2007年07月

2007年07月30日

番外編/連載・小島一志との日常(11)「韓国取材同行録⑤」~松田努

韓国取材同行録(5)

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2005年3月8日、私が小島一志、塚本佳子、小島の長男・大志君とともに韓国・ソウルへやって来て、3度目の朝を迎えた。
いつものように携帯電話のアラームで目覚めた私は、冷たい水で顔を洗って気合を入れ、そして寝ている小島を起こすべく、恐る恐る小島のもとに近づいた。
ところが、この日の小島は「いつもと」様子が違っていた。私が何度呼びかけても一向に起きる気配がない。その様子を見ていた大志君が小島に話しかける。
「親父、具合悪いの? 薬飲む?」
「ん? ああ、頼む…」
大志君の呼びかけにやっと反応した小島だったが、体調が良くないのは明らかである。
どうしていいかわからず立ちすくむ私の横で、大志君がつぶやいた。
「きっと色々考え事でもしてて、あんまり寝てないんでしょう」
結局、小島は薬を飲むと再び横になり、私たちは塚本を含めた3人で朝食をとることにした。
朝食は例の如くホテルのビュッフェ。私と大志君が競うように豪華料理に手を伸ばす一方で、塚本もまたなんとなくいつもの元気がない。すると、隣に座っている大志君が私の耳元でささやく。
「多分、塚本さんもあんまり寝てないんじゃないですか? ふたりは以心伝心ですから」
そう言って、ニコリと笑顔を見せる大志君の洞察力に、私はなるほどと感心した。以心伝心で小島と塚本が何を話し、何を相談していたのか分からない。
しかし私は、今日これから出かける取材が、小島と塚本にとって「大山倍達正伝」の執筆にあたるための、まさに総決算といえる重要なものであることを自覚した。あくまで私の推測ではあるが、小島と塚本は昨晩、今日にいたるまでの長い長い取材の日々を以心伝心で思い出していたのかもしれない。


朝食を終えた私たちは、改めて小島を起こし、そして取材に出かけた。行き先は、大山倍達の「生地」、龍池面臥龍里(ヨンジミョンワリョンニ)である。
龍池面臥龍里へは、ソウルから高速エクスプレスで約2時間、そして駅から車で約1時間かかる。
電車に乗り込んだ後、私は塚本の指示を受け、エクスプレスの窓から見える風景を10分おきにカメラで撮影することになった。この写真は、後に塚本がこの日見た風景を思い出す際に使うという。私の後ろの席に座った塚本は、メモをとりながら終始鋭い眼差しで窓の外を見つめていた。私が塚本に飲み物を差し出そうとしても、まったく気付かないほど集中している。
普段の移動中は、ひっきりなしに塚本に話しかける小島も、この時ばかりは黙って塚本を見守っていた。
2時間後、最寄りのイクサン駅に着くと、龍池面役場の方が私たちを出迎えてくれた。すでに、車まで用意しておいてくれた。そして車に乗ること約1時間…、進めば進むほど、辺り一面に田園地帯が広がっていく。日本のように全面舗装されていない道。車の乗り心地も決して快適ではなかった。車の後ろには土埃が尾を引いていく…。
ようやく私たちは、大山総裁の兄、崔永範(チェヨンボム)氏の自宅に到着した。
ここから先の内容は、「大山倍達正伝」に克明に記されているため省く。ただし、日本から来た私達に対して、非常に温かく出迎えてくれた崔永範氏とその妻、姜順禮(カンスンネ)氏には、この場を借りて心から謝意を表したいと思う。


さて、余談ではあるが、この日私は、韓国取材にやってきて最大のミスを犯した。
それは永範氏から、大山総裁が生まれ育った生地を案内してもらった時の事である。繰り返すが、小島と塚本の最終的な目的地は、この大山総裁の「生地」の土を踏みしめることだったのである。
生地に立った小島と塚本は、ゆっくりと生地の前に伸びるあぜ道を進んだ。そして、しばらくの間、それぞれがそれぞれの思いで感慨に浸っているように見えた。いつしかふたりは寄り添っていたが、言葉を交わすこともなく、塚本は周囲をゆっくりと見渡し、小島は腕組みをしたまま静かに目を閉じていた。
私と大志君は、彼らの後方から邪魔にならないように息をこらし、ふたりの様子を眺めていた。大山総裁の生地にこられたことで緊張感が緩んだ私は、小声で大志君にいった。
「あのふたり、どうみても夫婦だよね」
大志君は何もいわずニッと笑いながら私の背中を小突いた。極真空手、柔道黒帯の大志君の拳は背中を通して胸まで響いた。
何分経っただろうか? 突然、目を開けた小島は、塚本を促しながら戻ってきた。
「せっかく来たんだから、ここで俺と塚本とお兄さんの3人の写真を撮ってくれ」
「わかりました」
カメラマン役の私は、当然の如くカメラを構えた。
「すいません、もう少し後ろに下がってもらえますか」
「もうちょっと後ろですね。はいOKです!」
このときの私は、過去、幾たびもの取材で写真を撮り慣れたこともあり、一丁前のカメラマン気取りだった。しかし、「それじゃいきますよ~。はい、キムチ …あれ?」
「すいません、すいません。もう一度いきます。はい、キム…あれ?」
なんと無情にも、ここで何故か今まで何の問題のなかったカメラのシャッターが切れなくなってしまった。
「すいません! 少しお待ちください。今撮りますんで…」
急激に焦った私は、何をどうしたらいいのか、頭のなかが真っ白になってしまった。カメラを点検しても、どこがおかしいのか皆目見当もつかない。
そんな私の耳に、ボソッとではあるが氷のように冷たく、刃のように切り裂くような声が聞こえた。
「この、ばっかやろ…」
顔を上げると、その声の主は永範氏の横で努めて笑顔を作りながらも、私を見つめる目は笑っていなかった。
…塚本である。
私の背中を冷や汗がタラーリと流れ落ちた。
「もういい。大志、デジカメで撮ってくれ!」
結局、小島の指示で大志君がカメラマンとなり、なんとか記念撮影は終わった。カメラマン補助として同行していた大志君が、最終的に最も重要な写真を収めることになったのである。私の立場はどうなるのか…。
ちなみに、その後の私がどうなったかは想像にお任せする。ただ、こんなときの小島は優しい。決して私をなじったり、もちろん蹴りなどは放ってこない。その分、怖ろしいのは…塚本なのである。私は断言する。塚本に怒られるならば、まだ小島に殴られ蹴られするほうが、ずっとマシだと…。


話を戻す。
龍池面臥龍里での取材は、永範氏と大山総裁の生地、そして総裁の父が発起人として作り、大山総裁自身も通った母校(龍池面小学校)を訪れることで、無事に終了した。
ソウルに帰るエクスプレスのなか、小島はいつになく興奮していた。
「今日はすごい話を聞けたよな、塚本!」
「大志、正伝はとてつもない本になるぞ」
塚本も行きのときとは別人の穏やかな表情で、小島の話に相槌を打っていた。
「やっぱり、ふたりは夫婦だ!」
隣の大志君にそういおうと思った瞬間、悪夢が甦ってきた。
「この、ばっかやろ…」
「ばっかやろ…」
「ばっか…」
「……」
先ほどの塚本の強烈なひとことがいつまでも頭から離れず、窓から夜の真っ暗な風景を眺めていた。
ふと気が付くと、先ほどまで小島の声が響き渡っていた車内が静かになっている。
小島はiPODで音楽を聴きながら寝ていた。その表情からは、安堵の色がうかがえる。そして塚本も、小島と同じように心持ち優しそうな笑顔を浮かべて眠りに落ちていた…。


(つづく)


夢現舎/松田努

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2007年07月29日

投稿/我が「兄貴」、小島一志~一撃倶楽部・Back-Hand(画像追加版)

小島一志…
私の小島一志像はなんといえばいいのか、因縁というか何かあると私の前に立ちふさがる閻魔様みたいな存在です。ブランクをはさみながら40年の付き合いになります。今では私にとって小島さんは「兄貴」的存在です。

私は小島さんと同じ●県▲市に生まれ育ちました。小学校も一緒でクラスも4年生までは一緒でした。私はよく小島さんと一緒に遊びました。ベーゴマやカンケリやウマノリなんかで遊びました。剽軽で駆け足が早くて市内マラソン大会で優勝か準優勝したのを覚えてます。リレーの選手を選ぶときにも必ず小島さんに負けました。私も駆け足が得意だったから、かなり意識してました。
小島さんは勉強ができるくせにいつも先生に逆らって、ちょっと危ないというか不良じゃないけど非常に反抗的な変人だった気がします。

