りを確認した。だが農道のど真ん中だ。盾になるものなど自転車くらいしかない。私は覚悟をした。その瞬間である。それまでジッとしていたメルがチンピラに飛びかかった。そしてガブガブと相手を咬み続けるではないか! 相手は全身血だらけになり動けなくなった。
私が「メル! もう止め!」と言っても暫く咬み続けていた。メルが攻撃を止めると、直ぐに私は相手のナイフを奪った。そして、警察に電話するか、梁川の「兄」に連絡するか悩んだ末、面倒にならない方ということで、私はわざわざ公衆電話のあるところまでいって梁川に電話した。
そのチンピラが、その後どうなったかは知らない。ただ、私は初めてメルが頼もしくなった。同時に「番犬」は役に立つと思った。
ちなみに、メルには「咬み癖」があった。父親の躾がなっていないせいで、その後、何人もの私の友人がお尻を咬まれた。

私は最初、ブルテリアを飼いたいと思っていた。ブルテリアはブルドックとテリアの混合で、体は小さいが番犬に最適と聞いていた。それに、ヌボーっとした風貌が可愛いと思ったのだ。だが、なかなか理想的なブルテリアはいなかった。
そうこうしているうちに、ペットショップで、どこかのオジサン数人が「何といっても犬は日本犬だよ。なかでも甲斐犬はいちばん!」と話しているのを聞いた。私は思わず、オジサンたちに甲斐犬について質問した。すると、甲斐犬を扱っているというペットショップを紹介してくれた。
数日後、私はそのベットショップを訪ねた。だが、いまは売れる犬がいないという。それでも主人は言った。
「甲斐犬を飼ったらもう他の犬は飼えないよ。忠実さはNo1さ。ケンカは強いし番犬には最適だよ。ただ気性が物凄く荒いから、飼い馴らすのは大変だ」
私はすっかりブルテリアを忘れ、甲斐犬が欲しいと思うようになった。しかし、なかなか手に入らないという。しかも甲斐犬は繁殖力が弱いので純血種は少なく、つまらぬペットショップだと混合種を掴まされるとも聞いた。
そんなときである。縁とは不思議なものだ。
夢現舎の塚本佳子の実家に甲斐犬がいるというのだ。驚いた私は塚本に聞いた。すると、中野の甲斐犬愛護協会に頼めば買うことができるという。ただ、そのためには紹介者がいないとダメらしいのだ。私は迷わず塚本のお父さんに、紹介者になってもらえないかと頼み込んだ。

1994年秋。
こうして我が家にやってきたのがエルである。
ちなみに、愛護協会では紹介者の犬と血統の近い犬を売るという。つまりエルは塚本の家の甲斐犬と兄弟か血統的に近いということになる。
「エル」という名前は勿論、実家の秋田犬・メルからもらった。しかしエルには本名がある。天然記念物に指定され、血統を重んじる甲斐犬愛護協会では、きわめて厳密な血統書を作成している。エルは血統書の上では「勝龍」となっている。つまり、「カツリュー」というのがエルの正式な名前である。
愛護協会の方は直径約1センチで30センチくらいの長さの竹棒を持ちながら言った。
「この犬は絶対に甘やかしてはいけません。このような棒で鼻っ柱を叩いて躾るんですよ。鼻が傷だらけになっても大丈夫です。そうしないと、とんでもない荒犬になってしまう」

生まれて3か月のエルはやたら鼻だけが長い、惚けたような顔をしていた。
しかし犬の成長は早い。半年もするとデカくなり、生意気になってくる。オシッコを漏らしたり、呼んでも来なかったり、止まれと言っても止まらなかったり…、私は徹底的にエルを叩いた。竹の棒など使わない。蹴り飛ばしたり鼻っ柱に正拳を入れたり、ときには頭を掴んで床にゴリゴリ押し付けたり…。ただ急所だけは蹴らなかった。犬の急所はお腹だ。そして背中。愛護協会の方が言ったように主に鼻っ柱、たまに顔面を叩いた。
自転車でエルの散歩にいく。約4キロの行程を殆どエルが私を引っ張って走った。私は滅多にベダルを漕ぐことはなかった。とにかく体に似合わずバワフルな犬だった。最初の数年はバルコニーに置いた犬小屋で育てた。
2歳の頃、エルは大病を患った。病名は覚えていない。ただ、定期検診を受けにいった動物病院で移った「院内感染」だったらしい。高熱が出て、一時は死線を彷徨った。しかし奇跡的にエルは回復した。
それから犬小屋を室内のリビングに移した。ただ、首輪にロープだけはつけていた。勝手に部屋のなかを歩き回られてイタズラされたらかなわないと思ったからだ。
しかし、そのうちロープの取り外しが面倒になった。いつしかエルは「室内犬」になってしまった。性格も私が望む以上におとなしくなってしまった。まるでチワワのような「愛玩犬」である。でも、躾の成果か、決して無駄吠えはしなくなった。ご飯も「よし!」と言うまで何分でも何十分でも我慢する。「あっちにいけ!」と指差せば必ず、そっちの方に歩く。挙げ句に、散歩の途中で「ここでウンコをしろ!」と命じれば、クンクン辺りの匂いを嗅ぎながらウンコをする。
ただ、その代わり他の犬に出会ったり不審な人間に遭遇すると甲斐犬の本性があらわになる。他の犬には直ぐにケンカを仕掛ける。そのくせ、女性が大好きだ。若い女性に「あら、可愛い」なんて言われると、尻尾を車のワイパーのように振って喜ぶ。しかし老婆が寄ってきても知らんぷりを決め込む。
ちなみに「尻尾を車のワイパーのように〜」という表現は、息子が小学校のとき、エルについて書いた作文の一節だ。