これは小島さん本人がカミングアウトしてるからいいますが、小島さんの親父さんは▲市でも有名な博徒でした。でも親父さんの代紋は隣の○県△市に本家がある~今は▼市にある~◆一家という博徒一家で私が子供の頃から知られてました。それで私たちが住む▲市にはまたまた◇組という博徒一家があり、隣街には黒崎興業という、あの黒崎健時先生の兄弟(けど実質的親分は黒崎先生です)がやってる組織がありました。小さい組ですが◆一家や◇組は黒崎興業にアンタッチャブルで東京の大組織直系で怖がられてました。それでまた▲市には柳川組という在日の人が頭をやってるヤクザ組織がありました。
なんで私がこんな怖いことを知ってるかというと私も中学高校時代に不良仲間に入ってたからです。のちに小島さんは覚えてないといいますが、小学生の時、私は何度も小島さんの家に遊びにいきました。
小島さんちは小学生の半ばまでは▲市の商店街の真ん中でバイク屋をしていて、その裏側に柳川組があって、でもみんなは「古物屋ヤクザ」「朝鮮ヤクザ」と呼んでました。そこにも遊びにいったけど、その後国道沿いに引っ越して家が遠くなってからも遊びにいきました。
小学生の私には、小島さんの家にはいつも怖い人が集まってバクチをやってた思い出しかないです。小島さんの家は表向きはバイク屋ですが、普通の客がいたことはなくて、そのかわり地元の暴走族EVEのたまり場にもなってました。親父さんは『黒虎』という暴走族を出入りしている若い衆に作らせたのでEVEと黒虎は兄弟関係にありました。
柳川組も表看板は▲金属というスクラップ屋(古物屋)さんでした。柳川の先代も黒崎先生みたいに東京の大組織の直参で親父さんはプロレスラーみたいなひとでした。小島さんの親父さんと柳川の先代は兄弟分でしたが地盤が違うので地元ではよそ者扱いですから嫌がらせの「喧嘩沙汰」もあったようです。今でも、小島さんの親父さんと柳川の先代は最強コンビだったと▲のヤクザの間では有名で、「マムシ兄弟」といわれていたようです。でも不思議なのが極道の小島さんの親父さんがなぜ▲警察道場で柔道の師範だったのかということです。「昭和」はそれが許される時代だったのかもしれません。
小島さんは家にいるより柳川組に住んでるみたいで、いまの当代のともあきさんとは本当の兄弟のようにしていました。近所のひとや私の親は「朝鮮人同士だから」と小島さんと柳川さんのことを噂してました。私は子供だから、チョウセンジンの意味がわからず、中学に入ってからも「挑戦人かあ、挑戦する人」だと思ってました。

中学生の私は不良グループに入って悪さをしてたけど、小島さんは不良ではありませんでした。その頃はもう小島さんとは付き合いがなくなってました。けれど小島さんが荒れていたのは知ってました。それは小学生からですがいつも「小島が○○をカミソリでやった」なんて話が学校中で有名で、一番の記憶は音楽室の楽器を全部ナイフかカミソリでこわして放送室の機械に小便してこわした話です。
鑑別所みたいなところを出たり入ったりして5、6年生の頃はあまり教室にいなかったです。だから中学の不良も相手にしないようにしていて「あいつは朝鮮だから近寄るな」と言ってました。小島さんの柔道部には利根川という私たちのグループとは違う番長がいて、その裏番が今の柳川当代で、だから小島さんは利根川さんにかわいがられていました。
でもある時、中間試験の番付発表のところの8番に小島一志の名前を発見してびっくりしました。学年400人の8番は超超天才の領域です。ますます私たちは不気味な小島さんを遠ざけました。柔道部の利根川さんも在日でしたので柳川グループを「在日愚連隊」と呼んでいました。その頃は朝鮮人の意味も在日の意味もわかってたから私たちには在日恐怖症みたいなアンタッチャブルな感じでした。

小島さんは隣県のいちばんの進学校にはいりました。それから20年以上は音信不通でした。
ただ一度だけ暴走族EVEの集会のときに小島さんが利根川さんのナナハンの後ろに乗ってたのを見たとき驚いたけど利根川さんはもう族の頭だったので、恐れ多くて小島さんに声かけられませんでした。あの時がキャロルのライブだったかどうか覚えてません。でも真面目になった小島さんですが、柳川さんの関係かいつも小島さんの周りには不良の大物ばかりがいました。

私は高校卒業後、自動車修理会社に就職しましたが長続きせずよく昔からの不良仲間と遊んでました。でも20で結婚して子供もできて真面目にならなくてはと思いS急便の運転配達をはじめましたが最初の約束と給料が全然違うのでやめて別の運送屋に勤め、それから親のコネでバスの運転手になりました。10年以上真面目に働きましたが会社の業績不信で突然リストラされました。
また悪い道に入り、柳川組の面看板の▲金属で運転手をしていたら、柳川当代から突然「おまえ一志を知ってるか?あいつは極真空手で黒帯とって本書いてるぞ。ちゃんと堅気にやってる。おまえ、こんなことやってていいんか?」いわれ、堅気になれと▲金属を辞めさせられました。
それで一念発起して親からお金をかりて家内(バツイチなので新しい妻)と一緒に▲駅の裏側の方に喫茶店を開きました。家内は娘を実家にあずけて一生懸命に手伝ってくれました。やっと店も軌道に乗った頃、柳川当代から教えられた小島さんを思い出しました。
極真をやろう!
でも、もう年齢は30代の後半なので、自信がありませんでしたが、もう今しかないと△支部の分支部に入門しました。稽古のときは家内に店を任せるので家内に悪くて、その分頑張りました。黄帯の時に大山総裁が亡くなり極真空手は分裂しました。私は自分の師範について協議会派にいきました。でも道場が遠くなったのと、よく師範を訪ねてくる三瓶師範の横柄さにうんざりして、道場から離れた頃に松井館長派の道場ができたので私はそちらに移りました。
私の師匠は城西系なので、ある時、城西の交流試合があるので見学にいきました。次の大会には壮年部で出場するつもりでした。
そこで小島さんと25年ぶりに再会しました。この大会で小島さんの息子さんが優勝しました。私は小島さんに声をかけましたが小島さんに「覚えてない」といわれてショックでした。すでに小島さんは有名人なので、あまりしつこく話せず、でも最後には「そうか、そうか」といって携帯電話の番号を教えてくれました。
けれど、私は自分を覚えてないという小島さんに少し腹が立ちました。この反感が後でとんでもない目にあうのでした。でも半年に1回くらいは電話で話しました。電話の小島さんはいつも陽気で昔のまんまでした。ただ貫禄がついたのと、親父さん譲りの怖さみたいのがありました。たまあに広島弁になりました。理由を聞くと「俺は芦原英幸を生涯の恩人だと尊敬してるからだ」といいました。
数年前の正月。私は小島さんに会おうと電話しました。小島さんも実家にいるというので「それじゃ、俺んちにこい」となりました。その時私は思わず前から持っていた反発から強がりをいってしまいました。こんど十人組手に挑戦するのが決まっていたので、つい「もう、引退した小島には負けない」と口が滑ったら、突然「おまえ、空手の世界なら俺の後輩だろ。後輩がいっていいこととよくないことぐらい心得ろ。そんなら、俺んちで組手やろう。その代わり覚悟してこいや。」などと脅され、怖くなった私は結局小島さんの実家にいきませんでした。
ところが運悪く、その2日後、▲の街中の狭い道で小島さんと鉢合わせしてしまった。小島さんはお母さんの車か窓にスモークの張ったベンツの助手席に乗ってました。私は正月なので昔の悪い友達(◇組幹部)数名とワンBOXに乗ってました。友達が窓から顔を出して怒鳴って道を譲れというと、なんと小島さんがベンツから降りてきました。そして友達の車をバンバン蹴っ飛ばし始めました。慌てて私が降りていくと、小島さんは鬼の形相で「テメエか! チンピラはのけ~」と言うなり私を掴んで膝ゲリの雨あられ。あっという間に顔面血だらけで歯も折れてしまいました。
友達は小島さんを知らず凶器を持って出てくるところをドアの外から蹴られ、そこに「わしは小島一志じゃ。柳川の舎弟と分かって喧嘩うるのか~!!」と怒鳴ったので、みんなで土下座し私は倒れていました。
後日、柳川の当代から電話があり、「おまえ、一志は堅気で頑張ってるんだ。一志の顔に泥を塗るな」と厳しく怒られました。
悪いことは続くもので、その年の2月、池袋でまた偶然に小島さんと出くわして散々説教されました。もちろん膝ゲリも数発もらいました。でも半年後、私は黒帯をもらった報告をすると、小島さんは喜んでくれました。「もう先輩後輩もない。仲間だ」といってくれた時には涙が出ました。