エルは今年で13歳になる。
人間でいえばかなりの老齢だ。だが、あまり肉体的衰えは見えない。ただ無性に我が儘になってきた。いつも私が息子の近くにいないと我慢ができない。だから私が出社し、息子が学校にいくときは落ち着かない。
最も辛いのは私たちが沖縄やハワイにいくときだ。馴染みの動物病院に預けていくのだが、いつまでも悲しそうに鳴き続ける。私は息子に「エルには年に2回の人間ドックならぬドッグドックだ」と言って罪悪感から逃れる。実際、その間、エルは体の隅々まで診断を受ける。
だが、エルを病院に預けるときの悲しさというか罪悪感はいつになっても拭えない。
昨年は我慢できずに沖縄でペットと一緒可という高級ホテルを見つけて沖縄にまで連れて行った。だが、空港でエルを預けるとき、エルは狂ったように鳴き続けた。特に帰りの飛行機では大騒ぎで大変だった。私は、飛行機に乗せるならば、まだ馴染みの病院で美人な看護婦さんに可愛がられたのがいいだろうと思った。

今年もまた沖縄旅行が近づいている。飛行機の怖さよりもエルを病院に預けることの方がずっとヘビーだ。


(了)

samurai_mugen at 07:19|Permalinkclip!単発コラム 

2007年08月25日

雑話/カミングアウト宣言、「私は円形脱毛症である!」(07/8/25)

突然だが、私はハゲではない。
齢40+@にして、しかし私はハゲではない。フサフサとまでは言わないが、前頭部にも頭頂部にも愛しい毛髪が靡いている。私の家系にはハゲが多いが、何故か私はハゲではない。学生時代から、私は「きっと40前にはハゲちゃうんだろうな…」と諦めにも似た思いを抱いていた。
ところで、私は別にハゲたから悪いとか、みっともないとか、そんな偏見はないつもりだ。とは言いながら、学生時代の友人に会ったりすると、もうハゲているヤツが半数近い。なかには学生時代、所謂「イケメン」という(当時はそんな言葉はなかったが)、非常に女性にモテまくっていたヤツが、今や完全にハゲてしまい、昔の面影さえ失ったヤツもいる。
そんなとき、正直「ああ、ハゲなくてよかった」と痛感する。こんなことを書くと、私の友人・知人にはハゲがきわめて多いので、気分を悪くされてしまうかもしれない。だから先に謝っておく。
ハゲに偏見のあるようなこと書いてごめんなさい…。
悪友の家高はハゲていない。ハゲるどころか若い頃以上に髪がフサフサしている。顔はヤツれ、老いは隠せないくせに髪だけフサフサというのもいかがなものか?
しかし、たまに家高と話すことがある。ともにバツイチ同士、肝胆相照らすものがあるのかもしれない。家高はしみじみと言った。
「しかしよう、小島。俺たちはハゲなくてよかったなあ。ハゲたらもうお仕舞いだぜ。俺たちに何の取り柄があると思うよ。ハゲていてもなんか含蓄がありそうだったりさ、それなりの風格があるヤツもいるかもしれねえけど、俺たちがハゲたら何にも残んねえぞ。もう結婚もできねえよ。おまえ、ハゲてたらどうやって塚本さんにプロポーズするよ。相手にされねえぞ。ただでさえ内心塚本さんに嫌われているのに、どうするよ? 100%無理だぞ。今後の生活設計もみんな無駄だわな。おまえも夢現舎も終わりだぞ。俺も思うよ。ハゲたらもう再婚諦めるよ。もう男を捨てるよ」
なんか、家高の塚本に関する物言いに引っ掛かるものを感じたが、家高も昔は塚本のファンだっただけに、私は何にも言わなかった。
繰り返す。
ハゲの人、ごめんなさい。
しかしである…。
私はここで恥を晒さなければならない。
私は…実はハゲではないが、円形脱毛症なのである。それはそれは酷い円形脱毛症の患者なのです。
私にとって円形脱毛症なんて全く縁のないものだった。そういえば、福昌堂にいた頃、同期のIが円形脱毛症だといって悩んでいた。しかし私は「そんなもん、髪の毛で隠せるじゃんか。ハゲてるところを黒のマジックペンで塗っておけば大丈夫!」なんて、とんでもなく無責任なことをいっていた。
私の母親も以前、円形脱毛症で悩んでいたことがある。
「ひとつできたかなと思ったら、アッという間に6個もできちゃったのよ。お父さんはカッコ悪いっていうから帽子被ったりウィッグ(カツラみたいなもの)つけたりして大変よ」
なんて言っていた。私はフーンと相槌打ちながらもまるで他人事だった。
それが4、5年前のことである。私はベッドで息子と一緒にTVを観ていた。小島家の習慣だが、TVを観るときは必ず枕を敷いて横になる。ときには肘を立てて掌を枕にしながら横向に寝て観る。近視の私は32インチのTVの約1メートル前に寝転んで観る。息子の大志は私の背中辺りに、同じような姿勢で観る。
あるとき、突然息子が言った。
「オヤジよう、後頭部に10円ハゲがあるぞ!」
「何!」私は飛び起きた。
「そんなにデカイのか、そのハゲ?」
私の狼狽に気を使ったのか、息子は急に声のトーンを落として、「いや、髪の毛を降ろせば分かんないよ」と言った。だが、私は落ち着かなくなった。まさか! まさかハゲじゃないか? それとも…あの円形脱毛症か? 意外に自分の体のことには小心者の私である。病院なんて大嫌い! 人間ドックを勧めるヤツも多いが私は嫌だ。そのくせ、少しでも体に異変があると、私は居ても立ってもいられなくなる臆病者なのである。
その夜は、ずっと息子に指摘されたハゲの部分を触ってばかりいた。たしかにツルツルしている。「毛がない!」私は焦った。戸棚の奥に仕舞い込んでいた、誰かにもらった育毛剤をビショビショになるまで振り掛けた。
「やばい!」
まんじりともせず朝を迎えた私は早速、母親に電話をした。母親が症状を訊く。そのことごとくが当たっている。今度は母親が他人事のように言った。
「あああ、そりゃ円形脱毛症だわね。間違いない! 早く病院にいったほうがいいわよ。円形脱毛症はね、いったんかかったら治るのに半年はかかるのよ。早く病院にいきなさい」
私は焦りながらタウンページを開いた。母親が皮膚科がいいというので近所の皮膚科を探した。だが、最も家に近い皮膚科はその日は休みだった。仕方がなく私は1駅隣の駅前の皮膚科にいくことにした。そして直ぐに準備して家を飛び出した。
だが、その皮膚科の医師はハゲのジジイでとてつもなく頼りなかった。まず採血した。「何故、血を取るんですか?」と訊いてもなまくらな返事しかしない。そして「Zライト」みたいなもので明かりを10分間、患部を当てて、「まあ、何かストレスでもあるんでしょう。心当たりはありませんか?」なんて訊く。ストレスなんて、そんなもん無数にあるわ! このアホ! そう言いたかったが、私は我慢して「思いつくことはあるといえばあるし、ないといえばないです」と答えた。
そして帰りに深緑色の塗り薬だけをもらって帰った。そこには「塩化カルプロニウム」と書かれていた。そんな医師じゃダメだと思った私は翌日、近所の皮膚科に出直した。女医で優しいドクターだったが、言うことは昨日のハゲジジイと変わりなかった。
「ストレスが原因とは言われてますが、何をもってストレスとするかは諸説ありますから…。でも、この2、3か月前、何かショックなことでもありましたか?」
私は「あるといえばあるし、ないといえばないですね」と答えた。そして、またZライトみたいのを患部に照射され、今度は3種類の薬をもらって帰ってきた。薬が増えただけで、私はあのハゲジジイのところよりこっちのがいいと思った。ひとつはハゲにもらったのと同じ塩化カルプロニウム、あとは乳白色のベタベタした塗り薬。そして「頭の血行をよくする」という小さな錠剤だ。

円形脱毛症になった私は、生まれて初めて「ストレス」というものについて考えた。
円形脱毛症になる1、2か月前、家でちょっとした不幸があった。否、私にとってはちょっとしたどころではない。実に悲しいことだった。また夢現舎は新事務所に移ってから出費が嵩み、慢性的な不景気だった。仕事はあるのに銭ばかり出て行く。私は塚本とともに2、3日間、深夜まで帳簿を引っ張り出して原因を探った。結局、仕事量を増やすしかないという結論に達した。
また、当時は物書きとして今後の方向性や在り方について煮詰まってもいた。
「このまま空手や格闘技関係のものばかり書いていて、果たしてどうなるのか?」
その他にも数年越しのプライベートのトラブルを抱えてもいた。
何もかもがストレスではないか! だが私は「ストレス」を実感したことはなかった。たしかに不眠症気味ではあった。今もそうだが…。毎日なんやかんやと問題があり、精神安定剤もたまに服用するようになっていた。
アメリカのハードボイルド小説に、「最近のアメリカ人エグゼクティブはメンタルクリニックのドクターを主治医にし、アスピリンの代わりに精神安定剤を飲むのが流行している」と書いてあった。私はさっそく近所のメンタルクリニックにいき、それ以来、そこのドクターを主治医にしていた。だが、そのドクターでも円形脱毛症は皮膚科にいかなくちゃダメだと言った。
数か月後、私の円形脱毛症は回復の兆しを見せた。ツルツルしていた部分からブツブツと毛が生え始めたのだ。「やったー!」ところが喜んだのも束の間、今度は別なところがハゲてきた。円形脱毛症は転移するのだろうか? 私は真剣に悩んだ。何度も女医さんの皮膚科にも通った。
そして3年くらい前、円形脱毛症は完治した。私は心に誓った。
「また円形脱毛症になるのはゴメンだ。毎日カロヤンを絶やさないぞ!」
何故、カロヤンか? あまたある育毛剤のなかでカロヤンだけが塩化カルプロニウムを配合していたからだ。
しばらく平和な時を過ごした。
ところがである。
「大山倍達正伝」の制作に乗り出し、いざ執筆という段になった頃…また始まったではないか!
円形脱毛症がまた襲ってきた!
もう、そんなことに構っていられなくなった。カロヤンだけは欠かさなかったが、私は気にしないことに決めた。気にしない方が早く治ると女医さんもいった。正確にいえば、気にしないというより円形脱毛症に悩むことに疲れたのだ。いつか治るだろう、なんて思いながら私は「大山倍達正伝」の執筆中、殆ど髪の毛を気にしなかった。
そして昨年夏、「大山倍達正伝」は完成した。…だが、なんと円形脱毛症は3か所に増えていた。もう私はうんざりした。私はできればスポーツ刈りにしたいと思い続けてきた。だが、こんな状態ではスポーツ刈りなんて夢の夢だ。もう、このまま脱毛症が広がって本物のハゲになるに違いない。
もう塚本には嫌われる。
男はお仕舞いだ…。
そんな失意の日々を私は1年近く送ってきた。そこに天使ならぬモーゼが現れた。秘密結社・一撃会のSである。Sは格闘家であると同時に、腕のいい皮膚科の医師でもある。私はそれを忘れていた。私が円形脱毛症だということを知ったSは、必ず完治させてあげよう! と太鼓判を押してくれた。私はSを信じることにした。
コミュニケーションBOXを端に発した武闘派結社が「一撃会」だ。普段は一般のコミュニケーションBOXの会員たちに紛れ、一緒に行動している。しかし、イザ!というときに結束するのが一撃会だ。日本全国に散らばる心強い雄志たち…。
だが、一撃会の幹部に円形脱毛症を治してもらうとは思わなかった。やはり持つものは「仲間」である。いまはS先生(私は学校の教師と空手武道の師範以外には絶対「先生」と呼ばない主義だが、Sには「先生」と言ってしまおう)を信じるだけだ。そして、ともにバツイチ同士、幸せな第2の人生に夢を託そうではないか!
S先生、頼んだけん。


(了)

samurai_mugen at 08:24|Permalinkclip!単発コラム 

2007年08月23日

雑話/昔の上司との再会〜20年越しの謝罪(07/8/23)