それからメールのやりとりをするようになり、小島さんのブログを知り、いつしか私は小島さんの弟分のようになりました。コミュニケーションBOXが始まったばかりの頃、私は匿名で会員になりましたが後にバレて少し怒られてから今の一撃倶楽部に誘ってもらいました。
今は娘と一緒に楽しみながら極真空手をやっています。うちの喫茶店にはたまに柳川当代が顔を見せては「一志はちゃんと堅気でやってるか? 一志が書いた『大山倍達正伝』は同胞の誇りだ。嬉しい最高傑作だ」と誉めていました。そして「この本を一志と書いた塚本先生はどんな人なのか?」と尋ねたので「小島先生の生涯のパートナーです」というと「一度挨拶させてもらいたいなあ」と笑ってました。

私にとって小島一志はこのように、非常に不思議な縁があります。いつも私は頭があがらず、でも小島さんは同級生ながら一番の出世頭だし、もう今は「兄貴」です。一撃倶楽部では私は末席ですが、「先生」「兄貴」の為に貢献したいと思っています。


記/一撃倶楽部・錬士 Back-Hand

※小島一志
今も極道ぶりは健在の私の親父です。dcd3b10d.jpg


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2007年07月27日

番外編/パズルで頭の体操~夢現舎編

番外編/パズルで頭の体操~夢現舎

現在、企業としての夢現舎の中枢は、格闘技ではなくズバリ「パズル」です。
そこで、より多くの人にパズルの面白さを知っていただくために、今後様々な種類のパズルを定期的に出題していきたいと思います。
なお、パズルの答えは、問題の終わりにある「続きを読む」をクリックすると現れる「次のページ」に載っています。それでは、パズルで頭の体操をどうぞ。


【問題1】
例のように、漢字を組み合わせて2文字の熟語を作ってください。
(例)周即竹言→調節

1.月衣田代→[ ]

2.南工貝犬→[ ]

3.山石少風→[ ]

4.衣可龍大→[ ]

5.者糸山立而 →[ ]

6.九屯十米糸→[ ]

7.里言立敬金→[ ]

8.示刀木角牛木→[ ]

9.立日日日日口→[ ]

10.耳可口可欠王→[ ]


【問題2】1.~6.の漢字は、それぞれある法則に従って並んでいます。どんな法則か推理して、それぞれの「?」に入る漢字をリストの中から選んでください。
なお、リストの漢字は一度ずつしか使えません。

●リスト/虎、鼠、獅、米、葉、地、語、明、貝

1.水→金→「?」→火→木→土

2.稲→「?」→幹→岸→鹿→亀

3.偉→路→「?」→尼→歩→屁

4.担→云→寿→駟→「?」→宍

5.牡→牡→双→蟹→「?」→乙

6.雨→「?」→笹→滝→波→針


【問題3】例を参考に、1.~5.のグループ内の漢字の頭に共通の漢字をつけ、それぞれ熟語を作りましょう。

(例)桜、紋、嵐、笠 +「花」 →花桜、花紋、花嵐、花笠

1.臣、安、雨、会、王、河、波、人

2.書、状、寿、髪、線、雪、米、衣

3.筋、竹、雲、年、果、春、色、草

4.曜、夜、用、没、米、常、時、向

5.気、下、使、然、文、才、狗、災


【問題4】次の14個の熟語を対義語同士で7組に分けましょう。

詳細、
凝縮、
綿密、
恒久、
拡散、
要談、
未満、
暫時、
粗雑、
閑話、
沿海、
概略、
遠洋、
超過


【問題5】矢印の方向に3文字の熟語のしりとりができるよう、□に漢字を入れましょう。
熟語は「新聞紙」→「指揮者」のように、同音異字(同じ読み方で異なる漢字)によってしりとりされます。

名調子→□議□→□勤□→□介
□→□半□→□生□→□業□→
□学□→□恩□→□良□→□人
□→□一□→□下□→□耐□→
□黄□→□能□→□発□→□憑
□→正社員



出題/夢現舎・伊藤昂 続きを読む

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2007年07月24日

投稿/我が青春の大山倍達~一撃倶楽部・Dragon

●我が青春の大山倍達


私は、兄、姉、私という3人兄弟の末っ子として貧しい家庭に生まれました。
私の父は、母とふたりで廃品回収業を営んでおりました。廃品回収業とは、一般家庭から不要 になった鍋やミシン、洗濯機、雑誌、ダンボール、古着などを安く買いつけ、そうして回収してきたものを解体し、鉄、銅、鋳物というように分別して売るという職業です。
分別した際に、高い値段で売れる真鍮や砲金が出た時の嬉しそうな両親の顔は今でも忘れられません。
高齢で持病持ちの父は時折、体調を崩しては寝込む事もありました。しかし、それ以外で父が仕事を休んだ姿は見た事がなく、朝6時には働きだし、夕方5時には仕事を終え、晩酌をして8時か9時には寝るというのが父の1日でした。毎日の晩酌以外には、父に楽しみといったものは一切なかったと思います。
裸一貫で私の生まれ育った土地に来た父と母は、一生懸命働いていましたが、働けど働けど生活は苦しく、私が物心ついた頃には、幼いなりに「我が家は貧しいんだ」という事が現実として理解出来ました。
廃品回収業は、世間の人からは「クズ屋」などと軽蔑され、決して普通の人ならばやりたがらない仕事でしょう。お金を稼ぐのにも効率の良い仕事ではなく、ただひたすら重労働のみというものです。
しかし、父と母には生活の糧を得る手段としては廃品回収業しかなく、毎日毎日水垂らして、体中を埃だらけに汚れながらも働きながら、私たち兄弟を食べさせてくれました。
両親の姿は、なりふり構わず一生懸命働く事の大切さを私に教えてくれました。
私は小学校に上がると、同級生の家庭と比べて「やはり我が家は経済的に劣っているんだ。貧乏なんだ…」と実感する機会が増えました。それに加えて、出生からくる差別も受ける事も増えていきました。
「何事にも負けない強い人間になりたい」と、この頃から私は強く思うようになったのです。そして、「高齢で病弱な父を早く楽にしてあげたい」「将来、俺が家庭を持ったら、愛する妻や子供たちには決してこんな思いはさせまい!」と考え、
「その為には必ず成功者になる」
そう心に誓いました。


中学に入った私は、剣道部に入部しました。小学校を卒業する頃に最終回を迎えた、森田健作主演のTV番組『俺は男だ』の影響で、私と同じように剣道部に 入った人は大勢いました。ところが、先輩たちの陰湿な虐めやシゴキで、みるみる内に同期の部員は辞めていってしまい、気づくと新入部員数は1/3以下になっていたのです。
それでも私は、「俺は絶対に辞めまい」と心に決めて3年間続けました。その間、残念ながら試合では全く結果は残せていません。しかし、先輩たちからの厳しいシゴキに耐え、3年間続けられたのは、幼い頃から持ち続けた「何くそ! 今に見ていろ」という負けん気があったのに加え、少年漫画雑誌で知った極真会館館長・大山倍達の存在がきわめて大きかったと思います。
劇画「虹を呼ぶ拳」「キックの鬼」に登場した大山倍達は、本文中に「この男は実在する」と紹介されており、その極めつけが「空手バカ一代」でした。私の中で、それまでヒーローといえば、「ウルトラマン」や「仮面ライダー」であり、彼らのように強くなりたいと思っていたものです。
ところが、大山倍達を知ったとき、私の中のヒーローは「ウルトラマン」から「大山倍達」に代わりました。そして、次第に「空手」という神秘的な武道に憧れていったのです。
中学時代までは、お金がなく、本は本屋で立ち読みするしかできなかった私ですが、高校に入ってからは、いろんなアルバイトに精を出しお金を稼ぎました。
稼いだお金の多くを大山倍達の本の購入に注ぎ込みました。そして、暇さえあれば大山倍達の本に読みふけりました。そのうち、どうしても自分も空手がやりたくなり、「マス大山空手スクール」という通信教育に入会してしまいました。
今思うと、笑ってしまうようなヘンテコな突き方、蹴り方をほとんど自己流で覚え、電柱に縄を巻き毎日ゴツンゴツン叩いたりしたものです。そして、手に出来た拳ダコを見ては、強くなったとニヤニヤしながら自己満足に浸っていたものです。