20年ぶりの再会だった。
先日、「月刊空手道」時代の上司・編集長である東口敏郎氏に会ってきた。東口氏が福昌堂を退社して自らの出版社BABジャパンを設立したのは、1986年秋のことだった。
東口氏の退社によって、部下だった私たち(山田英司や生島裕など)は次世代の「月刊空手道」や「フルコンタクトKARATE」「武術」の新編集長として制作に関わることになった。
この際、ひとつの「誤解」が生まれた。
私は周囲の勧めを断って、創刊したばかりの「フルコンタクトKARATE」ではなく、「月刊空手道」の編集長を希望し、実際その職に収まった(恩人である芦原英幸のアドバイスによるものだった)。
だが、そんな私に福昌堂社長の中村文保は散々と東口氏の悪口を繰り返した。曰わく、
「東口君は小島君を辞めさせないと必ず独裁体制を敷くから会社が危なくなる。そう私に念を押して辞めていった」
「もし『月刊空手道』を小島君に任せたら、極真空手一色にされ、挙げ句に極真会館に乗っ取られてしまうと東口君は心配していた」
「小島君は編集費を横領していたから、小島君にはお金を任せてはいけないと東口君が言っていた」
いま考えれば、東口氏の性格からして、そんなことを言うはずがない。私が福昌堂を離れるときには格闘技・武道団体や格闘技専門出版社に「小島と関係したら福昌堂と縁を切る」といった内容の回状を送付したのが中村文保だ。小心者にしてプライドが高く、そして吝嗇で疑心暗鬼の塊のような人物の言葉を易々と信じた私も愚かだった。あのときの言葉は明らかに東口氏を牽制するのが目的だったに違いない。
ちなみに、そんな中村だから会社は後に倒産し、先祖代々の土地も屋敷もカタに取られ、齢70を超えてアパート暮らしをしながら細々と出版業で返しきれない負債を返しているのだから悲惨なものだ。勿論、私自身も他山の石にしなければならないが…。
いずれにせよ、まだ若くて威勢のよさだけを売り物にしていた私は簡単に中村氏の策略に引っ掛かってしまった。


東口氏が退社して数か月後、たまたま日本武道館で開催された何かの大会で私は東口氏と顔を合わせた。東口氏は以前のように屈託のない笑顔を見せながら私に手を振りながら近づいてきた。だが、中村氏からうまく「洗脳」されていた私はすでに感情的になっていた。
部下を引き連れ、よくは覚えてないが最低でも罵声の1つや2つ浴びせたに違いない。ひょっとしたら襟首を掴んだか膝蹴りでも入れたかもしれない。
それ以降、東口氏と顔を合わせる機会がなかったわけではないが、私の頑なさがずっと東口氏を拒み続けてきた。
しかし…。私は最近思うようになった。
中村氏が私に言った、東口氏の私に対する悪口雑言。果たして本当だったのか? いま頃になって疑問に思うのだから、私も相当愚かである。
数年前、昔の私と東口氏をよく知る人物に会った。お茶を飲みながら当時の話に花が咲いた。そのとき彼は私に言った。
「東口君はね、小島君は福昌堂のスタッフのなかでは最もキレる人間だと随分買っていたよ」
あれ? と思った。
ただ、そのときは仕事の話が主だったため、そのまま東口氏の言葉を忘れていた。


それから約3年が過ぎた。
いま、私と塚本佳子は1994年の大山倍達死去後に勃発した「極真会館分裂騒動」の真実を徹底的に追求したルポルタージュ「大山倍達の遺言」を制作している。
何故、極真会館は分裂しなければならなかったのか?
何故、後継者である松井章圭は圧倒的多数の支部長によって拒絶されなくてはならなかったのか?
大山倍達の通夜から始まる、否、大山総裁の聖路加病院入院から予兆の見えた極真会館分裂騒動を200人を越す証人と資料によって明らかにしていく…。
すでに殆どの取材を終えた私たちは、これらの「声」とデータ、資料をもとに1994年4月26日から今日までの「極真空手界」の推移を綿密に検証してきた。
そこで分かったことは、あまりにも下劣で、バカバカしいほどの「デマ」や「噂」があらゆる原動力だったということである。勿論、「デマ」や「噂」は自然発生的に起きるものではない。必ずその「発信者」が存在する。
それが紛れもない三瓶啓二だった。これについては10人を優に超える証言者がいる。
さらに、「デマ」や「噂」の「発信者」である三瓶に踊らされて「御輿」に乗った者たちも少なくなかった。それが増田章や緑健児など複数の支部長や選手であった。

現在はNet社会とも言われるほど、情報が洪水のように溢れている。例えばNet掲示板。なかには良識的なものもあるだろう。しかし、多くの掲示板で書かれている情報は殆ど何の裏付けも確証もない「感情」に支配された「噂」や「デマ」だけである。
私はNetを見ない。
だが、最近友人の家高康彦に知らされた。
「小島はヤクザ、暴力団員なんだって? というか夢現舎は『企業舎弟』ということになっているぞ。小島は在日ヤクザであり、そんな人間が作家でいるのはおかしいなんて…情けなくなったよ。あまりにバカバカしくて」
一方、やはり私の長い知人である久留米芦原会館の山田雅彦は言った。
「僕は小島さんのファンだけど、情報過疎地に住んでいるからNetの情報も貴重で…。僕の知る小島さんとNetで噂される小島さんの姿のギャップを総合的に判断してから小島という人間を評価したいんです。でも、そんな掲示板なんて小島さんは無視していればいいんです。精神衛生上よくないから」
アホか! 私は山田の言葉が如何に矛盾をはらんでいるか、その矛盾に気づかない山田が情けなくなった。と同時に無性に腹が立った。「こんなヤツが芦原空手の黒帯を締めているのか!」
私は山田に言った。君が直に接して話す小島が本物にきまっとろうが! 根も葉もない「デマ」や「噂」と自分の眼を比較すること自体がおかしいと。
山田雅彦のようなNetオタクは空手・格闘技実践者にも意外に多い。特に自称実践者ではあるが、汗のかき方も知らない名前だけの黒帯に多い。

ちなみに、私ははっきりと断言しておく。
私はヤクザでも右翼でも企業舎弟でもない。故・梶原一騎氏や真樹日左夫氏のように自分を「擬似ヤクザ」として「コワモテ」を演じるつもりもなければ、それを売り物にするつもりもない。
ただ格闘技・空手界はある意味で「切った張った」の世界でもある。出版界にもなかには胡散臭い会社も少なくない。そういう世界で生きていく以上、「舐められる」ことは「潰される」ことを意味する。
だから私は精一杯、突っ張っているだけだ。組織云々の問題ではない。私は次のような芦原英幸の言葉を心に刻んで生きている。
「嫌われてもいいから舐められちゃいけん」
「軽んじられるくらいならば、脅してでもシメてでも怖れられる方がましじゃけん」
だから、それなりの場所に出るときはそれなりの格好で出て行く。これも生前の芦原先生がしてきたことだ。
こういう生き方をとって、私を「ヤクザ」と呼ぶならいっこうに構わない。だが私は暴力団員でも右翼の構成員でもない。堅気で真っ当な商売や生き方をしているという自負がある。
たしかに私の体には朝鮮半島の血が流れているようだ。確証はない。私の母方の4代程度前の時代だ。私の家庭環境は極めて複雑であり、いまとなれば詳細を調べるのが不可能ではないにせよ困難な状況にある。
また、私の父親は正真正銘の博徒だった。そして私は一時期、在日博徒の梁川組に預けられ育てられた。
小学生の頃から不良というより「少年犯罪者」のような悪事を働いてきた。教護施設にも入れられた。しかし、中学2年から足を洗った私は、猛勉強して県立栃木高校に入り、早稲田大学に進んだ。
いまでも、昔世話になった梁川組の兄貴分とは付き合いがある…。食えないときに私に食わさせてくれたのが梁川だ。なんで相手がヤクザだからといって縁が切れよう。それこそ「筋」が通らぬ話ではないか。松井章圭が恩人である許永中氏を慕って何が悪い。人の道は綺麗事ではすまない「筋」と「義理」があるのだ。

これが小島一志というチンケな人間の全てだ。


情報化社会はときには悪にもなる。「情報」とひとことに言ってもそれは玉石混交だ。
私に対する偏見。極真会館の分裂騒動…。何もかもが「デマ」と「噂」による集団パニックの結果に過ぎない。
そういうことにウンサリし、疲れ果てた私はフッと東口敏郎氏のことを思い出した。私も、何の確証もない、多分中村の悪意による東口氏への誹謗を信じ込んだバカな1人かもしれない。
ならば、一刻も早く東口氏に謝罪しなければならない。
こうして私は東口氏に電話を入れ、口頭で謝罪した。あの…日本武道館での非礼な振る舞いと、最近まで抱き続けてきた東口氏に対する偏見についてである。
そして先日、私は塚本佳子を伴って東口氏が経営するBABジャパンを訪れた。
東口氏は喜んでくれた。
そして、いつしか2人は20年前の関係に戻っていた。私は東口氏を「編集長」と呼び、東口氏は私を「小島君」と呼んでくれた。劣等生だった私には話が尽きないほどの恥ずかしいエピソードがある。そんな話を塚本は黙って微笑みながら聞いていた。
思えば生意気盛りの頃だった。東口氏と些細なことでぶつかりもした。だが、私は東口氏から編集のイロハを学び、文章の基本を習ったのだ。また、時代を遡れば福昌堂との関係も東口氏と出会ったことが縁であり、社員になることを拒む私を熱心に誘ってくれたのも彼だった。
いまの私は、東口氏との知己がなかったら確実に存在していないのだ。

この日の東京は記録的な暑さだった。
私も塚本も体調が思わしくなかった。特に塚本は夏バテと「大山倍達の遺言」執筆へのプレッシャーからか、いつもの元気で溌剌した彼女ではなかった。
しかし、私の気持ちは清々しかった。そして、それは体調の悪い塚本にとっても一種の清涼剤だったに違いない。


(了)

samurai_mugen at 05:26|Permalinkclip!単発コラム 

2007年08月20日

連載/「悪友」家高康彦の悪口!?(4)特別編

連載の「悪友・家高康彦の悪口」が好評だ。
今日、家高と話した。開口一番、彼は言った。
「おまえなあ、あれだけ止めれっていったのに、俺の悪口コラムやり出したんだってな? くるんだよ、俺んとこにメールが!」
私は訊いた。「なんて書いてくんだ?」
「俺にメール寄越すヤツらはバカ連中っておまえ書くから、本当に『僕らはバカなんですか?』なんて書いてくるぞ。だから、俺は紳士で通してんだからよ。身内の話書いたら俺の面目丸潰れだろうがよ! 俺は『三瓶先輩は立派です』『増田さんは立派です』と一生懸命に書いてるのによ、おまえんとこでボケカス言ってたなんて書かれたら、『家高さんは嘘つきですか?』なんて話になるだろうが。どうしてくれるんだよ、俺の信用をよ!」
私はいつものように笑いながら言った。
「いいやろが、本音と建て前で。人間はみんな本音と建て前で生きとるんよ」
「そりゃあ逆じゃねえか? 俺が本音を書いてよ、おまえが建て前書くんだろうが」
こうして、またいつもの下らない話になった。

小島「バカ! おまえが本音を書かねえから俺が書いてやってるんだよ」

家高「そんなの誰も頼んでないよ。勝手に好き放題書いてんなよな」

小島「でもよ、会話は完全な再現じゃねえけど、大筋はみな正しいだろが。何ひとつ嘘はねえはずだぞ。それは認めるよな」

家高「そうだけどよ。でも俺たちは毎回、バカとかコノヤローとかドアホなんて汚え言葉使ってねえべ。あれじゃ、どっかのヤンキーになっちゃうよ。頼むからよ。もう少し普通の感じで書いてくれよ」

小島「だってあれが普通だべ」

家高「だからよ、もう少しトーンを落としてくれよ」

小島「分かったよ。ところでよ、おまえにどんなメールがきてんだよ。どうせ小島の悪口だろ?」

家高「最近はよ。小島さんはヤクザなんですか? なんてえのがやたら多いぞ。なかにはよ、『家高さんは夢現舎の顧問らしいですが、夢現舎がヤクザだって知って顧問をしてるんですか? それとも家高さんもヤクザなんですか?』なんてえのもあるぞ。どうなってんだよ」