アルバイトは色々な業種を経験しました。どんな仕事も精一杯頑張ったつもりです。
「お前はよく働くなぁ、他の奴より時給を上げてやるぞ! 高校を卒業したらウチの正社員にならないか?」
そんな事を何人かの方に声を掛けて頂きました。でも、私は「えっ、どうして? 別に普通にやっているだけなんだけど…」といつも心の中で思っていました。しかし後から思うと、やはり父と母の後ろ姿をずっと見てきた影響で、どんな仕事に対しても一生懸命に汗をかく事ができたのだと思います。
そしてなによりも、後の私の人格形成に大きく影響を与えたのは、当時読んだ大山倍達の著者の中にあった言葉でした。
「石の上にも3年、いや必死になれば1年でできる」
「金銭は尊いものなり、されど執着するべからず」
「醜い利口でいるよりも綺麗な馬鹿であれ」
少年時代…貧しく、差別され、案の定、不良の世界に入り、ヤケッパチな生活を送りながらも、「将来、必ず金を掴むぞ!」と心に決めていた私にとって、大山倍達の言葉は、「人の道を踏み外してはいけない」という指針になってくれました。
高校時代に立てた誓いが2つあります。
1つは「成功する手段として上京し、大成するまでは絶対に帰らない」。
2つ目は「憧れの大山倍達率いる国際空手道連盟極真会館の総本部に入門し、黒帯を取る」というものでした。
実際、高校を卒業した私は、周囲の反対を押し切って東京に出ました。田舎から上京したばかりの私にとって、東京は見る物、食べる物…、何もかもが初めて体験する事ばかりでした。東京は私の予想を超えて、とても刺激的で魅力的な都会でした。
東京では、職場の先輩たちと一緒に住み込み、普通の仕事だけでなく、先輩たちの食事の支度、掃除、洗濯、お茶入れなども私の役割になりました。肝心の仕事はよく怒られましたが、料理と掃除だけは誉めてもった覚えがあります。
勤務時間は不規則でしたが、昼間は寝て、夜に仕事をする事が多い生活でした。初めの3ヶ月間は休日がなく、その後は1ヶ月に1日位の割合で休日がもらえま した。仕事後も自由時間はなく、外出する事も出来ません。まるで極真会館の若獅子寮のような生活です。
自由時間がないので、念願の極真会館総本部には入門する事も出来ず、暗澹とした思いを抱きながら私は生活を続けました。そして、若気の至りと諸事情で、1年半余りで仕事を断念。帰郷する事になってしまいました。
結果的に、私は高校時代の誓いを2つとも破ったのです。 続きを読む

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2007年07月22日

小島一志・作品集/「格闘技 史上最強ガイド」(6)

小島一志・作品集
「格闘技 史上最強ガイド」(6)
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(Q)キックボクシングと空手、起源は同じ? 何故、技術が違う?


現在の格闘技はほとんど「競技」として存在している。つまり格闘技の技術は、その競技が採用している「試合ルール」によって大きく異なっているということになるだろう。何故なら、技術発展は「試合ルール」に基づくというのが自然の摂理だからだ。
ルールが異なる以上、キックボクシングと空手の技術が違うのは当然といってもいい。第一、同じ「空手」でも、ルールが違えば技術は全く異なる。いまや寸止め空手と直接打撃制空手は別の格闘技といっても過言ではない。
もともとキックボクシング(ムエタイ)も空手も南派中国拳法から派生した格闘技というのが通説である。その原型はほとんど同じといってもいい過ぎではない。しかし現在、両者の技術は似て非なるものである。
さて、完全に異なるルールを持つ異なる格闘技であるにもかかわらず、空手とキックボクシングは常に比較され続けてきた。「空手対キックボクシング」を謳い文句にする異種格闘技戦も過去何度も行なわれてきた。少なくとも外見的には両者がきわめて似た格闘技だから…というのが大きな理由だろう。
もっとも前記したように、空手とひとことにいってもそれは1つではない。現在、空手にはおよそ300とも500ともいえる数の流派・団体が存在する。そして空手の試合ルールも厳密に分ければ100を下らない。そこで、ここではキックボクシングのライバルとされることの多い「フルコンタクト空手」を挙げて、キックボクシングと比較してみる。
キックボクシングのルールは、グローブを手に付けての顔面殴打が認められている。掴んでからの膝蹴りはもちろん、なかには肘打ちが認められている団体もある。試合はラウンド制で行ない、国際式ボクシングに準じた体重制が採用されている。
対してフルコンタクト空手は極真空手に代表されるように素手素足で戦い、ノックダウンによって勝敗を決する。だが顔面殴打や掴みが厳しく禁じられている。
このルールの違いが、両者の技術の差となるのである。キックボクシングは、基本的にアップライトといわれる上体を起こして後ろ足に体重を乗せる立ち方で構えるのが一般的である。両手で顔面を大きくカバーし、相手に対する。パンチはボクシングの技術と近いが、ディフェンスはボクシングほど上体を使わない。
蹴りはステップを使い全身の動きを利用し、しかし蹴り足の膝を抱え込まずに大きく蹴る。キックボクシングで多用される蹴りは、ローキックとミドルキック(中段回し蹴り)、そして膝蹴りといったところだ。
対してフルコンタクト空手の場合、腰を深く落とし、前後の足に均等に重心をかけて構えるのが一般的だ。パンチはモーションが大きく、接近戦が多いためボディアッパーが多用される。蹴りは蹴り足の膝を抱え込み、腰と軸足のバランスで蹴り込む。
キックボクシングに比べてフルコンタクト空手の蹴りは多彩である。後ろ回し蹴りやカカト落とし、横蹴りなどといった蹴りはキックボクシングではほとんど見られない。もちろん、これらの技術に優劣は存在しない。ルールの差が技術に表れているだけだという事を忘れてはいけない。
だが、あくまで「実戦」を想定した場合、蹴り(膝蹴り以外)のみをとればフルコンタクト空手のほうが合理的な部分が多い。一方、パンチや膝蹴り、肘打ちに関しては、キックボクシングのほうが現実的な技術だということは一目瞭然だ。



(「格闘技 史上最強ガイド」青春出版社/1999年8月1日発行・第2章「これが武道・伝統格闘技の真髄だ」からの抜粋)

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塚本佳子・作品集/いま極真会館が求められているもの(2)~小島解説コラム

塚本佳子・作品集/「いま、極真会館が求められているもの 極真空手と武道」(2)

from「新極真空手」5号



③アマチュアリズムの堅持

●女子世界選手権開催の経緯

現在、一見するとエンターテインメント志向性を感じさせてしまいがちな傾向にある「新生」極真会館ではあるが、もちろん松井館長を中心に一貫してアマチュアリズムの道を堅持し続けているのもまた事実である。
それが顕著に表れているのが、女子や少年、壮年部といった一般部以外の生徒の充実である。剣道や柔道をみればわかるように、「武道」もしくは「スポーツ」団体であるからには老若男女すべての人に受け入れられる組織を作る必要があるのは当然である。
「極真空手はいままで、実戦空手を学ぶことにより、肉体的な強さを求め続けてきた。しかし、子供や女性にそのよな強さを求めるには無理があった。だから、あくまでも主体は一般部であり、少年部や女子部は付属的な存在でしかなかった」
これは極真会館最高顧問である盧山初雄の言葉である。この言葉からもわかるように、極真空手の世界では常に少年部や女子部の存在が軽視されてきた。大山総裁自身、子供や女性が一般部と同じようなスタイルで闘うことを潔しとしなったったという。
そういった大山総裁の思いもあってか、少年部や女子部の試合が大々的かつ公に開催されることはなかった。それぞれの支部が独自にルールを試行錯誤しながら、内輪での交流試合を細々と続けていたのが現実である。
しかし数年前から、女子部の間から大会開催の要望が急激に大きくなっていった。特に早くから女子の大会を開催していた海外では、男子同様、世界規模での大会開催を促す声が増えていったという。
そんな声に応えるように1996年1月、ニューヨークにおいて第1回女子世界選手権が開催された。
ルールは男子同様、直接打撃制である。ただし、試合時間は本戦が2分、延長戦が1分で行なわれた。また、すでに外国で行なわれている女子の大会ルールに則り、チェストガード(胸パット)やマウスピースがオプションとしてつけられた。
この大会の成功により、女子の世界選手権に関しては、2年に一度開催していくことが松井館長から発表された。一般男子の世界選手権が4年ごとであるのに対し、女子に限って2年に1度の開催というのは、年齢的な問題を考えての措置と思われる。
女子の場合、あきらかに男子よりも選手生命は短い。それは根本的な肉体の構造の違いから避けられないことである。それを考慮したうえで、試合のサイクルを短くし、多くの経験を選手たちに積ませてあげたいという、配慮なのかもしれない。
また、男子と違って歴史の浅い女子部のレベルを早く上げるといった目的もあるだろう。実際に、世界選手権が開催されてから2年の間に、急速に女子のレベルは上がってきている。なかでも「女子大会後進国」である日本のレベルは飛躍的に伸びているのは間違いない。

●成長著しい日本の女子部

第1回女子世界選手権。
日本からは8名の選手が出場し、型の部に3名、組手の部に6名の選手がエントリーした。
彼女たちにとって、「公式」の大会出場は始めての経験だった。これまで、交流試合レベルでしか試合を行ったことがなかったからだ。ましてや直接打撃制での試合経験がある人間は誰一人いなかった。女子の全日本選手権もなかった当時、いきなりの世界選手権出場は、彼女たちにとってかなり大きな決意を要したはずだ。
しかし、この大会を機に日本の女子部は変わった。世界選手権に出場した選手を中心に、女子部を盛り上げていこうという気運が生まれたのだ。総本部では、女子部の選手クラスが作られた。
そして同年9月、日本でもやっと全国レベルでの女子の大会が開催された。初めての試みということもあり、まずは交流試合と銘打って開かれたが、翌年からは正式に全日本選手権となった。
この大会は第2回世界選手権の選抜試合と位置づけられた。だからルールは世界選手権と同様に行なわれた。
このように、女子部を筆頭とした、少年部、壮年部の充実は、松井新体制になったからこそ実現できた「成果」だといえるのではないだろうか。