小島「そんで、おまえはなんと答えたんだ?」

家高「私はいまだかつて小島がヤクザなんて聞いたことはありません…何でも無難に答えているよ。何でそんなデマが飛ぶんだ」

小島「どっか、2ちゃんねるとか他の掲示板にそんな悪口が書かれてるんだろうよ。そんなのは直接、俺に聞いてくればいいやんけ」

家高「じゃあ、おまえが責任持って答えろよ」

小島「ブログのなかで、俺が書いたコラムもあるし、『一撃会』会員で、Sってガキんときからの同級生が書いたんだよ。これが誤解の元だな。おまえも知っとるやろ。俺んちは複雑で、確かに親父は昔、博徒で毎日うちで賭博を開いていた。母親は出ていって、俺は親戚中預けられて酷い差別にあったんよ。親父がいる前ではカズちゃんなんて猫なで声でよ。親父が帰ると態度が一転して、晩飯なんか、俺のオカズが一品少ないんだ。そんなクソみたいな親父の親戚から逃げて、引っ越す前のうちの裏に住んでた梁川に面倒を見てもらった。梁川の親父は在日一世で古物屋やってたけど、昔は東京の在日系愚連隊の幹部やってて、それで俺の親父と義兄弟やったんよ」

家高「知ってるよ。梁川さんの息子さんが智明さんで、おまえは智明さんに可愛がられたんだよな。凄いワルだったんだろ。北関東の不良で知らないヤツはいなかったよな?」

小島「その智明が兄貴分で、いまは完全に代紋背負った本格派だからな。そんな関係で俺がいまも、昔の恩人じゃけえ、つき合っとるわけや。それが、いつしか小島がヤクザ…そうなったんやろ。だけど小島は正真正銘のカタギですけん。表も裏も真面目な編集者かつ物書きですけん」

家高「それにおまえ、横●玄●さんにケツモチ頼んだんだって? 横●さんはこれまた本格派の右翼で○○の大物幹部なんだろ? 俺も知ってるけど、確かにいい人だよ。でもひと皮剥けば完全にヤバイ人だというぞ」

小島「横●さんには総裁の生前から、とても世話になったんだよ。大志が幼稚園の頃から可愛がってくれて…。本当によくしてくれた。今回の『大山倍達の遺言』でも、多忙ななか時間作ってくれて、最大限の協力をしてくれた。松井さんが許永中をたとえ犯罪者でも恩人と思うように、俺には横●さんが右翼だろうが○○だろうが関係ない。世話になった筋を通すし、何かあれば協力頼む…それだけのことだよ」

家高「おまえはコワモテだから、みんなに誤解されるんだよ」

小島「それは松井館長だっておんなじだよ。俺も空手や格闘技の世界で物書きやって生きてるんじゃ。脅迫だ襲撃だ、特に新極真のアホ連中から何度襲われたか…。黙ってやられる訳にはいかないやろ。むしろヤクザだチンピラだっていうならば新極真の跳ねっ返りの方が完全なヤクザか愚連隊やろ。そないなくらいだから、新極真の支部長が強姦強盗事件起こしたり、有名選手が麻薬やったり、卑怯な暴力事件起こしたり、不祥事が続いてるやろが。麻薬やっても暴力事件起こしても試合に出られて優勝するなんて組織がどこにあるよ。俺をヤクザというなら新極真こそがチンピラヤクザじゃけえな」

家高「だからか? 誰かが『小島は三瓶とタイマン張ると言ってますがどうですか?』なんてバカな質問、いや素朴な質問がくるんだよ」

小島「三平〜? いつでもタイマン張るよ。ただな、男と男の勝負っちゅうのは何も暴力だけじゃないけん。俺はもう2年間、三平に会いたいと電話は100回はしたぞ。いつも留守電。いつも返事なし。だから男のクズ言うんよ。家高、おまえも三平大嫌いやろが! 男ならそれくらい旗幟鮮明にしろよ。三平が会うっていえば福島でもどこでもいく覚悟はあります。それが大袈裟になってタイマン張るなんてことになるんだ。家高よ、てめえにメールするヤツにちゃんと言っとけよ。しっかりと小島のブログを読みなさい! ってな」

家高「けどよ、実際に三瓶さんは(極真会館)分裂前によ、松井さんにケンカ売られて謝っちゃったらしいじゃん。あれって最悪の大恥だよな」

小島「極真も空手が商売じゃけん。ヤクザと似てて、最後はやっぱり『男気』を売る訳よ。腕力に限らねえけど、『漢』を売る商売やけんな。三平のコトは『大山倍達の遺言』で詳しく書くよ。塚本がな。そのときに立ち会っていた人物にもようけ話が聞けたけん。だから言っとるやないけ。小島はおまえの『悪口』っちゅうても昔の学生時代の話を書いていく訳じゃけん。おまえの面目を立てるために、男のプライドをやるっていったやろが」

家高「なんだよ!?」

小島「俺と家高は学生時代、むちゃくちゃやってたけん。けど『空手もケンカも小島の2枚も3枚も家高の方が上だった』。これは最高の勲章やろが! それ書いたらもう、俺は何おまえの悪口書いても許されるんじや」

家高「関係ねえよ、そんな見え透いたお世辞はいらねえよ。それよりよ、最近、小島は在日ですか?なんて質問もあるぞ。俺はよ、小島が2世とか3世という話は聞いたことがありませんって答えてるよ。無難にな」

小島「だから、これは梁川との関係と、一撃の会員のSの作文から出てきた噂に過ぎないんだよ。あのSも、昔マル暴やったからな。ただよ、最近分かったんじゃけん、俺の母方の4代か5代前の先祖は朝鮮半島からきたらしい。確証がないけん。うちも色々と複雑な家庭じゃけえ。お祖父ちゃんは確実に日本国籍持ってたけん。その前辺りがそうだっちゅう話を1、2か月前に聞いた。けど不確かなんだわ。まだ。それは認める。いまは親戚付き合いしとらんから、わし。調べようがないんじゃ」

家高「頼むからよ。その広島弁止めてくんねえか」

小島「ダメなんよ。いま芦原英幸の長男・英典館長の『我が父 芦原英幸』書いちょるけん。広島弁使わんと書けんのじゃ」

家高「分かったよ。ならよ、今後はよ、あんまり俺の言葉、ベランメイにしないでくれる? 家高のイメージはよ、紳士なんだからよ。頼むよ」

小島「分かったよ」

家高「最後によ、言っとくけど。俺はいまはアンコとチョコの区別はつくぞ」

小島「でも、昔は区別がつかんといっとろうが」

家高「でも、いまはつくんだよ。そう書いておいてくれよ。俺はもう味覚音痴じゃないんだよね

小島「本当か?」

家高「最近、ボタモチが好きでよ。年中喰ってんだ。でもチョコレートの区別つくぜ。あっ!」

小島「何だよ?」

家高「そういえばこの前よ、ボタモチ買ってきて喰おうと思ったらよ。何故か表面がベトベトしてなくてよ。変だなって思ったらアンコが固くてポロポロしてんだ。焦って、よく見たらチョコ饅頭だった」

小島「全然治っとらんやないけ」


(つづく)

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2007年08月19日

連載/「悪友」家高康彦の悪口!?(3)〜コーヒーとココアの区別がつかない?

●コーヒーとココアの区別がつかない


小島「おまえさ、やっぱり1年のときじゃけん。稽古の帰りに田中先輩たちと7人でサテンに入ってな、みんなでコーヒー飲んだの覚えちょるか?」

家高「バカか、てめえ! そんなこと何回もあったよ。何十回もありました」

小島「佐々木先輩や横田先輩もいたけん。岸田もおったぞ。そんでな、みんなしてコーヒー頼んだんじゃ。たしか横田先輩が注文聞いたはずや。『みなさん、コーヒーでいいですよね?』って、そんで俺ら1年生は『押忍!』って答えたけん。そしたらおまえだけが突然、異議を申し立てたんじゃ」

家高「小島よ、いい加減にしろよな! てめえの変な広島弁聞いてると頭痛くなってくるぞ。この野郎! 芦原先生に憧れんのもたいがいにしろよ」

小島「うるせい! とにかくだ。おまえはそんとき、1人だけ異議を唱えてな。『押忍! 自分はホットココアをお願いしますです』なんて変なこと言ったんじゃ、このボケカスが!」



※解説
私と家高の電話はだいたいこのようなやり取りが普通である。文字にするとケンカしているようだが、決してそんなことはない。私たちは、こんな言い方をどこかで楽しんでいるのかもしれない。



家高「小島〜。頼むよ。その変な広島弁やめてくれよ」

小島「もう、うるせえな! 分かったよ。いいか、家高。おまえは先輩もみんながコーヒーを頼んでいるのに、てめえだけ1人ココアを頼んだんだよ。それ、覚えてるか?」

家高「覚えてねえけど、覚えてるよ!」

小島「なに〜? そりゃどういうことだよ?」

家高「だから…、この話はもう何度もおまえから聞かされたからよ、覚えてねえけど、なんとなく覚えてるような気がしてきたんだよ。だからよう、もう話の続きは分かってるよ。おまえが何を言いたいのか分かってるよ。こんなことブログに書くなよ、と家高が言いましたと書いとけよ」

小島「このバカ! 何度でも言ってやるよ。それでな、暫くしてまずコーヒーが運ばれてきたんだ。確か7人だったから、6個のコーヒーカップが揃ったんだよ。それで、みんなが勝手にコーヒーを飲みだしたわけだ…。そんとき、佐々木先輩だけが田中先輩と話し込んでいて、ついコーヒーカップを取るのを忘れていて、突然『あれ? 俺のコーヒーがないぞ』と言い出したんだ。ウエイターが忘れたかな? なんて騒いでいたら、俺の隣に座っていた岸田が俺を肘でつついて、目で家高の方を合図したんだ。そしたら、てめえはチャッカリ平気な顔してコーヒーを飲んでたんだよ。澄ました顔してな! 砂糖とミルク一杯いれて啜ってたんじゃ」

家高「あれはココアだったの!」

小島「まだ、この期に及んで言うか? このアホタレ。あのなあ、あそこのコーヒーカップは円柱の形して真っ白かったの。後からきたろうが、ココアが。花柄模様でシャレたカップに入っとったろうが。佐々木先輩は一口飲んで『家高! これは正真正銘のココアだぞ』と言ったのに、それでもおまえは強情に『押忍! 自分が飲んでるのもココアです』とシャーシャーと答えやがった。みんな呆れて笑って、佐々木先輩は仕方がなくココアを飲んだよ」