●全日本選手権に組み込まれた第2回女子世界選手権

大会の開催を機に、日本の女子部は飛躍的な成長を遂げた。それは昨年11月に開催された第2回世界選手権で証明されたといえる。
前回はベスト16に2名入っただけだったが、今回は軽量級で江口美幸が準優勝、中量級で村上智美が3位、重量級で今井布美が準優勝と、各階級に1名ずつが入賞している。もちろん、日本での開催ということも影響していたと思われるが、それでも十分に評価できる結果である。
それでも、私には拭い去れない不満が残った…。
第2回世界選手権という場において必死で闘う彼女たちの姿をどれだけ多くの観客たちが真剣に見ていただろうか? 私はこの大会を通して、やはりまだまだ女子部の地位が低いことを痛感せざるを得なかった。
そもそも、第2回の女子世界選手権はブラジル支部主催で昨年1月に開催される予定だった。しかし、諸々の事情からブラジルでの開催が難しくなったという理由で大会の開催は延期、一転して未定となってしまった。その後、大会に向けて稽古を積んできた選手たちはいつ大会が開催されるのかもわからずに稽古を続けることになった。
第2回女子世界選手権が日本で第30回全日本選手権と同時に開催されることが決定したのは、大会の半年ほど前だった。いわば男子の大会の添え物的な扱いしかされなかったともいえる。そのような部分に、まだまだ大会の整備の遅れと同時に、女子の大会に対する主催者ならびに関係者やファンたちの意識や関心の低さが読み取れる。
毎年開催されている男子の全日本選手権の日程はすでに1年も前からわかっていることだ。それに向けて選手たちは調整をしていく。それこそたった1週間試合日がずれただけでも、調整方法は変わってくるはずだ。
しかし、前述したようにいくつもの曲折を経たのち、第2回女子世界選手権は、第30回全日本選手権と同時開催というかたちに落ち着いた。
大会日程は2日間。初日は非公開で行われ、2日目の準決勝は男子の全日本選手権の初日に、そして決勝は全日本の2日目に、というように、男子の試合の合間に行われた。
そこには、女子にも華やかな陽の当たる場所で試合をさせてあげたいという主催者側の配慮があることは理解できる。選手たちにとっても、そのほうがやりがいはあるのかもしれない。
しかし観客は、やはり全日本選手権の添え物的存在としか女子の試合を受けとめていなかったのではないだろうか?
それは1997年に男女一緒に開催された世界ウェイト制選手権でも同様だった。女子の試合になると、休憩時間と勘違いしてるかのように席を立つ観客が多かったことは間違いない事実である。
今後、本当に女子の大会を充実させていこうと考えているならば、やはり非公開であっても独自に大会を開催していくべきだと私は思う。
柔道の女子大会も、現在でこそ田村亮子などのスター選手が出てくるようになって盛況ぶりを見せているが、開催当時はそれこそ身内だけでやっているような小さな大会だった。それでも地道に女子だけの大会を続け、回を重ねていくごとに選手たちのレベルは上がっていった。その結果、現在のように全国レベルで認められるようになっていったのである。
まだ2年の歴史しかない極真空手の女子部である。当然、何十年もの間、肉体的な強さのみを求め、一般の若い男子を中心に受け入れられてきた極真空手の世界で、その地位を認められるまでには時間がかかるだろう。しかし、たった2年の間に飛躍的な成長を遂げていることから考えても、着実に試合を重ねていけば、いずれ柔道のように男子と同等な地位を築けるに違いないと私は思う。
そして、女子部や壮年部、少年部の大会が整備されたとき、極真会館は真の意味で武道団体として、さらに広く認知されていくことだろう。 続きを読む

samurai_mugen at 07:52|Permalinkclip!小島&塚本作品集 

2007年07月20日

塚本佳子・作品集/いま極真会館が求められているもの(1)

塚本佳子・作品集/
「いま、極真会館が求められているもの 極真空手と武道」(1)

from「新極真空手」5号
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K-1など、エンターテインメント色の強い格闘ショーがもてはやされている現在、過去一貫して「武道精神」を掲げてきた極真会館に、大きな変化が生じつつある。
極真会館の変化の正否を問う。


①数見時代…第6回世界選手権から第30回全日本選手権

●分裂乗り越え大成功に終わった第6回世界選手権

割れんばかりの歓声が、東京体育館を包み込んでいた。その歓声を一身に浴びていたのは2名の屈強な男、数見肇とグラウベ・フェイトーザだった。
1995年11月5日、第6回世界選手権・準々決勝。本戦、スロースターターである数見にとっては厳しい試合となった。ある面、数見の弱点ともいえる出だしの悪さをグラウベは熟知していたのだろう。グラウベは本戦で一気に勝負をつけるべく積極的に攻撃を仕掛けていった。
しかし、数見は持ち堪えた。
グラウベの思惑は外れ、本戦は引き分けに終わった。そして、延長戦に入ったことで会場内のボルテージは最高潮に達した。


過去5回行なわれた世界選手権では、すべて日本人がチャンピオンに輝いている。もちろん6回目となるこの大会でも、空手母国日本としては、絶対に譲ることのできない王座であった。
しかし、回を重ねるごとに急速に外国勢は力をつけ、すでに20年前…第2、3回大会から日本の玉座転落は時間の問題だといわれて続けてきた。
とはいえ、これまで世界王座を死守してこられたのは、空手母国の威信を背負った日本選手のプライドからだったのだろう。
そして、やはり第5回大会以上に日本の危機が叫ばれた第6回大会、日本の牙城をもっとも脅かす存在として注目を集めていたのがブラジル勢だった。なかでも、グラウベとその兄弟子であるフランシスコ・フィリォの強さはグンを抜いていた。
ちなみにフィリォは、極真会館の修行の中でもっとも苛酷だといわれる「百人組手」を、ひとつの黒星を喫することなく成し遂げたほどの猛者である。
過去、百人組手を達成できたのはフィリォ以外に5名だが、黒星もなく百人と戦い続けた人間はフィリォ一人だけだ。いかにフィリォが「世界の脅威」と呼ぶにふさわしいかがわかるだろう。
「誰がブラジル勢の勢いを止めるか!」
大会前、多くの格闘技雑誌がこぞって予想を繰り返していた。また、ファンの間でも同様な議論が重ねられていたに違いない。


そして第6回世界選手権には、初めて王座を海外勢にもっていかれるかもしれないという以上にもう1つ、懸念されていたことがあった。それは大会開催自体の危機だった。
第6回世界選手権を11月に控えた年の春、極真会館は4半世紀の歴史のなかで、もっとも混乱した時期を迎えることになった。
組織分裂…。
大山倍達総裁亡き後、極真会館は後継者問題をめぐって大きく揺れ動いていた。大山総裁か遺した遺言に従って松井章圭が2代目館長を継いだ形になってはいたが、松井の2代目就任の直後から、松井館長に対して異議を申し立てる支部長が出てきた。
結局、極真会館は松井章圭を「館長」として認める人間と、そうでない人間とで成り立つ、2つの組織に分裂してしまった。
世界選手権の前年に開催された第26回全日本選手権当時、極真会館はひとつの組織として大会を開催した。この大会で翌年開催される世界選手権の出場メンバー8名が決定していた。
しかし、分裂騒動後、極真会館はひとつに収集されることなく、それぞれの組織が世界選手権を開くという異常事態を迎えることになってしまった。
ただ、すでに決定していた1995年の11月に東京体育館で開催される大会は、松井館長率いる極真会館の主催ということに落ち着いた。そして分裂の結果、すでに決定していた8名のメンンバーのうち、3名が松井館長側の世界選手権に出場することになっていた。逆にいえば5名の選手が松井派を離れた松井の元を離れることになった。
そういった混乱状況ゆえに、「空手オリンピック」と呼ばれている4年に一度の世界選手権がきちんと開催されるのか、またいつものように盛り上がるのだろうか。そう懸念したファンは多かったことだろう。
しかし蓋を開けてみると、これまでに行なわれた5回の世界選手権と同等、いやそれ以上に観客を魅了する結果となった。


冒頭にある準々決勝…。
この試合は、本戦こそグラウベ優勢に進んでいったが、延長戦に入り時間を経るごとに数見が挽回を見せ始めた。そして、日本の王座失脚も、組織分裂の後遺症も、結局は杞憂に終わるであろうことを予感させる試合展開となった。
これまでの闘いぶりからも、グラウベの強さは噂に違わぬものだった。しかし、観客の大多数は日本の牙城を守ろうと必死で闘う数見に、自分の熱い思いを重ねていたのではないだろうか。
実際に私自身、思わず仕事を忘れ、一介のファンとして数見の勝利を願った一人だ。
会場内に「数見コール」が響き渡る。それは、最近の極真会館主催の大会では、めずらしい光景だった。試合場下のセコンドについている同門たちが、選手を盛り上げるために喚声を張り上げることはあっても、観客がセコンドと一体となって一人の選手に声援を送ることは近年では稀な光景である。しかし、この日のこの試合、確かに大多数の観客の気持ちは同じ方向に向かっていた。
その声援に応えるかのように、試合後半、数見は大逆転を見せ、下段回し蹴りによる「一本勝ち」で勝利を収めた。
そして、その興奮も覚めやらぬ準決勝。
数見はグラウベの兄弟子であるフィリォとの対戦を迎えた。
再び会場内の雰囲気が「打倒! ブラジル」へと向かった。前述したように、グラウベ以上にその強さが認められていたフィリォである。ここで数見がフィリォを止めなければ、初の外国人チャンピオン誕生の確率がきわめて高くなる。
グラウベ戦以上に、数見の肩には「勝たねばならない」という大きな重圧がかかっていたはずだ。
試合はほぼ互角のまま、本戦、延長1回、延長2回、そして体重判定と続いた。だが、それでも勝敗は決まらなかった。残るは試し割り判定のみである。
「両者の試し割りの枚数を発表します」
アナウンスがかかった。その瞬間、これまでとは打って変わって会場内は静まり返った。
「フランシスコ・フィリォ選手22枚、数見肇選手24枚!」
この瞬間、東京体育館内に怒濤のごとく拍手が沸き起こった。
結果的に、数見は決勝で先輩である八巻健弐に敗れ準優勝に終わったが、本当の意味で外国勢の勢いを食い止めたのが数見であったことは誰もが認める事実だろう。
そしてこれが、現在も続く「数見時代」の幕開けだったといえる。

● スタートを切った第7回世界選手権の選抜

あれから3年、第7回世界選手権の選抜を兼ねた全日本選手権が開催された。また、今回は30回という節目の大会でもある。
毎年大会が近づくと、マスコミが騒ぎ立てる優勝者の予想だが、相変らずこの第30回大会でも各誌面を賑わしていた。
しかし、過去の例を見ても、今回ほど「本命」が揺るぎないものだったことはないだろう。チャンピオンはほぼ間違いなく「数見肇」であろうというのが大方の予想だった。私自身、数見の安定性から見ても、また他の選手のレベルから見ても、数見の優勝を疑うことはなかった。



数見が初めて全日本選手権に出場したのは1992年の第24回大会である。
初出場ながら、数見は準優勝に輝いた。数見が注目され出したのはここからである。そして翌年に開催された第25回大会で優勝したことにより、前年の活躍がフロックではなかったことを自ら証明した。
第26回全日本選手権は、翌年の第6回世界選手権の選抜試合も兼ねていた。この大会で数見は3年連続して決勝進出を果たし、同時に世界選手権の切符を手にした。
ただ、3年連続して決勝進出を果たしても、全日本選手権で優勝しても、年齢や経験からいってまだまだ日本選手を引っ張っていく立場として数見はさほど注目されてはいなかった。
第6回世界選手権出場メンバーの先頭に立っていたのは、同大会で優勝した八巻であり、世界選手権2度目の出場となった田村悦宏、伝説の強豪・黒澤浩樹らであった。
それでも…前述したように、第6回世界選手権では決勝戦でこそ先輩の八巻に敗れたものの、もっとも活躍しファンの心に残る試合をしたのが数見である事実は疑いがない。
そして、世界選手権の翌年に開催された第28回全日本選手権。世界チャンピオンとなった八巻が現役引退を表明していたこともあり、準優勝者の数見が実質上のディフェンディングチャンピオンとなった。
この大会、数見は厳しい闘いを強いられた。試し割りで右腕の骨が折れ、準決勝では膝の靭帯を損傷した。すでに肉体的な消耗は想像を絶するものだった。それに加え、決勝はオーストラリア支部の業師、ギャリー・オニールとの対戦である。前年に行なわれた世界選手権よりもさらに精神的な重圧は大きかったはずだ。
しかし、その重圧を跳ねのけ王座を手にした数見は、翌年の第29回大会も制し、実に6年連続決勝進出という快挙を続けつつあった。


極真会館には、世界選手権の翌年に開催される全日本選手権で大波乱が起こるというジンクスがある。そのなかで未知の新人が台頭してくるケースは多い。
ところが、第6回世界選手権の翌年に開催された第28回全日本選手権どころか、第29回大会でも若手の目立った活躍は見られなかった。結果的に数見の独走を許してしまっているのが現状である。
なぜ、新しい世代の選手が育ってこないのだろうか。
理由としては、ふたつの根拠が考えられる。
まずひとつは、やはり組織分裂の後遺症である。単純計算をすれば、分裂によって、当然選手数も半分になったと考えられる。第26回大会で選ばれた8名の世界選手権出場メンバーのうち、松井館長側の組織に残ったのは3名に過ぎなかった。分裂によって選手層が若干薄くなってしまったことは否めないだろう。
ふたつめの理由は、これもひとつめの理由からの派生だが、そもそも第6回世界選手権に出場した大多数が、もともと若手であり、上り坂にある選手だったということだ。
過去、世界選手権には全盛期を過ぎたベテラン勢が出場するケースが多く、結果的に選手たちはそれを機に現役を引退する。そこを 狙って新人選手が活躍し出すのがこれまでのパターンだった。
しかし前述した理由から、その後の大会ではすでに世界選手権で頭角を現していた選手たちの闘いとなった。
ただ、分裂の後遺症として、若手選手が過去の通例よりも早く大舞台を踏んでしまった部分はあったにせよ、世界選手権から3年が経過した現在でも、新世代の選手が数見を脅かすレベルに達していないという事実は否定できないだろう。


第30回全日本選手権大会。
大方の予想どおり圧倒的な力で数見が優勝した。しかし、数見にはまだ及ばないものの、第28回大会や第29回大会と違い、3位に入賞した木山仁や4位の野地竜太など、新しい芽が育ってきているのもまた事実である。
野地に関しては、第28回大会で岩崎達也にKO勝ちをするという鮮烈なデビューを飾ったものの、その実力についてはいまひとつフロック的な見方が消えなかった。ところが、今大会で再び岩崎からKOを奪い、しかも4位に入賞したことによって、「打倒! 数見」の最右翼として認められたはずである。
第30回大会は今年開催される第7回世界選手権の第一次選考会でもあった。ベスト8に入賞した選手はすでに世界選手権への切符を手にしたことになる。
木山や野地など、半数が世界選手権初出場の選手である。数見に少しでも追いつけるように、そして追い越せるような力を1年の間に身につけてくれることを、多くの関係者やファンが望んでいるはずだ。 続きを読む

samurai_mugen at 14:42|Permalinkclip!小島&塚本作品集 

読者からのメール/「小木レイプ事件」の新極真会の対応に怒り!

小島先生、突然のメールを差し上げて失礼します。今年4月頃一度だけメールさせていただいたAと申します。○歳で○○会館の初段です。毎回ブログを楽しみに拝読しております。
今回は新極真会支部長・小木剣太のレイプ事件がらみで、物凄く不愉快な思いをしたのでメールします。
既にご存知かもしれませんが、新極真会三好道場のHPでの三好師範の7/2のプライベート日記です。まずは全文を紹介します。



●総本部事務局と関西地区の頑張りに感謝!
 