家高「だけどな、あれは本当にココアだったんだぜ」

小島「まあ、ええよ。おまえは結局はコーヒーとココアの区別がつかなかったということだよ」



このように、味覚音痴の家高にはコーヒーとココアの区別がつかなかった。
ところで当時、急性アルコール中毒で病院に運ばれ、それ以来、体質が変わったのか、私は一切アルコールが飲めない体になった。一時は、食堂で、隣のテーブルの人がビールを飲んでいるのを見るだけで、そこはかとなくビールの香りを感じた気がして吐き気に襲われたものだ。
それまで、ウィスキーといえば水割りなど女性が飲むもの、オンザロックかチェイサー付きでストレートしか飲まなかった。特にバーボンが好きで、よくローハイドというバーボン風のウィスキーやケンタッキーウィスキーを好んで飲んでいた。
ズブロッカという香草入りのウォッカも大好きだった。ビールはアサヒと決めていたが、当時からあったエビスビールはご馳走だった。
ところが…。これについてはいつの日か書くこともあるだろうが、友人3人とバカ飲みをした私は突然、血を吐いた。吐いても吐いても何にも出なくなった直後である。ドス黒い血を吐いた。そのうち、鮮血が台所に飛び散った。ヤバイと思った友人の対応で一命を取り留めた。医師は「あと30分遅かったら死んでいた」と言った。同じことを異なる理由で医師に言われたのも、その後2度ばかりあるのだが…。
こうして私は下戸になった。
しかしその後、体中に塩の結晶を浮かべながら稽古した後、先輩たちが飲むビールが無性に美味しそうに思うようになった。それから再び、少しだけ飲めるようになった。だが、それでもビールならば中ジョッキ1杯で十分。チューハイも2杯が限界になり、現在に至っている。
というか、いまは自らは決して酒を飲まない。仕事などで避けられないときだけ、無理して飲むだけだ。酔うと直ぐに気持ち悪くなる。だから仕事でも、余程いいことがあったときしか飲まない。厭なヤツとは絶対に飲まない。
ちなみに、家高も酒に滅法弱い。ただ弱いだけならいいが、家高の場合、飲めないくせに勧められると断れない。だから、どんどん飲む…すると暴れ出す。酒乱なのだ。もう、大量の酒を飲んだら最後、手をつけられなくなる。あるときなど、高田馬場の駅前で先輩に飲まされ、駅から大学までの早稲田通り。商店街を歩きながら目に付くネオンや電気の看板を全部ローキックで割ってしまったという事件もある。
だから、家高もまず酒を飲まない。家高とはかれこれ20以上の(途中のブランクも入れて)の付き合いになるが、2人で飲んだのは、昔、ガールフレンドとよくいった行きつけのバーだけの1回しかない。そのときも酒より、その店名物のシェフお勧めのパスタばかり食べていた。
そういえば、松井章圭も黒澤浩樹も酒を嗜まない。横溝玄像先生も飲まない。郷田勇三先生も最近でこそ、少し飲むが以前は下戸だった。夢現舎の塚本佳子は完全な下戸だ。秘書の飯田は一滴も飲めない。
よく、「酒は飲まないが、酒席の雰囲気が好きだ」という人がいる。しかし私は酒席も嫌いだ。昔の私には、盛り場でケンカした記憶しかない。酔っ払いも嫌いだから、絡まれるとついケンカ沙汰になってしまうのだ。だからいまは歓楽街にも足を踏み入れない。要は酒を飲む場所が好きではないということだ。
シラフの私には酔ってクダを巻くヤツがいると、つい手が出てしまう。私には「まあ、酔っているのだから…」という言葉は通用しない。また、「酒が飲めないヤツとは腹を割って話せない」などと言う酒豪気取りも大嫌いだ。三平ケージや東孝氏などがそうだが、とんでもない。そんなヤツとはこっちから願い下げだ。
話がそれた。
そういうわけで、アルコールを受け付けなくなった私はコーヒーに凝り出した。サイフォンでコーヒーを入れたいと思ったが、貧乏で銭がないので、カリタ式というヤツでいろんなレギュラーコーヒーを生協で買ってきては楽しんでいた。私はモカがいちばん好きだった。少しスッパく苦味が少ない。キリマンジャロは苦味が強いが香りも強い。ブラジルは苦いだけで、あまり好きではない。ハワイのコナは優しい味だ。ブルーマウンテンなど、たとえ生協でも高価すぎて買えなかった。
いまはコーヒーといえば普通、アメリカンしか頼まない。何故ならほとんどの喫茶店のコーヒーは不味いからだ。ファミレスのコーヒーなど煮詰まっていて焦げ臭いだけだ。だから、どうせお湯で薄めているだろうと思いながら、アメリカンを注目する。
ただ、ドトールなどではいまだにモカを飲む。スタバのコーヒーはイタリアンなのか、粉っぼくてあまり美味しいとは思わない。
ということで、大学時代、私はコーヒーに凝った。だが、家高には絶対レギュラーコーヒーは飲ませなかった。どうせ味覚音痴なのだ。だから私は家高専用に、当時ダイエーのオリジナル商品だったキャプテンクックの安いインスタントコーヒーを用意していた。
そんな私に対し、家高はよく「ちゃんとしたコーヒーを入れてくれ」と懇願した。だが、私は頑なに拒んだ。
ある日のことだった…。



小島「おまえはほんま、コーヒーを飲もうが泥水を飲もうが分からんヤツだったけんな」

家高「俺はちゃんと分かったさ。犬じゃねえんだぞ」

小島「あっ、そういえば、おまえ。俺んとこでちゃんとしたコーヒー飲ませねえからって、『俺はコーヒーの勉強を徹底的にしてきた』なんて胸張ってきたことあったよな?」

家高「おまえ、おかしいんじゃねえか? なんでいちいち昔のこと細かく覚えてるんだ? もっと大切なことがあるだろうが」

小島「なんじゃい、大切なことっちゅうのんは?」

家高「またおっ始まったよ。おまえの変な広島弁。止めれって言ってるだろ!」

小島「だから何なんだよ、もっと大切なことっちゅうのは?」

家高「例えば失恋のこととかだよ」

小島「おまえ、ほんまのアホやな。そないな失恋話なんか、早く忘れるのがいいに決まっとろうが…。おまえは、そんなウジウジいまも学生時代の失恋話を大切に覚えとるもんな。あのメーテルみたいな女性が忘れるられん男やからな」

家高「おまえなんかフラれっぱなしだろ。忘れる暇もねえもんなあ、ああ可哀想。塚本さん、そんな小島だけどお願いしますって俺が頭を下げてやろうか?」

小島「うるせえんだよ。そんで、おまえな俺に向かって偉そうにな、『小島、俺はいまはコーヒーのエキスパートだぜ。コーヒーのソムリエって呼んでくれ』って言いよったな」

家高「また、これブログに書くんだべ。おまえがなんと言おうが、家高はことごとく、何もかも忘れてしまったと言ったと、ちゃんと書いとけよ」

小島「でもな、これは覚えているやろ? コーヒーのソムリエだって威張ってやってきたことはよ?」

家高「ああ」

小島「俺は最初、思ったけん。こいつ俺んとこでインスタントしか飲ませてもらえんけえ、一生懸命に勉強してきたんだ…、とな。ところが、とんだ喰わせもんだったよ、てめえは」

家高「でもよ、あれもひとつの才能だと思わねえか? だって一応違いが分かったんだぜ」

小島「まあ、確かにな。でも、それはコーヒーのソムリエともコーヒー通とも言わねえんだよ。おまえ、偉そうにな、『もう俺はコーヒーを一口飲めば、全て銘柄当てられる』と言ったよな」

家高「だって本当に当てられたんだぜ。あれは本当だったんだよ。俺自信あったもん」

小島「ああ、それでおまえは何の区別がついたんだっけ?」

家高「う〜んと。確かな、ネスカフェとブレンディとゴールドブレンドと、マックスウェルってあったよな。それとマキシムと、おまえんとこのキャプテンクックの区別はついたぜ。偉いだろ? 才能だろ?」

小島「………」


(つづく)

samurai_mugen at 06:32|Permalinkclip!その他の連載コラム 

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