22日の事件を聞き、事務局の対応はとても素早かったと思います。大阪泉州支部の会員の皆様全員にお詫びの電話を入れ、事務局長はすべての関係団体、後援団体に直接お詫びに回ってくれたそうです。先週の日曜日24日には、会員の皆様全員に事情説明会を開催し黒岡、高橋両支部長協力の下、少年部やご父兄の皆さんが多数駆けつけて下さり今後の事を協議されたようです。中には驚きと情けなさとこれからの不安などが入り混じって、泣いてる人も、涙ぐんでる人も沢山おられたそうです。
一度、道場は閉鎖。会員の皆様には全員退会して頂きました。その間(事務局長の)小井君は大阪にずっと残って、関係者の皆様、関係団体に直接お詫びの挨拶をして回ったそうです。テナントの解約と関係者へのお詫び。その後、子供達やご父兄のご要望に応えるべく、新しいテナントを探し契約を行ないました。先週末に新しい道場で、子供達が「稽古を再会したい!」と言う沢山の要望になんとしても応えるべく、総本部事務局のみんなは総動員で、カメラマンの林田君までが深夜に東京の事務局を出発し、早朝から土曜、日曜で引越しを済せたそうです。
本日月曜日には、これからについての説明会を開催。全員で稽古も行なったそうです。子供とご父兄合わせて150人くらいが集まってくれ激励してくださったり、励まし合ったり、協力をして下さったそうです。大阪の皆さん、総本部事務局、皆さんの頑張りがある限り、新極真会はまだまだ素晴らしい組織に成るでしょう。これからも全員一丸となって頑張りましょう。
大阪泉州の皆さん、四国の高知からも応援しています。   押忍



レイプ事件の事後処理にかけずりまわった新極真会職員に対し、なんと「頑張りに感謝」と書かれています。これはあまりにも社会常識に欠けていると私は思います。「身内」が起こしたレイプ事件の事後処理をした「身内」に対して、「身内」である三好師範がネットというオープンな場で労を労うのはあまりに非常識だと感じました。
三好師範の気持ちが理解できないことはありません。何の罪もない職員が一日中、謝罪や説明を必死でしてるのを知れば、上の立場の人間は当然労ってやりたくなるのは当然でしょう。
でも結局、新極真会の関係者が謝罪や事情説明に動き回っていたのは「身内」やスポンサーだけということを三好師範は堂々と公言しているのです。
そんなねぎらいは新極真会の「身内」だけの場でやるべきだと思います。「ご苦労さん。ありがとう」と。ネットは公開の場です。被害者の目に触れる可能性もあるのです。
以前、早稲田大学や慶應大学の学生が起こしたレイプサークル事件の時も、早大職員は事後処理に追われたはずですが、公の場で「職員の頑張りに感謝」などと発言した関係者は誰もいません。きちんと公私の分別をつけていました。そんなことは常識中の常識ではないでしょうか。
プライベート日記というタイトルであっても、あれは世界中に公開されている「公人」としての発言としか世間は受け止めません。三好師範には「公私」の言葉を区別する社会常識が欠けています。被害者への配慮がまるでないのですから。
新極真会がいちばん最初にするべきことは、被害者への誠意ある謝罪と新極真会代表の緑師範の辞任でなければならないと思います。しかし三好師範たち新極真会の人間には被害者を思いやる気持ちなどまったくなく、自分たちを守るだけにしか頭がいかない非常識集団です。被害者への謝罪をいっさいなにも書かずに、身内への感謝しか書いてないなんて考えられない思考回路です。
私は今まで、小島先生の新極真会批判を読んでも「これは少し言い過ぎでは? いくらなんでも、こんなデタラメな組織などあり得ないだろう」と思っていたのですが、今回の三好師範の日記を読んで、やっと「あ、小島さんの言ってた事はなにもかも正しかったんだ」とはっきりわかりました。
私はあまりの非常識さに怒りを覚えたので、三好道場の掲示板に削除依頼を書き込もうと思ったのですが、空手界にもっとも大きな影響力を持つ小島先生に私の思いを託そうと判断しました。
もし、小島先生が私の考えに少しでも共感していただけるならば、あの三好師範の日記の問題についてブログで触れていただけないでしょうか。
(後略)



※小島一志
この私へのメールは勿論、実名であり自らの身分をしっかりと明かした上でのものです。プライバシーの問題もあるので、ここでは仮にA氏としておきます。
これと殆ど異口同音のメールが私のもとにたくさん寄せられています。まさしく、みなさんが主張するように、三好氏の文章には社会的道徳心が微塵もありません。ただ問題なのは、三好氏に限らず、新極真会の多くの関係者が、自らの非常識さや道徳心の欠如について全く理解していない点です。
きわめて卑下た言い方をしますが、「馬の耳に念仏」「○○は死ななければ治らない」の類であり、私がこれまで主張してきたように、このような非常識かつ社会道徳心の欠如は新極真会の専売特許といっても過言ではありません。常に視点が自らの組織にしかなく、まさしく自閉的集団が新極真会なのです。
先の「某事件」についても、本来ならば事件当事者の直接の「先生」である三瓶啓二氏が謝罪なり弁解をするのが道徳的義務です。また当事者が新極真会に所属している以上、新極真会も組織としての責任を取るのもまた当然の常識です。しかし新極真会も三瓶氏も完全に「無視」し続けました。
結局、当事者の先輩に過ぎないM氏が自らの恥を晒してまで、後輩である当事者を「守り抜き」ました。この一点だけでも、M氏の「男気」と同時に紳士的かつ常識人ぶりが十分に理解出来るでしょう。反面、師である三瓶氏は「俺には関係ない」「そんなヤツのことは知らない」と言い続ける事で、いかに人間性や道徳心が欠けているかが明白になったはずです。
そんなくらいだから、過言、大山総裁の遺族に対して行った卑劣非道きわまりない行為についても、いまだに「小島の捏造」として必死に言い逃れしようと懸命なのです。
いずれにせよ、A氏からのメールはあまたある新極真会への批判の一例とだけ言っておきます。今後も、この新極真会の問題に限らず、読者からの意見や主張は積極的にブログで掲載していきたいと思います。
どうか遠慮なくメールをお送りください。
また「実名」での公開でも可という方がいれば喜んで実名公開いたします。その際、万が一蒙る可能性のある「危険」については小島、夢現舎が責任を持って保護いたします。

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2007年07月19日

投稿/我が愛しく怖い小島一志~一撃倶楽部・Dr.SHIVA & 小島一志新コラム

我が愛しく怖い、小島一志


41歳。公務員。ばついち…。
普通に仕事をこなし、帰りにジムで泳ぐ。近所のスーパーで買った食材で自炊し、食べ終わった後に腕立て伏せとインターネットで遊ぶのが日課である。もちろん洗髪後に育毛剤をふりかけるのも欠かさない。

栃木での「仮面浪人」時代に極真空手に出会う。ガチンコでどつきあう爽快感とその競技体系の素晴らしさに感動、稽古に夢中になるも、結局は中途半端な性格故か茶帯で断念。
その後も極真空手に対する興味は薄れることなく、本屋ではまず「格闘技コーナー」へ直行する習性が今日まで続いている。

ある日いつものように自宅でインターネットをしていたところ、「力なき正義は無能なり」というブログに出会った。そのブログは極真会館総裁である故・大山倍達や芦原会館創始者、故・芦原英幸らのエピソード、さらには主宰者である小島一志本人のエッセイが連載されていた。
ちょっとした裏話などもあり、非常におもしろいブログであることに私の胸は騒いだ。いつしか、週に何回かはそのブログを開くのが習慣となった。そして、ひょんなことから小島さん本人とメールでのやりとりをする仲となる。いわゆるメル友である。さらには直接、小島さんと話す機会に恵まれた。
そんな縁から、多分私の職業を生かせると小島さんがふんだのかもしれないが…ここでは明かせないが、コミュニケーションBOXを経て、小島さんを囲む「ある結社」のメンバーに加えていただくことになった。この「結社」は鉄の掟を共有する秘密、秘密、秘密の組織だとしか言えない。組織の目的・活動も当然秘密だ。秘密を漏らしたならば、多分私の命はないだろう。
思えば恐ろしい組織に入ってしまったものである。それも並み居る格闘家ぞろいのなかに、私のような未熟者が。後悔しても、もう遅い。もう抜けることは許されないのだから…。

小島さんの話はいつも明確でおもしろい。私たちは常に「教祖さま」でも仰ぐように、小島さんの話に耳を傾ける。小島さん自身が極真空手黒帯、柔道黒帯の猛者であり、格闘技に精通しているのは当然として、文学、歴史、政治、恋愛…とさまざな分野に造詣が深いのには毎回驚かされてきた。
小島さんは「偽悪者」「悪党」と自称する。綺麗事や偽善をこの上なく嫌う。だから、彼の言葉には一切の飾りがない。たまに発する私の質問に対する答えは、実に鋭く、思わず納得させられる。小島さんの話はいつも私の心にストレートに響いた。
また、小島さんは夢現舎という出版会社を経営するのみならず自ら作家・ジャーナリストとして数々の名著を生んできた。空手・格闘技界で小島一志の名前を知らぬ者はいないだろう。
最近、話題となった「大山倍達正伝」(新潮社)によって、さらに小島さん(そして小島さんが唯一頭が上がらないという生涯最初にして最後の最強最愛のパートナー・塚本佳子先生)の名前は一段とメジャーになった。

小島さんと親しくなっていくにつれて、彼が矢沢永吉を目標にする、向上心が強い精力的な人物であることが分かった。しかし一方で、小島さんの短気さには少々戸惑うこともあった。筋が通らないことをしでかすと、小島さんの雷が落ちる(しかし、後にまさか私が小島さんの雷に直撃されるとは、その頃は思いもしなかった…)。それでも、私は小島さんの人柄に益々惹かれていった。
時折、私は小島さんと電話で長話をする。夜型の小島さんは深夜の電話を好む。だから毎回、夜12時頃に電話をする。
電話を通して耳に入る小島さんの声は、常に大きく精気に満ちている。しかし、豪快ながらも決して偉ぶったり威張ったりしない。話し方は実に紳士的でフレンドリーだ。いつも自分を飾らない。会話の内容は、小島さん自身が書籍で述べていることと寸分も違わない。驚くほどに一貫性のある実に正直なとても熱い人でもあった。
時々混ざる栃木弁は、ほのぼのとしてこちらを包み込んでくれる。ところが、芦原英幸を生涯の恩人と尊敬する小島さんが、芦原英幸を真似た広島弁を使い出すと、話の内容は突然きな臭くなってくる。そして…最後に「組織の指令」が言い渡されるのだ。また、急に広島弁になったときは、必ず小島さんは怒っている。いまに雷が落ちる! 私たちは小島さんの広島弁に戦々兢々としているのだ。
話が一段落ついて電話を切る頃には朝4時を過ぎている。あっという間の4時間である。

電話を切った後は、なんだか小島さんが昔からの友人のような気がしてとてもうれしい。少しだけ怖いが…。小島さんと話した翌日は、睡眠不足でも何故か心が弾み、一日中うきうきした気分が続く。
「カリスマ」と呼ばれる人は、周囲の人間に対して多大な影響力を持つという。私にとって、まさに小島さんがそのような存在なのかもしれない。小島さんとやりとりすればするほど、どんどん小島さんに傾倒していく自分を私は感じた。
しかし、小島さんへの傾倒がいつしか甘えになっていった。気がつくと、仲間たちのなかで、やたらと軽薄な言葉を連発するなど、かなり調子にのった自分がいた。たぶん小島さんはそんな私の様子を内心、苦々しく思っていたに違いない。
ある日のことだ。
軽薄な私の言動が、小島さんの逆鱗にふれることになる。私の「女性蔑視」的なコメントと、私の職業上の「モラルの低さ」がことの発端だった。
私は小島さんに猛烈に罵倒された。これでもかと言わんばかりに私は自らの人格の全てを根こそぎ攻撃された。小島さんの怒りは尋常ではなく、私は全身が 硬直するのを感じた。完全に頭の中が真っ白になった。
挙げ句に小島さんは「いまからでもオマエのところに飛行機で飛んでってやるけえ、ドスでもヤッパでも用意して待っちょれや。しばき倒してやるけん」とまでいいだした。蛇の道はヘビというように表にも裏にも明るく、少年時代から「極道」の世界にいたという小島さんだ。しかも、大嫌いだと公言して憚らない飛行機に乗って私に「説教」にくるというのだから、ビビらない方がどうかしている。私はひたすら恐怖にうち震えた。
しかし考えてみれば、小島さんの怒りはもっともであり、私は己の未熟さを嫌というほど見つめさせられることになった。
社会人になって以来、他人からこれほど怒られたことは初めてのことだ。反省するというよりしばらく放心状態になってしまった。
41歳にもなる私に対してそこまで本気になって怒ってくれた小島さんにはとても感謝している…。
だが、当初はそれどころではなかった。だから、さすがに数日間はヘコみすぎて、私は夜寝ることも出来なかった。食欲もなく、仕事中もふと気がつくと小島さんからのお叱りが頭の中をビュンビュンと回っている。怖くて小島さんに連絡することもできない。
数日後、放心状態から何とか解放され、小島さんのお叱りを冷静に受け止め始めたそのときである。
突然、小島さんから私の携帯にメールが送られてきた。そこには、ただひとこと「逃げるな」と書かれていた。
ハッと目が覚めた。
同時に、自分の過ちが昇華されていくような気がした。もう大丈夫かもしれない。今の自分なら小島さんに連絡できるかもしれない。私の返事に対し、小島さんは何も答えなかった。
そう、まるで分かっているよといわんばかりに。

小島一志…。
その心は海のように深く慈愛に満ちている。しかし筋道を外しその逆鱗にふれたものは半殺しも覚悟し、自信喪失、再起不能の「一歩手前」まで奈落の底に突き落とされることになる。
この「一歩手前」がミソである。
けっして倒した相手を放ってはおかない。必ず手を差し伸べ、そこからより高い人生のステージに引き上げてくれる。ある意味では神様のような存在か。でもイエスキリストのイメージではない。正反対である。どちらかというならば、「閻魔大王」に近いかもしれない。小島一志に興味がある人は、好き嫌いにかかわらず、一度小島さんにメールを送ることを勧める。「本」ではわからない生きた小島一志に出会えるはずだ。

再び小島一志…。
私にとって愛しく怖い存在である。そして今日も、私たち「結社」の闇の活動が始まるのだ…。

(了)

記/一撃倶楽部・錬士 Dr.SHIVA 続きを読む

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小島一志・作品集/「格闘技 史上最強ガイド」(5)

小島一志・作品集
「格闘技 史上最強ガイド」(5)


劇画『空手バカ一代』で有名になった芦原英幸の実像

芦原英幸は元極真会館の支部長で、梶原一騎原作による劇画『空手バカ一代』で扱われて以来、「ケンカ十段」というニックネームとともに空手界最大のヒーローとなった空手家である。
その強さは空手界のみならず格闘技界に比類なく、数々の伝説を残してきた。
芦原は1944年12月4日、広島県佐伯郡に生まれた。小学校から中学にかけて剣道を学ぶ。1960年、上京した芦原は自動車整備会社に勤めながら「喧嘩三昧」の生活を送る。たまたま街の電柱に貼られていた「空手道場生募集」というポスターを見て大山道場に入門。これが後の極真会館である。
数年で初段を取得した芦原は、1964年、極真会館の正指導員となる。1967年、西日本に極真空手を普及することを当時の極真会館館長である大山倍達から命じられ、まずは拠点を四国愛媛県に置く。
1970年、八幡浜に常設の道場を建設。続いて1979年、松山市内に芦原道場(極真会館愛媛支部)を構え、その後、大阪や兵庫にもその勢力を広めていった。
1980年9月、極真会館を離れた芦原は、「芦原会館」を設立。芦原独自の技術を「サバキ」として体系立て、その勢力を全国さらには世界中に拡大している。
1995年4月24日、逝去──。
芦原の伝説は数多い。極真会館の道場生時代、池袋や新宿の歓楽街を歩いてはガラの悪そうな不良を見付けると、「もし暇なら僕と喧嘩をしてくれませんか」といいながら大立ち回りを演じたという逸話は有名だ。
また四国に渡ってからは、四国中の空手道場を片っ端から訪ね歩き、「ひょっとして、それって空手?」という決まり文句をいってから道場破りを繰り返したともいう。
本物の芦原のキャラクターはまさしく破天荒であり『空手バカ一代』の中で描かれた芦原英幸そのままだった。だが、芦原は決して喧嘩好きなだけの跳ねっ返り者ではなかった。
極真会館の元全日本王者の某氏は、「芦原先輩は現在の極真空手の基本となる動きを作った人です。下段蹴りや後ろ回し蹴り、下突きといった今ではポピュラーな技術はみんな芦原先輩が使い出したものです」と語る。
また、ある極真会館関係者は、「昔、オランダからきた大男の空手家がいて、本部の指導員や道場生は誰も勝てなかった。そんなオランダ人を簡単に倒してしまったのが芦原先輩だった」と当時を振り返る。
実際、芦原会館を設立してからそのキャッチフレーズにまでなった「サバキ」は、芦原が極真空手時代から実践していた技術である。敵の攻撃を自らのポジションを変化させることによって受け流し、敵の死角を制してから反撃に転じるテクニック…これがサバキである。
芦原は試合全盛の空手界にあって、何よりも武道として、そして護身術として実際に使える技術の追求と、そのための稽古体系の確立に情熱を注いだ。それは並みの空手家ではできない高度な作業だったことはいうまでもない。
芦原英幸という人間が『空手バカ一代』の中で描かれた虚構のヒーローではなかったことは明白な事実である。生前の芦原はサバキの体系を追い求める一方で、芦原空手の競技化に向けて試行錯誤を繰り返していた。
芦原の生前、芦原会館では極真会館にならったフルコンタクトルールによる組手の他に、グローブ着用によるキックボクシング・スタイルの練習も採用していた。
現在、格闘技界を賑わしているK-1は元芦原の弟子だった石井和義の考案とされている。しかし、K-1の原点が芦原空手にあったことは疑いない事実である。



(「格闘技 史上最強ガイド」青春出版社/1999年8月1日発行・第2章「これが武道・伝統格闘技の真髄だ」からの抜粋)


※小島
現在、芦原氏の長男・芦原英典氏(2代目・芦原会館館長)による著書「我が父 芦原英幸」(新潮社)を製作中。年内発売予定。

samurai_mugen at 06:41|Permalinkclip!小島&塚本作品集 

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